□月星暦一五三六年二月⑥〈過呼吸〉
結局、泣き疲れて眠ってしまったらしい。
翌朝アンナに起こされ、洗面所で見た顔は、目が腫れ上がって見るも無惨だった。
神殿の朝は朝拝から始まる。朝食の仕込みをしている者以外は、全員出席が決まりである。
百人以上いるのかも知れない。案外多い。男女比は六対四といったところか。
十歳に満たない者から五十歳を越えている者まで、年代はまちまちである。
見渡して、髪の長い女性は殆どいないことにイディールは気づいた。長くても背中にかかる位まで。皆、実用的な形に纏めている。
短い頭が恥ずかしくて仕方がなかったが、ここでは当たり前であることを認識する。
神官長が現れると、起立して女神への讃歌を歌った。着席すると説法かま始まった。
「皆さん、おはようございます。先日は、七十五年にも及んだ月星の戦争が終わったことをお話しましたね。先程、大神殿から連絡がありまして詳細が伝えられました。なんと!我らがタビス様が自ら終わらせてくださったそうです」
神官長の説法の内容がタビスへの称賛であることに、イディールは面食らった。
(どうして?)
「かねてから彼の方には、戦いを終わらせてくれるという予言がありましたが、見事女神の意向を体現して示してくださいました」
興奮気味の神官長の声に、神官達の間からも歓声が上がった。
(何を言っているの?)
「タビス様は、戦場では異例の一騎打ちに挑み、見事相手の将を討ち取って下さったそうです」
(タビスは、お父様を殺しただけじゃない!)
「さあ、皆さんこの後は町のお掃除です。お話を町の皆様にも聞かせてあげましょう。女神様はいらっしゃいます。タビスが証明してくださいました。英雄たるタビス様を讃え、女神様に感謝いたしましょう」
(止めて!町の人にもお父様の醜聞を広めようって言うの?止めてよ!!)
がたん。
大きな音を響かせて、サラは倒れようとする自分の体を支えた。
息遣いが荒い。
いくら息を吸っても空気が体に入ってくる感じがしなかった。
(はぁはぁはぁ……)
「サラ?」
遠ざかりそうになる意識。回る視界、崩れ落ちそうになる体を、隣りにいたアンナが支えてくれた。
「神官長、すみません。この子昨日、眠れなかったみたいなんです。具合悪そうなので連れて行きますね」
「一昨日来たばかりのサラさんですね。わかりました。アンナさん、お願いします」
アンナはイディールの脇の下に肩を入れて支え、聖堂から連れ出してくれた。
「医務室と部屋どっちがいい?」
「……部屋」
「分かった」
アンナに手伝ってもらい、イディールは自分の寝台に横になった。アンナの指示で口を覆って息をしてみたら、呼吸が整ってきた。
少し気分が良くなってきたので顔を上げると、アンナは向かいの寝台でじっとイディールのことを見つめていた。
「あんたジェイドの子だね。それもかなり中枢に近い」
「私、は……」
「答えなくていい。サラ、あんた分かりやすいのよ」
アンナはため息を吐いた。
「生き残りたいならね、隠しなさい。神殿にはアンブルもジェイドもないけど、ここは端っこといえ、アンブルの土地だからね。人の心は簡単に割り切れるもんじゃない」
「えっ……、ここってジェイドの地じゃないの?」
アンナは呆れた顔をした。
「あんたまさか、ここがどこかも知らないの?ここはポルトの港にほど近いバロスって町よ」
「いつのまに国境を越えていたなんて」
「バカだね。月星内に国境なんかないよ。あんた、何にも知らないのね」
アンナは鼻で笑った。
「でも、あんたをここに置いて行った人は賢いね」
「賢い?」
「今頃ジェイドの残党はきっと探されてるだろうけど、まさかアンブルの地で神殿に匿われてるなんて思わないよ」
灯台下暗しってやつだねと、アンナは頷く。
「ここまで捜索の手が回る頃には、すっかりあんたはただの神官の一人になってるだろうさ」
「そう、なの?」
カルゴは捨てたのではなく、ここにイディールを隠したのだろうか。
(判らない)
髪を切られたのも、長い髪がイディールだと宣伝して歩いてるようなものだからだろうか。
(判らない)
イディールは何も判らない。判断の仕方すら判らない。
「サラ。辛いのが自分だけだと思わないことよ。ここにいる連中がみんな似たりよったりなんだから」
言っていることはきついが、アンナの口調を優しかった。
涙が溢れてきた。
一瞬で全てを失った。
父を失い、身分を失い、居場所も財産も失った。
一文無しで、名前も自慢の髪まで失って、地方の神殿の、木材を組み立てただけの粗末な寝台の上で泣いている。
「タビスってどんな人なのかしら。大神官様の上の神官の頂点で、英雄って謳われて。さぞかしいい気分でしょうね」
思わず、恨み言が口を吐いた。
「そんなにいいものかね。刻印があるから、女神の意思だからってずっと戦わされてきたんだよ?子どもが、だよ?神官たちには崇められてさ、きっと弱音も吐けないよ?今のあんたみたく、泣くことも出来ないだろうよ」
ポンポンとイディールの短い頭をアンナは撫でる。
「少し眠りな。あとで食事もってきたげる」
「つき合わせて、ごめんなさい」
「いーよ。お陰で外掃除サボれたもん」
明るくにかっと笑うアンナの笑顔に、イディールもつられた。
同室の子がアンナで良かったと思いながら、イディールの瞼はゆっくりと落ちていった。
お読みいただきありがとうございます
ポルト:港
バロス:灯台
第六章□月星暦一五三六年二月⑤〈作戦〉は、この神殿にはもう届きました。
人物紹介
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女性は長い髪を結い上げるのが当たり前の時代で、レイナの髪はさすがに奇異に映っていましたが、一般人は、束ねられる背中位の長さが主流です。
腰以上に長く伸ばし、手入れを怠ることなくいられるのは貴族、王族といった上流階級だけでした。




