■月星暦1573年6月⑬〈始祖〉
目を開けると白み始めた空が見えた。身体は動くようになっていたが重い。
腕の骨折や脱臼は治されており、熱は下がっていた。
身体を検めると、レイナが遺した一つを除いて、古い傷痕がなくなっていた。
舌を這わせながら、ユリウスが一つ一つ治していたのだとアトラスは理解した。
理解はした。
だが、その感触を思い出して、鳥肌が立つ。
到底許せるものではない。
指で触れるだけで治せただろうにあのようなやり方、アトラスを屈伏させたかった以外の理由が思い浮かばない。
そのくせ、脇腹に吸引痕を一つしっかり残していった。
自分の所有物とでも言うようで、意地が悪い。
「くそっ。これも消していけよ!」
早く風呂に入って、頭の天辺から足の爪の先迄全てを洗い流したい。
大きな犬にでも舐められたのだと、そう思おうと無理やり切り替える。
アトラスは床に散らばった服の残骸に目を落とした。
旅の途中で良かった。
荷の中に着替えは一式揃っている。
外套はないが、ズタズタにされたものを羽織るわけにもいかず、他の衣服だったものと一緒にゴミ箱に突っ込んだ。
階段を降りていくと、店番がニヤついた顔で声をかけてきた。
「ずいぶんと激しかったようで」
隣の音が聞こえて来ない程度には壁は厚かったと思うが、気にしている余裕も無かったから断言できない。
無視して通り過ぎようとすると、真新しい外套が差し出された。
「お連れさんからです」
合点がいった。
「ちょっとはしゃぎすぎちゃって、あの人の外套を破ってしまったの。渡しておいてくださる?」とでも、イディールの姿で言ったのだろう。
いちいち気が利くのが腹立たしい。
「どうも」
奪うように受け取ると、乱暴に羽織って出口に向かう。
「またお待ちしています」
背中にかけられた声に、二度と来るか!とアトラスは毒づいた。
人目を避けるように路地を抜けてファタルを出る。
街道から少し離れた場所で竜を呼び、アセラを目指す。
風呂の支度をしておいてくれと念じたら、マイヤに伝わらないかと思いながらアトラスは空を翔けた。
湖側の通用門から入ると、仁王立ちでマイヤが待っていた。
「半年も連絡も寄越さないで、こちらからお話がしたい時もあるのです」
その怒り方がレイナにそっくりで、親子だなぁと思うと、アトラスのささくれだった心が少し和んだ。
「お父様、どうしました?」
マイヤが怪訝な声を出す。
「なんだかやつれているように見えますが」
マイヤに過去が見られなくて良かったと、心底アトラスは思った。
娘には、いや、娘にだからこそ、あんな辱めのような夜は知られたくない。
「小言は後で聞く。少し休ませてくれ」
マイヤはふんと鼻を鳴らし、「お風呂の用意はしてあります」と言った。
伝わったらしい。
鉛のように重い身体を引き摺って自室に戻る途中、城内いたるところに刻まれた女性の像に目が止まった。
竜護星の始祖アシエラの彫像と謂われている。
ユリウスはアシエラに能力を渡したとされている。実際に二人は会っている。
「まさかな……」
アトラスの脳裏には、昨夜の長い銀髪を一つにまとめた小柄な女性の姿が過ぎったが、努めて頭の中から追い出した。
十章「盟約」完