□月星暦一五四二年 七月〈話題〉
シンシアは花嫁修業という名目で、翌月からユーク家入りした。
ユーク家の侍女が一斉に入れ替わったことに、シンシアが『使用人に嫉妬し、夫の気が向くんじゃないかと疑心暗鬼になって追い出したという』という
醜聞が流れた。
世間には女の方を悪く言いたがる輩が、どうしても一定数いるらしい。
「夫から全てを奪おうとしているのです。わたくしは悪女にでもなんでもなりますわ。女だからと見くびられない為ならば、なんだって!」
シンシアは気丈に言い放ったが、なかなかの茨の道なのは想像に難くない。
ユーク家のような問題は、中央の目が地方に届かなかったレオニスの世に幾箇所か起こっていたらしい。
シンシアの他にも何人か女性の領主や当主が生まれた。
被害者がそれだけいたという事実は痛ましいが、一人では無いことはシンシアにとっては救いであっただろう。
女性領主や当主の誕生は、竜護星では画期的な事柄だったのだが、それほど話題にならなかった。
もっと大きな話題に掻き消されたからである。
月星の王女の突然の来訪。
それに伴うアトラスの正体の露見。
レイナは月の大祭に招待され、アトラスはその際に月星に帰還することが決まった。
皆が興奮気味に語る、レイナを助けていたのが月星の王子だったという話題をイディールは複雑な思いで聞いていた。
アトラスがいつの間にかこの国に戻っていたことにも驚いたが、月の大祭にレイナが招かれたという事実の方がイディールには驚愕だった。
月星に於いて、最も重要視される祭りである月の大祭。それに女神信徒でも無い他国の者を招待するということは、それだけ月星側が重要視していると周りは見る。
正式な国交のない国にする待遇では無い。
現在の王はアトラスの兄である。
これはアトラスの為の招待なのだとイディールは悟った。
どういう経緯でアトラスが失踪したのかは知らないが、彼が戻る為の体裁なのだろう。
旅をしていたという五年間に『理由』をつけた。
そう考えると腑に落ちた。
月星の神殿の総本山、大神殿《王立セレス神殿》はアンバルの城の横にある為イディールは行ったことはない。
だが、その日は各地の神殿でも必ず行われる神事。
ジェダイトの街にいた頃は、中央神殿へ必ず出席していた。
毎年『タビス役』の者が選ばれ、女神に舞を奉納し、収穫を感謝し、翌年の豊穣を願い、祝う。
イディールが仕事を学んだ神殿でさえ、毎年羊一頭潰して振るまわれていた。
大祭に本物のタビスが六年ぶりに戻る。
それがどれほどの騒ぎになるのか、イディールには想像もつかない。
月星は大層沸くのだろうと思うと、少し胸の奥がちりっと傷む。
タビスという神官はいつの時代もいる訳では無い。むしろ居ない時代の方が多い。
自分が生きている時代にタビスがいる奇跡を喜ぶ感情は、月星人ならあるのだ。
それが、戦場の悪夢と呼ばれ、ジェイド側に多大な被害を及ぼし、父を斬った者だと理解していても、それはそれ。これはこれと、別物に考えてしまう矛盾。
それほど迄にタビスという存在は特別なのだ。
そう刷り込まれている。
イディールは戦場を知らない。だが、目の前にタビスが居たら剣を向けられるものなのだろうかとは思う。
直接的なジェイド派の敗因はライネス《父》が敗れたことだが、根本的な部分でタビスを傷つけることを忌避する本能が、被害が蓄積された原因だったのではないかと考えるようになっていた。
船旅の日程、月星での滞在期間などを考慮してレイナ達は九月の半ばには竜護星を発つ。
女官研修は丁度王の不在時に行われることになった。
アトラスは月星に帰る。
イディールが城に行く頃にはもう居ない。
会わずに済むと知ってイディールは安堵した。
同時に、残念にも思った。
噂でしか知らないタビス。
アトラス・ウル・ボレアデスという王子。
話す人間によって印象がまるで違う彼の、素顔を直接確かめてみたい。
そんな気持ちがイディールの中には、確かに存在していた。
第二章王女来訪直後位の話です
五章でペルラはアトラス達に、シンシアについてこの噂話の方を話しています。
女官頭のペルラが内情を知らなかったのか?とも思われましょうが、この頃ペルラ自身が節操の無い女的な醜聞を引きずっています。
繊細な内容ということもあり、モースの判断でペルラの耳に入れないよう取り計らっていました。




