■月星暦一五八五年六月⑤〈領主〉
促されて向かったのは食堂だった。
女性はてきぱきと給仕を始め、サクヤも手伝って食卓が整う。
支度が済むと給仕をした女性も同じ席に付き、驚くアトラスに自分はシモンの妻のアミタだと名乗った。
「フェルター殿はお若いが領主でいらっしゃる?」
「シモンで結構です。伝説の人物にそんな話し方をされると、緊張して舌をかみそうですよ」
本来なら会うこともままならない方のはずだとシモンは微笑する。
では、とアトラスは口調を改めた。
「これでも、領主となって十年近くなります。それでこの様なのは、お恥ずかしい限りですがね」
食事は、領主のものとしては、おや、と思う程度に質素だった。だが、味は良い。スープは薄味だが素材の味をよく引き出しており、香草入りのパンは中は柔らかく、外側は程よい硬さで香ばしい。
素直に褒めると、アミタは初めて微笑した。
「最初は膨らまないパンや、焦げた肉を出されたものですよ」
シモンが余計な口を挟み、女性陣に睨まれる。それでも険悪な雰囲気にはならない。その失言も含めてこの男が愛されているのが伺えた。
どこか憎めないその裏表が無い性質が、家族は勿論領主としても慕われている理由なのだろう。
食事が済むと、女性陣はさっさと席を立って行ってしまった。他に人の気配がしないので、後片付けも彼女達が自らするのは想像に難くない。
残された男性陣は、場所をテラスに移した。
「なんというか、順応が早いね」
名前と月星訛りだけで、『アトラス』を結びつけることは今はまずない。
その名前、その存在がある種の希望だったのは過去の話だ。
それも、五十年も前の話。
そんな人間が、かつてとほとんど変わらない姿で存在しているのを知れば、ふつう人は化け物の類を見る顔になる。『女神の奇跡』や『神秘』などと上位互換されるのは、女神信仰の根深い月星においてのみと言っていい。
そう、指摘するとシモンは少年のような顔になった。
「大国月星の『タビス』、『アトラス』さま。その英雄譚には子供心に憧れたものです」
アトラス本人にとっては、若かりし日の苦い経験でしかない。
いちいち目くじらを立てて否定していた時期もあったが、聞き流せる程度には時間が経ち過ぎていた。
「それに、あなたの事は昔からよく妹が話しておりましたから。まさか本人にお会いできるとは、光栄ですよ」
聞き流せない一言があった。
「サクヤが話していた?」
「妹のことで、いらしたのでは無いのですか?」
「失礼だが、妹御とは初対面だ」
「……」
「何の話をしている?」
「妹の、『夢』について聞いたのでは無いのですか?」
互いに疑問形の応酬が続いた後、シモンは困ったような顔をした。
「サクヤは話した訳ではの無いのか……」
シモンは逡巡し、やがて口を開いた。
「突拍子の無い話なのですがね、サクヤは夢の中でもう一つ人生を送っているのですよ」
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