□月星暦一五三九年〈雇用〉☆
閲覧注意
髪が鎖骨辺り迄伸びた頃、イディールにも雇用の話が舞い込んだ。
遠い南の国の貴族が侍女として雇いたいとのことだった。
その国は王が、前の王を弑逆して乗っ取ったばかり。
件の貴族は首都からはかなり離れた国の南端のユークという場所の領主だった。
わざわざ情勢が安定しない国に行く必要もないと、よく考えた方が良いと周りは言ったが、イディールは行くことを決めた。
神殿を出なければ何もは始まらない。
場所は気にならなかった。
地獄ならもう見ている。今更怖いものは無い。
そう思っていた。
※※※
悪い職場では無かった。
雇い主の当主ーー現領主のパテール・ユクナーと次期当主の息子のゾーンに、優しい奥様。
ゾーンも遊び呆けているわけではなく、父親の仕事を手伝い、学んでいる。
三人とも使用人を虐げることは無いように見えた。少なくとも、失敗を怒鳴りつけるようなことはしない。
働いた分だけの対価もちゃんと支払われる。
清潔な寝床に制服、着替えなどの備品の提供もある生活環境。風呂はもちろん、食事も悪くない。
領主は問題のある首都には頑なに行くことはしないが、領民には慕われていた。
一見、問題のない職場に見えた。
発覚したのは勤め始めて半年程経った頃だった。
食器を下げている最中にイディールはゾーンに呼び止められた。
「サラ、後で寝室に葡萄酒を持ってきてくれ」
ただ葡萄酒を頼まれただけの他愛の無い依頼。だが、同室の先輩侍女のコレガが僅かに乱した気配に、何を意味するか気づいてしまった。
「かしこまりました」
イディールは気づいたことを微塵も見せずに定型文を返した。
外の世界にはそんなこともあるのだろうと、異常とも思わず、心は動かなかった。
言われた通りに葡萄酒を届けに行き、『女性の初めて』を喪った。
※※※
神殿は何でも教えてくれた。
それこそ夜のお相手の悦ばせ方から避妊の方法までが課定に取り込まれていたのは、神官長が女性だったからだろう。彼女も苦労した人だったのかも知れない。
神官長は無知なままに摂取されるなと、一つでも多く、選べる手札を増やしてくれようとしてくれたのだろう。
当時はこれも知識という感覚で聞いていたが、まさか本当に役に立つ事態に遭遇するとは思っていなかった。
ゾーンが好きだったわけではない。
断って、職を失うのが怖かったわけでも無い。
誘惑してやろうとか、脅迫を考えたわけでもなければ、寵愛を求めて優位を得ようと思ったわけでもない。
行為自体に興味があったわけでもない。
投げやりになったわけでもない。
強いて言うなら、ただ見たかった。
与えられ、感謝されるのが当たり前と思い込んだ、誠意の意味を履き違えた愚かしい人間を通して、過去の自分の顔を見てみたかっただけだ。
※※※
「初めてなら、そう言えば良かったのに」
行為を終えて、ぐったりと横たわるイディールの首筋に顔を埋めながらゾーンは囁いた。
「言えば、何かが変わったのですか?」
「もっと優しく愛してやれた」
(愛⋯⋯?)
笑いがこみ上げてきた。
嘲笑に聞こえないようにするのに努力を要した。
寵愛を与えれば女は喜ぶと信じて疑っていない。施しは感謝されて当然と本気で思っている顔。
(救いようがない)
こんなのが昔の自分なのかと思ったら、なんだか泣けてきた。
(なんて滑稽で見苦しい)
涙の意味を履き違えたゾーンは優しく、イディールの髪を撫でる。
もう付き合う気のないイディールは、上掛けを引き上げて、ゾーンに背中を向けて眠りについた。
※※※
イディールは未明に自室に戻り、自分の寝台に潜り込んだ。
何食わぬ顔でいつもの時間に起きて、仕事に向かうつもりだったが、同室のコレガに止められた。
「あなた、ひどい顔している。今日は休みなさい。私が言っといてあげる」
思った以上に体は正直だったらしい。
実際、起き上がるのが億劫だった。
仕事に出ても、失敗を連発するのが目に見えていたので、ありがたく休ませてもらうことにした。
その後、同僚の侍女たちとの距離が一つ縮まったような空気があった。一種異様な連帯感。
ゾーンのお手付きになってない者がいなかったいうことだろう。
誰かに代わって貰うことを考えなかった訳ではないが、やはり先送りになるだけだったようだ。
父親のパテールが気づいていないとは思えない。
年がいってから出来た息子、あるいは上がいたが亡くして残ったのがこの息子だけなのかも知れないが、パテールが息子に甘いのは始めから透けて見えていた。
黙認しているのであろう。
親馬鹿もここまで来ると恥ずかしい以外の何者でもない。
そう認識した上で見ると、同僚の侍女たちが、やけに綺麗な娘ばかりだと気づく。
自分も顔で選ばれたことをイディールは悟った。
月星では承諾のない一方的な行為は、婦女暴行の罪に問える。
その刑罰の内容を思い出してイディールは思わず笑ってしまった。繰り返すようなら、喪うのは『男性にとって大事なもの』だったはずだ。
ここに今いる侍女の人数でも、月星なら充分適応されるだろう。
この国にも在るのだろうか。気になるところだ。
お読みいただきありがとうございます
重い話が続いてすみません
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