■月星暦一五四一年七月⑮〈流血〉
「アトラス、こちらは制圧した! 皆、自由だ」
息を切らしながら走り込んで来たハイネの声に、アトラスの気が刹那逸れた。
一瞬、押さえる手の力が緩んだ。
「いけないっ!」
抜け出したレイナは、ハイネに向かって走り出した。
「レイナ?君なのか?」
幼馴染の顔にハイネは立ち尽くす。
動揺するハイネは、レイナが短剣を隠し持つのを見落とした。
「逃げろっ!」
レイナを追いかけ、アトラスは叫んだ。
思うより先に身体が動いていた。
追い抜きざまレイナを突き飛ばし、ハイネとの間に身体を滑り込ませる。
振り向きざまにアトラスの青灰色の瞳が映したのは、自分に向けられた鈍く光る短剣の刃。
悟った次の瞬間には、肉を裂く鈍い音を聞いていた。
鮮血がレイナの無表情な顔を、衣服を赤く染める。
アトラスは、それが自分のものと理解するのに時間を要した。
妙な気分だった。
痛みを感じているはずなのに、それが分からない。
ただいやに心音が大きく感じられ、身体が自分のものでないような違和感を覚えていた。
膝が崩れる。
手をついて床に倒れるのは防いだアトラスのもう一方の手は、無意識に傷口に当てられた。
(ーー俺は死ぬのか?)
ただ立ちつくし、自分を見下ろしているレイナの顔を見つめた。
レイナの手によるならそれもいいかもしれない。
そんなことを考える。
五年前、何の目的もなく彷徨っていたアトラスの目の前に現れたのは、記憶を喪った見知らぬ少女。
その娘の為にと旅に出て、その途中で命を落とすのも、自分のような者にはぴったりかもしれないと自嘲する。
身体が重い。
感覚が麻痺してくる。
そんな状況の中、アトラスの視界の隅にとらえられたのはレオニスの満足しきった陰気な笑みだった。
(ーーだめだ!)
アトラスは手を伸ばし、レイナの肩をつかんだ。
「目を覚ませ、アストレア」
息が荒い。
声がひどく遠くに聞こえる。
出来ることなら、このまま瞼を閉じて横たわりたかった。
だが、これだけは伝えなければならない。
「あいつは、お前の兄なんかじゃない。あいつは、倒さなければ……」
今一度、アトラスはレイナを見た。
海色の瞳に変化は見られない。
(ーーきれいな顔が俺の血なんかで、汚れてはいけない……)
拭おうとして、余計汚れてしまった。
力が抜ける。
もう、体を支えて入られない。
「ごめんな。お前を守るとか、言っていたのに……」
アトラスは言ったつもりだった。だが、言葉は形にはならなかった。
腕はレイナの肩から離れ、床に滑り落ちた。
その身体も自ら流した血だまりの上に倒れ込んだ。
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