■月星暦一五八五年六月④〈領主邸〉
「サクヤさま、いつ外に?」
「シモンさまが真っ青な顔で探してましたよ」
街に入る門を通る際、門番が声をかけてきた。街の門というのは、夜になると閉まるものだから、サクヤは抜け出したことになるが、アトラスは追及しない。
「旅券は改めないんだな」
「ここは小さな島だから。港で出入りが把握できてればいいのよ」
「なるほど」
通常ならばそれで十分。港で無い場所は地形上、船がつけられないということだ。
空からくる人間は限られている。現在は竜に乗ることが出来る人間は、王宮が把握している。
「あら、サクヤさま。おはようございます。シモンさまがお探しですよ」
「一人で森とか行っちゃ駄目ですよ。何かあるなら、声をかけて下さいましね。シモンさまが大騒ぎしますから」
どこかのんびりとした口調で、すれ違う人という人がサクヤに声をかけてくる。
「有名人なんだな」
「まあ、小さな街だし。兄が過保護で……」
そう言って、サクヤは苦笑した。
※※※
やがて、サクヤに案内されたのは周辺では一番立派な建物だったが、庭木は伸び放題、明らかに手が行き届いておらず、どこか荒んだ印象を受けた。
聞けば、このフェルンの街の領主邸だという。
呼び鈴を鳴らすや、サクヤによく似た色素の薄い髪色の男が飛び出してきた。
年の頃は三十代前半といったところ。サクヤの顔を見ると、あからさまに安堵の表情になった。
「サクヤ!あんな置き手紙ひとつで抜け出して、捜索隊を結成するところだったぞ」
そこまで言って、男はサクヤの後ろに佇むアトラスに気づいた。
「あなたが妹を連れてきてくださったのですか」
アトラスが頷くと、サクヤの兄は深々と頭を下げる。
「わたしはシモン・フェルターと申します。妹を、ありがとうございます」
「俺はアトラスという」
月星訛りの、アトラスと名乗る男。それだけの符号でシモンの顔色が変わった。
「まさか……」
『天を支える男』などという、そんな大層な名を、ましてやかつて英雄と呼ばれた男の名をわざわざつける者はいない。
恐れ多くて普通はつけられない。
「いや、でも、そんなはずは……」
「そのまさかだと言ったら?」
ニヤリと笑うアトラスに、シモンは愕然とする。
「楽しんでるでしょう?」
サクヤが呆れた口調でアトラスを睨めた。
「本当にあの、『アトラス』さまなのですか?」
「違うと言うのは簡単なのだが、残念ながらね」
言って、アトラスは右腕の袖を捲り上げた。
「見たいのはこれだろう」
そこには、特殊な形の痣があった。
月星では『女神の刻印』と呼ばれる『タビス』の証である。
驚いたのはサクヤ。
「人目に触れることを極度に嫌がっていたのに……」
「……?」
「いえ、そう聞いていたから……」
「まあね。今は俺が俺と示せるものが、あまりなくてね」
見た目だけなら、シモンとそう変わらない年だが、実質六十年以上この世にお世話になっており、兄と実の娘に、わざわざ身分証明を書いてもらう身の上である。
「シモンさま、パンが焼きあがっております。お客様もどうぞ、食事に致しましょう」
室内からエプロンをした女性が出てきて声をかける。
恩人をいつまでも玄関先で立たせておくなということらしい。




