■月星暦一五七三年六月②〈事象〉
時系列的に、十章終話の続きになります■はアトラス基本視点です
腕に指が当てられる感触でアトラスの目が覚めた。
「あれ、エブル?」
定まらない視界に白っぽいシルエット。まばたきを繰り返し、頭がはっきりしてくると、覗き込んでくる萌黄色の瞳が心配そうな表情を浮かべているのが判った。
「良かった、アトラス様。起きられましたね」
身体を起こそうとすると、エブルは脈を取っていた指を離して手伝ってくれた。
アトラスは見渡して、状況を把握する。
ここは竜護星アセラの城内、アトラスが自室として使っている迎賓棟の一室。
脱ぎ散らかしたままの衣服に、浸かり終わって冷めきった水が張ったままの湯船。かろうじて寝衣には着替えたが、寝台に辿り着いて力尽きたのが見て取れる。
「ひどいな……」
発した声も嗄れてひどい。
「休むと言って部屋に籠もったっきり、なかなか起きてこないので見てくるようにと陛下に言われましてね」
苦笑しながらエブルはアトラスに飲み物を渡した。
口に含むと、身体が欲しがっていたのだろう、一息に空になった。
「美味い」
「それが美味しいということは、脱水状態ですね」
中身は砂糖と塩を溶いた水にレモンを絞ったものだ。充ち足りている時に飲んでも美味しくはない。
「俺は、そんなに寝ていたのか……」
お代わりを受け取りながら
尋ねると、
「丸一日以上ですね。もう昼になりますよ」と、驚きの言葉が返ってきた。
「相当疲れていたようですね。身体に違和感は?」
「少しだるいくらいかな」
言って、刻印が晒された右腕を持ち上げた。一応聞いてみる。
「右腕は問題ないか?旅の間に骨か折れたんだ」
「なんですって?」
エブルは医官の顔で腕を検める。
エブルも今年五十六歳。
竜護星王家の筆頭医官としての地位にあり、初めて会った頃のモースの歳に近づこうとしていた。
モースは七年前に他界している。エブルはモースの養子になり名を『エブル・リム・ブライト』と改めて、ブライト家の家長となっている。
「触診した限りでは、問題ないですね。綺麗にくっついています」
「それなら良かった」
骨折は一昨日の夜、しかも砕けたということは黙っておいた。ユリウスはしっかり治してくれたらしい。
「何がご要望はありますか?」
「……風呂だな」
湿っぽい寝衣に触れながらアトラスが言った時だった。
「失礼しますね」
入ってきたのはサンクだった。
彼はアトラスの従者として月星から来た人物だが、しばしば置いていかれる。月星では神官でもあったサンクはタビスの行動は女神の意志と理解している為、アトラスの奔放さについては諦めているらしい。
サンクの後ろには四人の使用人が空の湯船を運び、更に湯の入った桶を運ぶ者が数人続いた。
「事象が一つ確定したようです」
「だな」
アトラスとエブルは顔を見合わせて苦笑した。
これがマイヤという巫覡がいるということ。
マイヤはアトラスのことは視られないという。前日帰城したアトラスを鬼の形相で怒ったのも、それが理由だ。
未来視のできるマイヤには、視られないことが常人以上に不安なのだろう。
起きて来ないアトラスがいつ起きてくるかはマイヤには判らない。視ることができるエブルを向かわせ、接触することでエブルを通してアトラスが起きることを知る。会話することで風呂を求めている事象が視える。
アトラスは例外として、マイヤが個人を特定して視られるのは、会ったことのある人物だけという制約があるのだが、慣れない人間にはかなり恐ろしい能力に映るだろう。
使いっぱなしの湯船の栓を抜き、水を捨てると運んできた湯船と入れ替え、湯を張る。
サンクは脱衣籠に脱ぎ散らかした服を集めるとアトラスに向き直った。
「お昼の支度をしています。お風呂が終わったらお越しくださいと、陛下からの伝言です」
「……了解」
本当にお小言が待っているらしい。
「頑張ってください」と気の毒そうに言い残してエブルは出て行った。
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人物紹介
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