02――「勇猛果敢にして退くことを知る。」
「ぶッ⁉」
まるで殺人鬼を彷彿とさせる姿の不意打ちに、一瞬ひゅっと狩人に狙われた小鹿みたいな声がマルタの口から出た。ついでに運悪く嚥下の途中だったパンが喉に詰まった結果、ゲホゲホと勢いよく咳き込む。
大慌てでコップの水を手に取って頬張っていると、代わりに反対側の席で何事もなかったかのように平静を保っていたライカが、マスターのさきほどの言葉に反駁した。
「んーっと、マスターさん……?怖い顔してどうしたの急に?宿賃がどうとかこうとかって……あっ、それってもしかして昨日ここに泊まる時に約束した――」
「ブルームヴォルフの間引き」
「そうそう、それ。確か『うちの店の狩場を荒らす害獣を駆除してくれるなら宿賃を免除してやる』って内容だったと思うんだけど、それならちゃんとやったよ?軽く30匹以上は狩ったし辺り一面からはいなくなった筈なんだけど……なのに今更お金払えって、破綻してない?何かあった?」
機嫌の悪い屈強な大男を相手にしてもマルタの時と同様、マイペースを崩さず気軽に話を進めていくライカ。普段よく見せるその神経の図太さ、もとい高度なコミュニケーション力が地味に本領を発揮する。そして彼女の語った理屈についても決して出鱈目ということはなく、概ね筋が通る話だった。
なぜならマスターの突如要求した「今日と昨日の宿賃」に関するその約束事は、会話を傍で聴いているマルタもこの目で確かめていたから。
確かにブルームヴォルフと言う名のこの地域でありふれた害獣を間引くことをマルタ達は請け負い、その見返りに宿泊費を免除してもらう旨の契約をこの宿のマスターと結んでいた。成果としては先述の通り、それなりに苦労しながら付近の山に陣取る2、3個程度の群れを壊滅させたのだ。対価を払ったのに報酬は渡さないというのはもはや破綻を超えて横暴でしかない。
しかし尚も厳めしいマスターの表情筋は、その後も崩れなかった。
「それと同じ報告は確かに昨日も聞いたな。俺も別に約束を反故にしようって腹はねぇよ」
「ほら。だったら、」
「だが今日の朝に狩場を覗きに行ったらどうだ?寧ろいつもの倍……いや三倍近い数のヴォルフ共が普通に巣食ってやがるじゃあねぇか。狩り終えた――っていう奴等の死体の山も痕跡も無し。言葉を信じるってのは訳ないがな、状況からしてアンタらが仕事サボって嘘吐いてタダメシ喰らってるって思うのも自然な流れだろ。違うか?」
「……マジで?」
ぽかんと間の抜けた顔を浮かべたのはライカだけでない。マルタも同じだった。
さっきまで正論だった筈のライカの言説は、同じ正論でここに否定された。
「ちょっ⁉まっ……げほっ……待って……ください。少なくとも私達は、絶対に嘘なんて吐いてません。この人の言う通り確かにヴォルフは昨日退治しました。きっと何かの見間違いの筈です」
水を飲み干す途中で咄嗟に声を上げたせいでまた咽ぶことに。
だがそれでも偽りなき勤労をなかったことにされ、あまつさえ謂われなき糾弾を黙って受けることは耐えられなかった。普段からのしっかり者としての性分という以上に単純な不条理への怒りから、まだ若干マスターの強面に怖気づきながらも、マルタは間に割って入った。
「見間違いだと?わざわざ現場にまで足を運んだこの俺がか」
「そうです。マスターさんが私達のことを信じられないのとお互い様で、現状では私達もマスターさんの証言を信じられません。証拠もないのにこんな一方的な決めつけ、ただの言いがかりです。違いますか?」
「……あんた。お客さんだと思ってりゃぁ、ちょっといい気になりすぎじゃねぇのか……?」
精一杯の反論に対して直に跳ね返ってくる、マスターの怒りの籠った視線。
理路整然と話したつもりがつい彼の逆鱗にまで触れてしまったと気付いた時には、既に時遅く。何も正面きった口喧嘩を始めようなんてつもりはなかったが、吐いた言葉は戻せないし、そもそも自分の言い分が間違っていたと今更認めることも感情が許さなかった。
元から怖い上に激情が上乗せされた強面を受け止めるのは正直かなりきつい。
大の大男が顔を近づけてマルタの方に詰め寄ってくる構図は、たぶん遠巻きに見れば火花が散っているという表現が的確なのかもしれないが実際は結構違う。退くに退けず、背伸びして無理しながらなんとか対峙しているだけだ。
「…………」
やがてこっちの意地が折れてしまいそうになって。
「………ッ!」
それでも自分達が間違っていない以上この戦いには絶対に負けられないと、半ば自棄に席から立ち上がろうとしたその時だった。
「まーまーまー、お二人さんともそこまでそこまで。複雑な事情は分かったけど喧嘩なんかしたって何の問題も解決しないし、1ケルトの得にもにゃらないお?」
――気の抜けた場違いな声で空隙を切り裂く、ライカの聞きなれた声。
よく見れば手に握ったパンをむしゃむしゃと美味しそうに食べてすらいる。既にあと一割くらいしか残ってなかった最後の欠片をそのままペロリと呑み込んで、コップの水を一口。明らかに一人だけ別次元の住人と言わんばかりの態度にシリアスな空気はぶち壊しもいいところだった。
実際に爆発寸前の火花は鳴りを潜め、二人してライカの方に顔を向ける。
「うん、ごちそうさま。結構美味しいね、ここの料理」
「……ライカ師匠」
「ねぇ、マスターさん。さっきの話なんだけどさ、この子の言う通り私達は別に嘘は吐いてないんだ。でも私的には貴方の目が間違っていたー、なんて風にも思えないんだよね。なんか不思議じゃない?どっちの話も正しいなんて」
マスターの方に向き直って、あくまでも笑顔の自然体でそう語り掛けていく。
味方かどうか分からない。でも敵意は確実にない。
有無を言わさず相対した者の警戒心を軽く削ぎ落す柔らかな口調だった。マルタが内心そう思った通り効果はあったのか、眉間の皺を若干潜めたマスターが聞く耳を貸す。
「……つまり、何が言いたい?」
「簡単な話だよ。私達みんな悪くないってことは、私達以外の別の誰かが裏で悪いことをしたせいでおかしくなってるってこと。でも証拠が全然少ないもんだから、ここで仲良くおしゃべりし続けてもその黒幕はたぶん解けない。元凶さえとっ捕まればみんなハッピーなのにね?だからさ――」
そうしてマスターに提示した案はシンプルにして明確。
そして何より何故か、発案者本人が心底楽しそうなもので。十分に間を開けて妙にもったいぶってから、ライカは手をパンと打ち鳴らしてこう宣言した。
「今から犯人捜ししに行こうっ!」
……とりあえずそういう名目での現地調査を、被疑者二名が改めて行うことに。
ひたすらに前向きなノリと勢いに乗せられる形で、膠着した議論は踊る間もなくここに一度決着した。
◆
『くひっ。あぁ……負けちまった……まるで手も足も、出やしねぇ。だが流石は『化物』の噂通り……”弱い”のなぁ、お前』
『…………』
『なぁに。所詮これは敗者の戯言。戦場では勝者だけがすべて……正しい。だが勝者よ……青臭い英雄よ。老兵から一つ忠言をくれてやろう。なぁ』
『…………』
『お前、』
『――――』
『一体誰のために戦っているんだ?』
◇
――世界統一歴4年序秋の月10日。フロリア大陸ブルーム地方、パルマ王国近郊の街ルーナス。
大陸中心に口を開ける万物の浸食地帯「大洞虚穴」から見た方位は南東、近辺を険しい山岳地帯に囲まれている影響から越山の支度に行商や旅人、軍隊まで幅広い人々が立ち寄る交通の要所として古くから栄える一帯だ。パルマ王国最大の都市である王都パンテオンと比較すればルーナスはまだ小規模で人も少ないが、それでも田舎にありがちなその物価の低さは大きな魅力と言える。以前、都会のレストランに入って最初に出されたお通しの水一杯が肝心の食事に匹敵する料金だったのを思えば、食費も水代も宿賃も圧倒的に安いこの周辺は旅の強い味方だ。
もっともいい加減な計画と安定した収入源もない長旅のせいでそんな最低限の財布でさえ捻出に苦心している者達が、ここに二人いるのだが。
一時間ほど前のいざこざを経て例の宿屋を出てからというもの、ライカとマルタはルーナスの街を北に向けて歩いていた。前者は軽装のショルダーバッグ、後者は大きく膨れたリュックサックを背負って。ちょうどここからでも遠く前方に見えている大きな山が、その目的地だ。
その途中でストリートの路傍に構えていた小さな店に目を輝かせて飛び込んでいったぼさぼさの白髪頭を、今は半ば呆れ気味に引き戻すところである。
「えっ、なにこの魔導媒体⁉こんな形状見たことない。術式構築もすっご…………ねぇおじさん⁉これ一つおいくら⁉」
「ざっと1万5000ケルトだよ。にしてもそいつを選ぶとはお目が高いねぇ、お嬢ちゃん。……安くするけど、買ってくかい?」
「いいの⁉それじゃぁ……分割40回払いあたりで」
「そんなお金も時間もどこにあるんですか。すみません……そういうことで」
店主に頭を下げてライカが購入寸前だった白い杖のようなものを元に戻す。
口惜しそうな声を上げて店を後にするライカ。しかし無い袖は振れないというのがこの世の真理だ。特に今朝も宿屋で経験したばかりの痛手を思い返せば、猶更にそう実感する。払えない宿賃を無理にどうにかしようと交渉した結果があのヴォルフ狩りだったのだから。
もうあまり気にしないようにしようとしてもまだ胸の内側に残ったそんな暗い陰は顔に現れていたのか、案外すぐに杖から気を取り直したライカが、一歩先を歩きながら能天気な顔でマルタに振り返った。
「マルタ、なんか暗くない?いつもは『もっと節約してくださいー!』って言われるのに」
「誰の真似ですかそれ。別に……私は普段からこんな」
「――やっぱり気に入らなかった、今朝のこと?」
気に入らない。
自分がくだらない駄々を捏ねていると、暗にそう言われた気がした。いや、実際たぶんそうなのだ。事実としてライカの対応はもっとも穏便で平和的な解決だったから。
ただそれでも、どうしても納得できないこともある。
だからその指摘自体は否定せず、思い切って正直に尋ねてみた。
「ライカ師匠は……平気なんですか」
「んー。というと?」
「だから、あそこで譲歩したことです。あの人の主張の真偽がどうだったとしても、私達が討伐したことだって本当じゃないですか。あそこでもっと意見しておけば変わったかもしれないのに……なのにわざわざ進んで損するなんて。私には……正直受け入れ難いです」
こればかりは心の底から本当にそう思った。
勿論、自分の損得だけを常に考えるようなことは肯定していない。時に譲り合い助け合うことも社会では必要だ。しかし金や正当な権利の関わることまで他人にほいほい譲るのは流石に危険だし、もはやお人好しも良い所だ。既に分かり切っている彼女の適当な人柄を考慮しても、なかなか妥協出来そうになかった。
だがマルタの質問を一通り聞いたライカは、暫し考え込むような素振りを見せた後。
遥か空を見上げて「ま、そうだねぇ」と軽く呟いた。
「マルタはさ。あのとき、誰のためにマスターと戦ってた?」
「えっ」
「お金のため?矜持のため?正義のため?相手を屈服させるため?別にそのどれでもどれじゃなくてもいいけど――1人でも『誰かのため』を意識して、戦っていた?」
「……それは」
急に突きつけられた言葉の真意は分からない。
だが考えてみればその答えは見つからなくて、言葉に詰まった。
それを見たライカは少し。心なしかいつもより苦しそうな笑みを浮かべる。
「これは私の――いや、教えてもらった持論なんだけどね。『戦い』っていうのは相手が悪いから起きるんじゃない。相手の背後にも自分と同じかそれ以上に譲れない大切なモノがあるから起きるの。家族だったり恋人だったり仲間だったり……時として目には見えないものだって。戦いに勝つってことは、そんな相手の大切な『誰か』を踏み躙る非道い行為なんだよ」
師が弟子に教えを示すように。或いは大人が子供に道理を説くように。
暗澹の瞳は静謐に満ちて、声は凪のように駘蕩で落ち着いていた。
「じゃあ、だから戦わず自己犠牲を選ぶってことですか?そんなの」
「ううん。だからこそ戦わなきゃいけない時は、常に相手の大切な『誰か』を蹂躙する自覚を持ってほしいってこと」
「…………」
「何となく争わないで。いつの日か後悔しないように。奪い取ることの重さを――自分自身の大切な『誰かのため』を想う時になって初めて理解できる痛みを、まだ知らないうちは、ね」
普段は到底出てこないような台詞をきっぱりと言い切ったライカ。
その瞳は真剣だけど目を逸らしたまま、空を見上げたままで。降ってくる自分自身の言葉を他でもない自分に言い聞かせているかのように見えた。
だが当のマルタにとっては彼女の言葉の意味はまだ漠然としていて、かなり哲学的で。
結局戦えということなのか戦うなという意味なのか、どうすれば自分でその自覚が持てたと判断できるのか。もう少し深く意味を問い質そうとする前には、かくんと首を下げたライカの呑気な面が目の前にあった。
「まぁ要するに、自分の為にしか戦えないような戦闘は逃げたり隠れたりしてもいいし、余計な怪我するくらいならちょっと損してでも全力で回避した方がお得ってこと。それでどうにもならない時はきっと周りの誰かが……たとえば私が助けてあげるから、どーんと大船に乗った気でいればいいよ!じゃ、早速山に行こっか、マルタ!」
「泥船どころか既に沈没してそうなんですが……ってちょっと、またすぐ変なところに行かないでくださいよ。もう……」
心配した傍から発言とあべこべに、別の露店で早速無駄な買いものをしようと走り出す彼女。まるで目先のことしか見えていないような楽観的な姿を、いつもみたく呆れながら追いかける羽目になった。
そしてたった一人になれたその僅かな空隙に、思考の暇が生まれる。
やっぱり大した意味なんて無いのかもしれない。どうせまたなにも考えて無いのかもしれない。
それでも結局訊きそびれてしまった彼女の言葉に対する質問の、向こう側に求めた答えを思い返す。
「踏み躙る行為……奪い取る重さ……?」
大切な誰かを守ろうと戦った経験なんてない。
人に高説を垂れる程の生涯も歩んでいない。
それが――一体なんだというのか。
「そんな綺麗なもの……きっと私には」
赤い雨、冷たい雨、光差す天蓋、無遠慮に輝く白の鎧。
記憶の底に燻るこの感情さえ本物であれば、他のもの全て偽物でいい。たとえ私利私欲と言われようと、戦って傷つけて奪おうとも、最後に本懐さえ遂げられれば私はそれで――
「あっ、おばさん!こっちとそっちのお菓子を一つずつ、それから」
「ッ⁉あの、すみませんっ!今のやつ全部なしでっ!」
刹那の隙間で一人見せた表情は心の中へ隠して、食い意地と身勝手と好奇心だけは手放しに尊敬できるライカの暴走を止めにマルタは走った。
そのまま二人揃って街を出ると、今度こそ目的地のある山道にまっすぐ向かった。