■月星暦1573年6月⑪〈刻印〉
本格的に熱が出てきたらしい。アトラスの顔は火照り、身体は汗ばんでいた。右腕の感覚は無い。
弛緩した身体を無防備に晒したまま、アトラスは動けない。
ユリウスはいつもの姿をとり、アトラスが横たわる寝台に腰掛けた。
右腕の刻印を指先でつとなぞる。
「なぜ、その痣を持つものがタビスと言われるのかは知っているのか?」
アトラスは熱で潤む目を軽く瞠る。
痣があるからタビスと言われつづけるも、なぜ痣があるとタビスなのかは考えたこともなかった。
「人は、認識の範疇を越えた出来事をしばし神懸りと言う」
「突然、何を言いだす?」
予期したらしい反応にユリウスは小さく笑う。
「昔話をしようか」
紫水晶の瞳が、すと遠くを見るように細められた。
「本当に大昔のことだ。月星の民がまだ国を持たず、放浪していたころ。セレスが力を貸したことがあった」
「……セレスティエルは、実在したのか?」
心底怒っているのにアトラスは問うてしまう。好奇心には勝てない性分は直せない。
「いるよ。神などではないがね」
誰よりも女神に近いと言われながらその存在を疑ってきたアトラスの反応に、ユリウスは苦笑しながら答えた。
「……人間は、人を超えた力を持つものを神と呼んだ。理解できない力だから、すべては神の御技だと、そう押し込むことで納得しようとしたのだ。月に女神が居るという信仰がセレスを見て生まれたのか、以前からあった信仰にセレスを当てはめたのかは知らないが、今に残る女神像の手本がセレスの容姿なのは明らかだ」
セレスが現れたのが満月であったことも理由になったかも知れないと、ユリウスは言う。
「その時、セレスは自分の助手に少年を一人連れていた。セレスを女神と信じた人々は、その少年のことはタビスと呼んだ」
「タビス……」
ユリウスはうなずいてみせる。
「意味は『偉大な鳥』だったか。女神を補佐するほどの少年だから、偉大だとかそんな意味だろう」
「……その少年に痣があったのか」
アトラスの声は強張っていた。
タビスはその少年の生まれ変わりだとかいう話なら勘弁して欲しい。
「少年に痣はなかった」
ユリウスは続ける。
「後にも先にもセレスが関与したのはその一度だけ。だが、二人のことは語り継がれていった」
しかし伝説は歪む。存在だけが強調され、何をしたかなどは霧散し、都合のよい解釈だけが付加されていった。
「『人間』で初めてタビスと呼ばれた者は、今で言う竜護星の出身の青年だった」
「竜護星って、なんでまた?」
「竜に乗っていたその者を神の使者と誤解し、タビスが舞い降りたと信じた」
アトラスの口からため息が漏れる。
「誰だ、その莫迦は?」
「ネートル」
「ネートル、だと?」
呆れた顔でアトラスはその名を呟いた。動けていたら頭を抱えていただろう。
ネートルは月星の創始者と言われている人物だ。
「我にタビスが舞い降りた。我に女神の加護有り。我こそは王なりと、のたまったのだよ」
案外創国の物語なんてそんなものなのかもしれない。アトラスは鼻で嘲笑った。
「竜護星の青年は、自分がタビスと呼ばれて納得したのか?」
「いいや。その者の心は別のところにあった。ただ、ネートルのことは恩人として力を貸していた。腕もたつし、人間としてはなかなかどうして、すばらしい人物だったよ」
ユリウスが人を誉めるのは珍しい。
「私はその魂に再び会いたいと思ったのだ」
ユリウスの顔が懐かしいものを見るように綻んだ。
「だから盟約を交わした。その証に刻印を刻んだ。次に会っても彼と分かるように」
「しるし……」
「そう。その痣は《《女神の刻印ではなく》》、私がつけた《《私の刻印》》だ」
「やっぱり……」
アトラスは疲れたように息を吐いた。
「……そんな気はしていた」
お読みいただきありがとうございます
二章でアトラスがなんとなく感じていた憶測、ユリウスから言質がとれました。
女神の刻印では無くユリウスの刻印だったと判明しましたが
タイトルは変えません 笑