■月星暦一五四三年十一月④〈偽装〉
移動した場所はアトラスの寝室だった。
ウィルの要請により、アトラスは怪我人かも《《知れない》》という体を装うことになった。
襲い掛かった者たちも、その見届け役も戻らない場合、今度は偵察役の者が状況を確認しにやってくる。
ならば、 橙楓星には《《そう》》思わせてやろうというのだ。
連中に突然襲い掛かられたアトラスは負傷。全員を倒すものの傷は悪化。しばらく動けない。でも竜護星はそれを必死に隠している。
そういう設定である。
難色を示したのはレイナ。
敵をだますには味方からと言うとおり、城内に留まらず国全体を偽ることになる。
だが、悲しいかな竜護星は月星に従う側の国である。そして、アトラスは竜護星国主の伴侶ではあるが、竜護星国主のものではない。
アトラスの国籍は月星にあり、月星の大事の場合はそれを優先し、王子として、あるいはタビスとしての役割を為さねばならない。
これはアトラスが月星を離れる条件のひとつだった。
「気に入らないな」
血まみれの外套を脱ぎ捨て、寝台に腰掛けたアトラスはゆっくりと見回して言った。
その仕種は、大きな虎が目だけを動かして獰猛に様子を伺っているのに近いものがある。
この部屋にいるのは竜護星国主夫妻と月星から来た二人。宰相であり王族の医師を兼任するモースと医官のエブルだけである。
ライ・ド・ネルトはサンクを連れて湖畔の現場確認に行っている。
何が出てくる訳でもなかろうが、死体をそのままにしておくのも具合が悪いということで、レイナが行かせた。
ウィルとハイネの話を要約するとこうだ。
敵は月の大祭が終わるのを待っていた。アトラスが月星を離れるのを見計らって宣戦布告をしてきた。
有事の際、アトラスは契約上、月星に戻らねばならない。
竜護星に帰城したアトラスが、情報を得て月星に再び舞い戻るのを阻む為、行われたのが今回の奇襲となる。
戦場におけるタビスたるアトラスの存在、その頼もしさはまだまだ月星人の記憶に新しい。居るだけで士気があがる。
橙楓星の意図は理解出来るものである。
相手の士気を削ぐのは戦法として間違ってはいない。
ならば、橙楓星には奇襲が成功したと思わせる。居ないと思っているアトラスが戦場に居たという状況で、今度は月星側が相手の士気を削ぐ。
ウィルが要請しているのは、そういう駆け引きである。
「月星で俺はこれ以上目立たない方がいいんだがな」
呟きに近い言葉。
しかし、事実だった。
橙楓が懸念する様に、月星に戻れば、アトラスは月星王の弟というだけではなく、タビスとして期待と羨望の元に晒される。
アトラスは、自分のために成果をあげようと考えた事はなかった。
戦果は王に集中せねばならない。アウルムのものでなくてはならないのに、戦う前からアトラスに期待する状況はよろしくない。
「自分をおとしめるようなことは言いなさるな」
モースがそっと諌める。
何にせよ、有事ならばアトラスは行かねばならない。
衣装部屋に入り、手早く旅装に改める。ウィルにも別の外套を貸与した。
「レイナ」
アトラスは難しい顔を晒す妻の前に立った。
「すまない。お前とお前の国に迷惑をかけることになってしまった」
レイナは首を振る。
アトラスに詫びる必要なんて無いと、瞳で訴えていた。
「気を付けて……」
短い挨拶。
精一杯自分を抑えた台詞にアトラスは微笑った。
レイナ以外に向けることのないだろう、極上の笑みを浮かべると、ついばむようなキスをして露台に向かう。
城の露台は大きい。竜が降りられる程の広さがある。
呼ばれた竜は二頭。
さっさと一頭に乗って飛び立つアトラス。慌てて後を追うハイネとウィル。
竜に乗った三人の姿は朝焼けの中に紛れて消えた。