01――「いつか在りし雄姿、瓦礫の底にて。」
「はぁ…………どうしたもんか……」
宿泊中のとある安宿屋の狭い一室。
まだ日の出から間もない東の暁光が部屋を照らす中、窓際の机に頬杖をつきながらライカはそう独り言ちた。
机の傍らには今滞在している王国と旅に必要な周辺地域の地図に、あれやこれやで整理不足な資料諸々の山。右手には8分の7と0.5ピースが消失した食べかけのパイ、そして左手にインクでぎっしりと文字の書き詰められた手紙を備えて、再びはぁと溜息を吐く。
その内容は簡潔に言うなら招待状だった。
それも所謂「同窓会」という内容の、だ。
彼女にとって一番古くからの知り合いの一人が主催を決定した大規模な宴であり、日時は今夜、つまり半日後。二週間前の昼頃に届いてからというもの、参加可否の返事を出せぬまま放置し続けて今日に至り、無視は失礼だろうと慌ててウンウン睨めっこを始めて徹夜。結局翌日の太陽を拝むことになるまで更に悩み続けた末、現在に至る。
開催地は今から全力で馬車を走らせて間に合わないほど遠くにある王国の都だ。
書いていないがドレスコードだって当然にある。それ相応の衣服を仕立てて上品かつ優美に行かねばならない。どこからか善意に溢れた魔女がやってきてガラスの靴でも履かせてくれそうな展開といえよう。
だが、少なくともライカにとって溜息の理由は生憎と上記二つのどちらでもなかった。
寧ろ手紙の下部に仕込まれた稀少な『転移術式』は開催地まで一瞬で案内してくれるし、場に恥じぬ服だって一応まだ一着くらいは持っている。常識的な礼儀作法も弁えていれば旧友達のことは時を経た今でも大切に想っている。十分すぎるほどに参加できない理由がどこにも存在しない。幸せ者というやつだ。
従って彼女はついに決心して手紙を机の上に置くと、奥の小物入れから使い古された常設の羽ペンとインクを取り出して右手に筆を執る。
そして術式の横に空いている僅かな返信スペースに、こう、綴った。
『近隣国の騎士団から協力要請された火炎竜征伐の為、今回は参加できません。次回も誘って頂けると嬉しいです。皆さんによろしくお伝えください――第139期卒業生 ライカ・エルフォニア』
「……」
自分で書いておいて失笑を誘うような理由だと、心中で自嘲した。
醜いものを視界から追い遣るかのように文面を素早く折り畳む。それから手首だけの動作で手紙をぽいと後方に投げ捨てた。誰にも触れられないまま発動した転移術式が青い光を帯びて背後の虚空に輝いた。振り返った時にはダブルベッドとクローゼットと幾つかの備品のみが置かれた簡素な部屋が広がっているだけ。やっと一つの用が済んだことに少しだけ安堵して、ライカは両腕を上にウンと伸ばした。
食べかけだった右手の0.5パイを口に放り込み、はぁっと真顔で息を吐く。
特に手紙の最後の方に書いてあった、「最近の貴方の活躍をまた聞きたいわ」という一節を思い出して。
「会わせる顔が……もう無いんだよ」
椅子を立ち上がり、クローゼットの方に向かう。
未だ寝間着姿の上下を脱ぎ捨てて、戸の奥から暗色のワンピースとクリーム色のカーディガンを取り出した。どちらも晩秋のこの季節にちょうどいいお気に入りの服だ。当然、竜退治には致命的なほど向いていない。下着の上から服を着替えて膝丈まで届くストッキングと靴を履いたら、机の端に置かれた愛用のネックレスを拾って首にかける。そして最後の仕上げとばかりに部屋の隅に設えられた姿見で、今の自分を見た。
色素の抜け落ちた白い髪は最近ろくに整えていないせいでおかしなアホ毛とカールが渋滞している。夜空のように奇麗だね、と昔どこかの優男に言われた碧眼はすっかり闇に淀んだひどい青鈍色だ。御年21と半年を迎える歳の成人にしてはいまいち子供っぽい童顔と伸びない背丈に以前からコンプレックスを感じていたところだが、やさぐれた感じだと少し大人っぽくなったというか老け……一層暗い気持ちになっただけなので、姿見には布を被せることにする。
その代わりといっては何だが、今度は気分転換とばかりに。
ダブルベッドの上でまだ歪な盛上がりを見せている、白い布団に歩み寄ってライカは手をかけた。
「……ふふっ」
らしくもない暗い顔とシリアスな感情を瞬き一つでパッと意地悪く明転。
陰惨な風貌と死んだ瞳までは変えられないが、心だけはこの世の誰より無邪気な喜と楽で満たされていった。頭の中で燻る過去の憧憬を捨てて、今この時に視線を移す。
普段はやられる側だが今日は徹夜の影響で珍しく起きている。折角だしたまにはこちらから仕返してやろうという邪心、もといほんの少しの柔らかなユーモアが顔を覗かせても許されるのではなかろうか。まだ朝食には小一時間程度早いが大差ないだろう。うん、きっと笑って許してもらえる。
聡明な頭脳(自称)で浅慮な計画を立てたライカは、荒んだ心に癒しを求めてにこやかに筋肉を引き絞り――
「ほらっ、朝なんだからいい加減起きなさーいっ!マルタっ!」
元気のいい掛け声と共に勢いよく巻き上げられ、風に舞うドレスのようにふわりと天に翻った布団。心地よく寝ているところを台無しにされ、あまつさえその内に籠った暖気が一瞬で冷気と入れ替わる不愉快さをたまには思い知るがいい!割と楽し気にそう思ったのも束の間のことだった。
「あ、」
まずベッドの中に隠れていた小さな体躯は、寝相のせいで布団を抱きかかえるようにして密着して眠っていた。
そして引き剝がされた布団の方はといえば、常人が同じ行為をするにはあまりある程の尋常な力で引っ張られた結果、まるで摩擦抵抗など無視する勢いでその全てを空に引っ張り上げた。すると当然、布団と一体化していた中身も心中するかの如く一緒に飛んでいくわけで
「……マルタ、本当にごめん」
「ふぇっ?………ンにゃぐぅッ‼⁉」
最悪のタイミングで目を覚ましたそれは空中で回転しながら部屋の端まで一転二転三転、大きくベッドの反対側まで移動した末に落下。しまった、つい力加減を間違えたと思った時にはもはや手を合わせて祈るしかなく、そのまま盛大な音を立てて床がどっしーんと振動した。
流石にこんな起こし方が許されるはずもない。
遅れて、機嫌の悪い呻き声と赤い髪が解き放たれし邪神のごとく奥から静かに立ち上がる。
「……なんてこった」
自分自身で余計な面倒ごとを増やしてしまったことに心から懺悔し後悔し絶望しつつ、とりあえずはうまい言い訳でもしようかと傍元に駆け寄った。
◆
――世界統一歴4年。
それは凡そこの「フロリア」の地上に遍在する全ての人類文明国家間で現在通用する年号であり、一種の象徴。文字通りの意味で世界が一つに統合された日を起算点とした、新たに刻まれるべき人類史の名である。
千年近く続いた旧来の「人界歴」を廃止する意義については、当初各国や各部族の間で疑念を呈する声が上がらなかった訳ではない。
しかしそれでも過去のルールや古き良き伝統を壊さざるを得ない程の――それこそ世界一つ分にも及ぶ膨大な質量の変革を加えられた既成事実に対して、結局は誰もが柔軟に新たな枠組みを作って受け入れるしかなかったのだ。
すなわちまだ世界が「人界」と「魔界」に二分されていた時代の終焉。
人類種の住まう人界が悪しき魔族の住まう魔界を攻め滅ぼし、その領土も資源も悉く全てを併呑するに至った4年前の出来事――「祓魔戦争」の終結は、人類にとって余りある利得と繁栄を齎し、同時に各国間の資源分配を巡る新たな対立をも助長した。
戦争が終わり疲弊した途端にまた次の戦争が起きれば、今度は人類が滅びを迎える番となる。
その為に各国は緊張関係を保ちながらも新たなルール、新時代の年号を制定し、世界を統一する為に共に魔族と戦ったという事実そのものを柱に据えた仮初の連帯意識を実現。結果として今日までの4年間、人類は身内で一度の争いも起こすことなく至って平和な暮らしを享受することに成功した。
その裏で犠牲になった者達を顧みることもなく。
戦場で散った無数の命と流された血を忘却の果てに追い遣って。
ただ身勝手に奪い取った独善的な幸福を噛締めながら、それでも緩やかに今日も世界は回っていた――。
◇
「ねぇ、マルタ。なにか欲しいものなぁい?」
「……」
「そうだ、マルタちゃん!とっておきの魔術おしえてあげよっか⁉」
「……」
「あの、マルタさん……?」
「……」
「私が全部悪かったですもう二度としません!だからそろそろ機嫌を直してください、お願いですっ!この通りですマルタ様ッ‼」
「……ライカ師匠。本当に反省してます?」
そうして平和とは程遠い修羅場同然の空気が垂れ流されているのは現在地、宿屋一階にある食事場。質素なパンとスープを両端に置かれた窓際の一席で頭を深々と卓上に擦り付けているのは、今朝の愚行(文字通りの意味で)を行った張本人。
まだ人生歴も浅く色々と世話の焼ける未熟な少女――の見た目をした、立派な20越えの成人である。
「反省してます、そりゃ深く反省してますとも!そんなの当然に決まって」
「でも確かこんなふざけたこと……前にも何度かありましたよね?」
「ぐッ。いやいや、本当にあれもこれもね?不慮の事故というかなんというか」
「『不慮の』?私が取っておいたパイを勝手に食べてたり、馬車の乗車時刻に毎回遅れたり、自分は朝起きない癖に人を床に叩きつけたりするのが、みんな、全部、不慮の事故ですか?」
「いや、あの……その……はい…………言い訳しました。ごめんなさい」
返す言葉も見当たらないのか、子供じみた謝罪と共に再びごっつんと頭を机に沈めていく大の大人の姿には、もはや怒りを飛び超えて憐みすら感じさせられた。
ぼさついた白い髪、暗い深海の底を思わせる蒼の双眸。
背丈の程は15か16くらいのそれで、単なる童顔と形容するにはかなり目鼻立ちの整った美しい容貌をしている。分かる者には分かる、同性からしても羨むほどの美少女だ。ゆるっと着こなしたいつものカーディガンもまたダウナー気質の雰囲気に合って随分と可愛らしさを引き立てている。表情も明るく豊かでなんだか養ってあげたくなるような魅力を備えた、そんな少女の名は……とか、出来るだけ良い感じに脚色して言いたいところだが。現実は非情である。
どこか身に纏う鬱屈とした悲壮感と絶望感は既に生涯の半ばまで経験したかのような壮齢さを醸し出し、繕う気のない全身のだらしのなさが12割増しで美貌を損壊。朗らかな微笑は官吏が権力者に媚び諂うかのような陰影を表層に落として、ダボついた衣装は更にそれらを悪い意味で助長した結果……初見でそうと分かる理想の「だめだめ人間像」がここに完成していた。
そのうえ更に、先ほどからニコニコご機嫌を窺ってばかり。
挙句の果てにぺこぺこ頭を下げる姿は威厳も尊厳もあったものではない。
正直言って今朝の身勝手な暴虐にはまだ心底許しがたいものがある。まして普段からの体たらくといい、幼稚で杜撰な神経が招く不徳の積み重ねも合わされば猶更だ。
が、一方で周囲の宿客からざわざわと奇異な視線を投げかけ続けられながら食べるパンとスープの不味さといったらもう何の味も匂いもしなかった。頭の後ろの小さなタンコブ一つの怨みと引き換えにするには、流石にここいらが潮時だと理性が告げている。
「……もう」
したがって。
小一時間に及んだ無言の抵抗をようやく解除した対面に座る話し相手――丁寧に切り揃えて梳いた淡い赤髪の上に黒いチェックの帽子、清楚なブラウスとリボン、スカートに身を包んだ、こちらは心身共に正真正銘純正のまだ幼い未成年である少女、マルタは。もうこの人を師匠と呼ぶ必要があるのか疑問に思いながら、呆れと諦観を込めた表情で下げ続けられる後頭部へ声をかけた。
「分かりました。人目もあるので、いい加減頭を上げて下さい。今朝のことは水に流しますから……」
言葉に反して自分でも分かる、不機嫌さが若干残る声音。
そうと決めていても理性で感情を制するというのはやはり難しくて、厄介だ。
マルタは目の前のだらしな人間や同年代と比べれば年の割に幾分大人びている自覚があるが、それでも中身は年相応の子供だった。ライカが普段から毅然とした態度と節度を保っていれば寧ろ本来立場は逆の筈で。
そもそもの話――この未成熟な年齢で親でも姉でも家族でもない彼女を師匠と仰ぎながら二人で世界を旅しているという事実そのものが、時代や社会常識に照らしても歪で危険で、とても不自然な関係と言えた。
世界統一歴も4年目に差し掛かる今の平和な時代、普通の家庭に生まれた子供は産みの親元で健康かつ文化的に育つ。
もちろん先の大戦における戦災孤児や貧困なスラムに生まれ付き漂着した住人など問題は各地に山積しているが、マルタは少なくともいま飢えも乾きもない状況にいる。そうであれば教育機関に通って学問を修める、家業を継いで畑を耕す、或いは騎士や貴族の名誉と家紋を存続させていくといった役割に就くのが当然で、若くして剣に槍に杖を手に取り敵軍との闘いに備えさせられるような潮流はもはや時代錯誤の産物。職業に関係ない旅をしている子供なんてものは、ヘタをすれば国の憲兵に捕まって誘拐か虐待を疑われるほどに治安意識が改善されつつある世の中だ。
ただ、それでもマルタがライカと一緒に居るのは、ひとえに自分自身でそう望んだことだから。
普段の素行がどうであれ、師匠と呼ぶに足る大切な理由と目的があるからだ。
故に彼女に何度腹を立てようと呆れようと百回二百回喧嘩しようと、マルタは結局今日までなんだかんだ長くライカと寝食を共にしてきた。それは今後も変わらない。否、変えられないのだ。
「全部、許して下さるので……?」
「どうせ許さないって言っても治らないじゃないですか、その腐った性根」
「って、いやいやいや!それはさすがに誤解では⁉」
「どこが……」
「治らないんじゃなくて治せないの。いわばだらしないのが私の真のアイデンティティであり、もし真面目で真剣で几帳面なライカ・エルフォニアなんて居たらそれこそもはや私の皮を被った化物か何かなのだよ、マルタくん」
「自慢げになにを言ってるんですか。化けの皮ならとっくに剝がれてきてますけど……スープが冷めちゃうのでもういただきますよ……本当」
気付けば態度も口調もすっかり開き直っていつもの調子に戻ってきている彼女に、どこかようやく日常が帰ってきたような安堵を感じるのは毒され過ぎだろうか。やっぱり許すなんて言った前言を撤回したくなってきて、結局はそれ以上面倒な会話から逃げるように、匙を口に運んで飲み込む作業にマルタは没頭することにした。
ライカも同じようにパンを口に頬張って、たまに二、三の軽口を挟みながら暫くは平和な食事時が続く。
そのまま周囲の客が入れ代わり立ち代わり、朝の寝ぼけた空気がだんだんと冷めて街全体の日常が本格的に目覚め始めよう、という頃合いに差し掛かった時だったろうか。そういえば今日これからの予定について一応ライカと話し合わなきゃ、と思い出して。
前席に声を掛けようとしたその寸前、不意に二人の座るテーブルに上から影が差した。
「せっかくの食事中に悪いがお客さんら。例の約束通り、今日と昨日の宿賃を満額払ってもらえるか」
機嫌の悪さが存分に含まれた声音。
というか実際驚いて振り向いたそこには、少女2人を睨みつけるかのようにして厳めしい顔を浮かべた大柄の禿頭とエプロンと右手には血の付いた大きな包丁。
どこか殺気と世紀末感のある強面でこちらを睨みつける、いま泊まっているこの宿屋の宿主が立っていた。




