□月星暦一五八五年六月⑧〈記憶〉
□サクヤ
『父君にはお世話になった。何かあったら力になるよう、言われているんだよ』そんな言葉で、まだ今のサクヤ位だった年若いシモンは見事にまるめこまれた。
「あっという間だった。借金の担保に、大方の土地をコルボーに取られて、今に至るわ」
「担保に?だってそれは……」
「取られたのよ」
アトラスが口を挟む間を与えず、サクヤは話を続けた。
「そして、私は借金のかたに嫁がされるの」
妹に劇甘なシモンが、サクヤの嫌がることはしなさそうなものだ。
そう、アトラスは指摘するが、サクヤは苦々し気に唇を歪めた。
「持参金無しでもらってくれるような奇特な人、他にいないから、ですって。仕方がないわよね。わたしって、穀潰したもの」
サクヤは割られるのを待つ丸太の一つに腰掛け、だらりと両足を投げ出す。
「だから、『結婚してください』か」
「悪いことかしら?」
「驚いたがな」
そんな素振りを見せなかったくせにと、サクヤは毒づく。
「コルボーは五十歳を過ぎたおじさま。三年前に奥方を亡くしたばかりなのに、葬儀の一月後には後妻に入れって言いだすような……」
サクヤは冷めた口調で気怠げに伸びをする。
「だから、レイナに成り代わりたかった?」
いつのまにか、薪を割る音が途絶えていた。青灰色の瞳が、伺うようにサクヤを見つめている。
「聞いたんだ……。兄さんったら……」
サクヤは溜め息をついて、天を仰いだ。
「荒唐無稽な話よね。笑い飛ばしてくれてもいいわ」
「夢とやらは、今も見るのか?」
「それはもう、毎晩の様に」
振り返り、目に入ったアトラスの眼差しが思いの外真剣で、サクヤは面食らう。
「信じて、くれるの?」
「さあな。だが、有り得ないことでは無いだろう」
「……」
こらえて、視線を逸らすサクヤ。
肯定してくれるのは今まで、兄以外いなかった。
「例えば、最近はいつ頃の夢を見ているんだ?」
「……執務に追われながらも、二人の子供がいて、あなたがいて、幸せな時間。レイナは二十四、五歳かしら」
それは恐らくレイナが一番幸せった時分。ウェスペルが存命でマイヤがまだ、ただの子供だった頃。
「朝起きて、現実に引き戻されて、何度となく泣いたわ」
「ユリウスも惨いことを……」
呟くアトラスを、サクヤはきっと睨みつける。
「『彼女』には……、『彼女の体験』には、随分助けられた。そんな風に言わないで!」
「君の人生は君だけの物だ。レイナに引きずられる必要は無い。彼女は……とっくの昔に死んだ人間だ」
「レイナはわたしの中で生きているっ!」
サクヤはアトラスの真正面に立った。
「おそらく、それはユリウスが見せてるだけのまやかしだ。ただの記録に過ぎん」
「いいえ、あれは『記録』じゃない、『記憶』よ。わたしがこの身体で体験したものではなくても、その記憶と共に生きてきた。本を読んで物語の主人公に感情移入したのとは違う。その瞬間、わたしは確かに『彼女』で、自身の目で見て、話しているの。その体験には感情が伴うの。あれは、わたしの『思い出』でもあるのよっ!」
その表情が、あまりにもレイナに似ていることにサクヤ自身は判らない。
目を逸らすアトラス。
「アトラスっ!」
「少し、考えさせてくれ……」
そう言って、アトラスは背を向けた。
「あなたなら、分かってくれると思っていたのに……」
絞り出した声は、届かない。
歩み去る背中を見送り、サクヤは両手で顔を覆う。
夜、眠りにつけば、またレイナの記憶の中だろう。
幸せで残酷な夢。
それが、いたたまれなく今は辛い。




