『在った』ことにはできる。現実はどうあれ
「あぁそうだね」
「生きてはないと考える」
「だけど『生きていた』ということにはできる!」
『生きる』場所はなにも現実だけではない。人の記憶の中に『生きている』ことだってできる。
現実はどうであれ、そこにいる人が『居た』と認識していれば『居た』のだ。
皆で認識を合致させれば架空の人間だって『実在していた』ことにできる。どこぞの捕虜の集団が雑居房の中に唯一ある椅子に少女が座っているつもりで礼儀正しく過ごしたように。彼ら捕虜にとって間違いなく少女は『存在していた』し存在していたのなら『生きていた』のだ。看守が無粋にもそれは幻覚だと叫ぼうとも。
「人の頭の中のモノってのは他人には汚せないからね」
「事実を説いて打ち砕くことはできても!」
「それまで『在った』ことを消せはしない!」
仮にここで、3つ子がこう言ったとしよう。アルカン、イルカン、ウルカンの兄弟の下にはさらにエルカンとオルカンがいる、と。
それを聞いたカンナは、名前の法則からして妥当だろうと考える。3つ子でなく5つ子だと。5つ子なら容姿もきっと同じなのだろう。同じ顔が5つはなかなか圧力があるなと想像するに違いない。
その瞬間、カンナの中に彼らは『生まれる』。エルカン、オルカンの存在は産み落とされ、『居る』。
たとえその直後に実はそんなのいないよ、3つ子さとネタばらしを食らって想像が破れても、その瞬間までカンナの頭の中にエルカンとオルカンは『居た』。
言葉遊びだがそういうことだ。現実はどうでもいい。概念上そこにいることで『生きている』ことにできる。
「はん。そうやって現実に嘘をつくってワケだ」
「そうだよ」
「嘘でもつきとおせば」
「現実を轢き潰せる!」
捕虜たちがあまりにも熱心なものだから、看守でさえ彼らが少女を匿っていると収容所の天井裏まで捜索したように。現実を轢き潰して架空の虚像は『在る』ことができる。捕虜たちはついに看守の中にも少女の存在を『生ませた』。
武具は生命足り得るかという議題に対して3つ子はこう答える。それを観測する人の中に在ると思うのなら『在る』のだと。そこにあるのが物言わぬ銀だとしても、魔術式によって思考し応答する仕組みだとしても、居るのだと認識されれば『居る』。
「そんなところかな」
「そんなところだ」
「そんなことだ!」
これにも結論はない。3つ子の意見は否定されるものではないし否定できるものではない。
三者三様の意見でいいのだ。結論をひとつに定めるための議論ではないのだから。
論述はこれでおしまい。後は意見交換の時間だ。以上、三者三様の意見について君はどう思う。
「……ところで素朴な疑問なんですが」
「うん?」
「なんだい?」
「どうしたんだい?」
話の腰をとても折るが、気になったので聞いてみたい。
「実は5つ子なんですか?」
あれは例え話なのか、本当なのか。仮にと言われたが実際のところは。
3つ子の言う通り、頭の中に思い描いて生み出してしまったこの四男と五男は。果たして。
「あぁそれね」
「居るよ」
「居るとも!」
居ないと言ったが実は居る。名前も述べた通りエルカンとオルカンだ。3つ子ではなく5つ子である。
ただし、と続ける。
「あいつら引きこもりだからさ」
「人前に出て来ないんだよね」
「だから俺たち3人で勘定してくれよな!」
エルカンとオルカンはいる。だがそれについては勘定に入れなくていい。彼らはそう言った。5つ子ではなく3つ子のつもりでいてほしいと。
「もしかして……触れちゃいけない話でした?」
引きこもり。勘定に入れなくていい存在。なんだかとても繊細な話なような気がする。
突っ込んではいけないところに踏み込んでしまったのかもしれない。カンナの背筋に冷たいものが滑った。
「いいや」
「全然いいとも!」
「単に兄弟が面倒くさがりなんだよ」
カンナが想像しているような繊細な話ではない。単に出不精なだけだ。
必要であればいずれ5人揃っているところを見せよう。兄弟がその気になればだが。
そう語る3つ子たちはまるで悪戯の仕込みをしているような、とびっきりの秘密を隠している子供のような笑い方をした。




