□月星暦一五四二年十月〈大祭前夜〉
3章〈秘密〉直後のエピソードです
『訓練』ということにした魔物案件。
アトラスと共に収拾し、後宮から戻った執務室で、アウルムは状況確認を兼ねてアトラスが執務室に来るまでの経緯を聞いた。
アウルム自身は魔物に言わされた命令を出した後は、執務室に籠もっていたから委細は知らなかった。
神殿からの護衛はたった二人。
アトラスが一人も殺さず、怪我もさせずに、ネウルスの相手までして執務室に辿り着いたと聞いて、さすがに肝が冷えた。
タウロ達の助勢が入ったとはいえ、無茶が過ぎる。
その後も途切れない苦情を、ネウルスに丸投げして執務室を逃げ出した頃には、空は白み始めていた。
月の大祭の神事は真夜中になる為、この日は日中に仮眠を取る。
まだ起きていると踏んで、王立セレス神殿に向かいアトラスの部屋を訪ねた。
部屋には、この日にしか使われない特別な香が焚かれている。
身を清めて、通常の神官服を着用したアトラスが窓辺の長椅子で寛いでいた。
アウルムが来るのを予想していたのだろう。
卓の上には白葡萄酒の瓶と使われていない杯が一つ。自身は既に口をつけた杯を手にしていた。
月星では白葡萄酒は、神事絡みでしか飲まれない。
葡萄の皮や種を除いて絞り取った果汁だけで作る為、赤葡萄酒よりも手間がかかるというのもあるが、色の無いこの酒にも清めの意味があると考えられている。
アウルムが座ると、アトラスは杯に酒を注いだ。
アウルムは受取り、口に含む。弟と二人、ただ酒を酌み交わすだけのこの沈黙を暫し楽しんだ。
二人だけという状況は初めてかも知れない。
すっかり大人の顔をして酒を嗜むアトラスの姿にアウルムは見惚れた。
口を開いたのはアトラスが先だった。
「お手数をかけて申し訳ありませんでした」
律儀に謝罪してくるが、忠告されていたのにアウラの姿に油断し、絡め取られたアウルムの落ち度である。
ここで謝罪のなすり合いをしても仕方がない。そんなことの為に来たのではない。
「お前が無事で良かった」
神殿はタビスを護る。
そこは信用していたが、まさか二人しか護衛を連れてこなかったのには正直驚いた。
アトラスのことだから、用意周到に事前に根回しをしていたのは想像に難くないが、今回もタウロのぶれない姿勢には感謝しかない。
無茶を嗜めると、
「正常な月星人は根本的な部分で、本気で『私』を傷つけることを躊躇いますから」と困ったように語った。
だからこそ、最前線での戦いの日々を生き残れたのかも知れない。
執務室前を護っていたネウルスに、「アトラスに従えと言っておいただろう」と責めたら、珍しく泣きそうな顔をしていた。
彼もまた月星人だったということだ。
六年ぶり。
積もる話がある。聞きたいことも山程ある。だが、まずせねばならない話はこれだろうと、アウルムは口を開いた。
「これで、私はお前を『返して』もらったという理解で良いのかな?」
「そう、なりますね……」
少し言い淀んで、アトラスは顔を上げた。青灰色の瞳に真摯な色が混じる。
「その上で、お願いがあります」
「言ってみろ」
「私は、レイナを伴侶に欲しい。竜護星に行くことを許していただきたい」
アリアンナが「お兄様は多分レイナのこと、好きよ。多分レイナも」と噂話を語るように言うのを聞いていたから意外には思わなかった。こうも直截に言ってくるとも思わなかったが。
「……俺は、あいつと共に歩みたい」
断言してから、顔を赤らめる二十歳過ぎた弟を可愛いと思うのはおかしいだろうか。
アウルムは同時に感慨深かった。アトラスか自らの為に何かを望むことは皆無だったからだ。
「お前は好きに生きていい」
一抹の淋しさを覚えはしたが、アウルムがアトラスを阻むことはあり得ない。
「レイナ殿は合意してるのか?」
「先ずは、兄上の了承をと思いまして」
つまりは言っていないという訳だが、その口調には彼女か断らない確信がある。
「では、宴で告白するわけか」
「宴……」
アトラスが固まった。
「どうした?」
「しまった、衣装を用意してない……」
アウルムは笑った。腹の底から笑った。
石橋をかち割る勢いで準備を怠らないのに、ぽっかりと抜けている。
それだけ魔物への警戒に意識をとられていたのだろうが、やはりこの弟は可愛い。
アウルムは自分の予備の衣装を提供することにした。