都市伝説や怪談における、被害者が加害者の子供の口を借りて罪を暴く展開への疑問と考察
美男美女の夫婦に待望の第一子が産まれたものの、その顔は両親とは似ても似つかない醜い物でした。
醜い第一子を愛せなかった両親は、旅行中に子供を湖に突き落として殺してしまいます。
ほとぼりが冷めた頃に産まれた第二子は可愛らしい顔なので、両親は愛情たっぷりに育てたのですが、何故か第一子の死に場所である湖へ行きたがるのです。
後ろめたさを感じながらも、我が子を連れて湖へ出掛けた両親。
すると、可愛らしかった第二子の顔は醜悪な第一子そっくりに変貌し、「今度は落とさないでね。」と憎々しげに呟くのでした…
怪談や都市伝説のお好きな方でしたら、このような御話を御存知かも知れません。
この都市伝説は俗に「今度は落とさないでね」と呼ばれていまして、我が子に転生した被害者が加害者の過去の殺人を告発する所に、因果応報的な恐ろしさが御座いますね。
−殺人事件の被害者の魂が、加害者の子供の口を借りて事件を告発する。
このような筋書きは、何も「今度は落とさないでね」に限った物では御座いません。
怪談落語の「もう半分」では、娘を吉原に売って作った大金を酒屋に置き引きされて自殺した老人が、酒屋夫婦の息子に転生して恨みを晴らしていましたし、「真景累ヶ淵」でも、夫である谷五郎に池に突き落とされて死んだ累という女性が、谷五郎と後妻の間に生まれた娘の菊に取り憑く形で、自分の死の真相を告発していました。
加害者の子供の口を借りるのとは少し違いますが、中絶出来ずに産んでしまった赤ちゃんをコインロッカーに捨ててしまった女性が、後に同じコインロッカーの前で見知らぬ子供に「(自分のお母さんは)お前だ!」と罵られてしまう「コインロッカー・ベイビー」という都市伝説も、これらの話の変化系と言えそうですね。
老子曰く、「天網恢恢、疎にして漏らさず」。
どんなに細心の注意を払ったとしても、犯した罪を無かった事にするのは不可能で、やがては露見してしまう物なのです。
だから私利私欲のために誰かを傷つけるような真似はせずに、誠実さを忘れず真面目に生きなさい。
落語の「もう半分」や「真景累ヶ淵」、そして冒頭に私が紹介した都市伝説には、そうした教訓を読み取る事が出来るでしょうね。
そうした教訓的メッセージには、私も共感する事頻りです。
だけど私としては、加害者の罪を告発して目的を達成した被害者のその後が気になっちゃうんですよ。
「この後、どうするんだろう」って…
この中では「真景累ヶ淵」がもっとも後腐れの無いケースだと思います。
何しろ累が菊に憑依したのは谷五郎の殺人の告発と自身の供養が目的で、事態を知った旅の僧侶の助力を得てキチンと解脱出来ているのですから。
都市伝説の「コインロッカー・ベイビー」で「お前だ!」と告発した子供も、コインロッカーに捨てられて死んだ赤ちゃんの幽霊と解釈すれば、目的を達成して成仏したと考える事が出来そうです。
過去の遺恨をキッチリ清算した上で成仏する。
やり残した事にケリをつけた上で次のステップに進むのですから、復讐達成後の将来のビジョンをキチンと描けていると言えますね。
厄介なのは「今度は落とさないでね」と「もう半分」のケースですね。
彼らの場合は恨み重なる相手の子供に転生した事で、生身の身体を備えているんですよね。
その為、「成仏」という簡単で収まりの良い身の振り方を取りにくいんですよ。
もっとも、「今度は落とさないでね」の場合は「一時的に第一子の幽霊が乗り移っていて、親の罪を告発した後に成仏した」と設定すれば何とかなりそうですね。
しかしながら、生まれた段階で自殺者の老人と瓜二つな顔になっていた「もう半分」の赤ちゃんに関しては、この解釈を用いる事は出来ません。
彼に関しては、本当に転生したと考えるのが妥当ですね。
自殺に追い込まれた前世の恨みを晴らした後、この赤ちゃんは果たしてどのような人生を歩むのでしょうか。
赤ちゃんが行灯の油を飲み干して「もう半分」と呼び掛けるサゲが有名な「もう半分」の噺ですが、これに驚いた酒屋の店主が頓死して家が没落するという後日談の語られるバリエーションも、一応あるにはあるんです。
しかし、肝心の赤ちゃんの去就に関してはまるで触れられていないんですよ。
今生における彼の両親は既に亡く、家も既に没落済。
この老人が転生した赤ちゃんは恐らく、孤児として色々と苦労をしたのではないかなと思います。
とはいえ、これは老人の転生した赤ちゃんが普通の人間だった場合の話ですね。
もしかしたら、生まれた時点で人外の存在だったのかも知れません。
そもそも行灯の油を美味しそうに飲んでいるなんて、まるで化け猫か油赤子ですよ。
それに身体が赤ちゃんで顔が老人って、「ゲゲゲの鬼太郎」で御馴染みな子泣きじじいの特徴その物ですよね。
もしかしたら「もう半分」に登場した赤ちゃんは、復讐を果たした後は子泣きじじいとして妖怪社会での再スタートを切ったのかも知れません。
お上の沙汰や天の裁きが期待出来ないので、恨み重なる仇の子供の言葉を借り、相手の悪事を白日の下に晒す。
その考え方自体は、私としても理解出来ます。
そうでなかったら、この世は先にやった者勝ちの悪の天下になってしまいますからね。
また、老人のお金を置き引きした酒屋や可愛くない我が子を水死させた親が幸せになって末代まで栄えてしまったら、こちらとしてもモヤモヤしちゃいますね。
しかしながら、目的を達成した後の事も考えておかないと、色々と困った事になると思うんですよ。
よく、受験勉強の末に志望校には合格出来たけれども、燃え尽き症候群になって学校生活をエンジョイ出来ないって話を聞きますよね。
これは「志望校へ合格する!」って事だけを目的としていて、合格した後の事をしっかりイメージしていなかった事が原因だと思うんですよ。
都市伝説の「今度は落とさないでね」や落語の「もう半分」で仇の悪事を糾弾した子供の後日談が不明瞭なのは、肯定的に考えるなら「話を聞いた人達にその後を想像させる為」とも解釈出来ますが、「仇の子供に転生した人達が仇討ちに執着し過ぎた為に、その後の去就に無頓着だったから」とも解釈出来そうです。
そう考えますと、転生ではなくて憑依という後腐れのない手段を選び、目的達成後は現世から解脱した「真景累ヶ淵」の累は、復讐の計画性の高さと達成後の身の振り方の上手い人物と言えそうですね。
目の前に大きな課題があると、それにばかり目を取られてしまうのは、人間も幽霊も同じ事なのかも知れません。
だけど少しでも余裕があるのなら、「課題や目標を達成した後は何をしようか?」という具合に先の事へ目を向けた方が良いでしょう。
せっかく課題や目標を達成出来たのに、その後の身の振り方が分からなくなってしまうのは非常に残念な事ですからね。