呪われた王子様と脇役の私
むかしむかしあるところに、それはそれは美しい王国がありました。
りっぱな王様とうつくしい王妃様の間には、かわいらしい王子様が一人おりました。民はみんな王様を慕い、すこやかに暮らしておりました。
ところがあるとき、わるい魔女がちいさな王子様におそろしい呪いをかけてしまいました。
——王子様が十八の歳になるまでに、運命の乙女の口づけを受けなければ死んでしまう、と。
国中のみんなが嘆きました。王様も王妃様も、涙が湖になってしまうくらい悲しみました。
ああ、こんなかわいそうな目にあった王子様はどうなってしまうのでしょう。りっぱな王様は、一体どうしたらよいのでしょう。
正解:さっさと次の子供を作って、呪いを受けた第一王子は居なかったことにする。
■ ■ ■
「……ある種合理的だが」
「だからって、こんな扱い納得できるものではありません!」
王宮の西の端にこじんまりと建つ離宮、〈落日の宮〉で、デディシア王国第一王子、ユリエル=デディシアの独白に、イヴ・コートニー男爵令嬢は頬を膨らませた。
柔らかな陽射しが離宮の飾り窓から降りそそぎ、部屋に滲み入る冬の寒さをいくぶん和らげている。〈落日の宮〉にはろくに暖炉もないものだから、暖かな光はありがたかった。
イヴはぐるりと辺りを見回す。第一王子の居室だというのに、あるのは質素なベッドと書き物机、鏡台くらいのもの。世話役とてイヴ一人きりだ。広さだけは無駄にあれど、それが余計に物寂しさを際立たせた。
窓辺に佇むユリエルが、外に顔を向けて目を細めた。冴え冴えとした銀の髪に、理知的な蒼い瞳。簡素なドレスシャツに乗馬ズボンという恰好でも、知らず息を呑むほど美しい。
——その顔の左半分が、黒々とした呪紋に覆われていることを除けば。
空を横切る鳥を追っていた彼の視線が、すっとイヴに向けられた。イヴの心臓が小さく跳ねる。
「ここで何を言っても変わらない。もうすぐジルのサロンの時間だろう。支度をしてくれ」
「……かしこまりました」
イヴは不承不承、恭しく頷いた。
ジルというのは、ユリエルが魔女の呪いを受けたあと王が作った第二王子だ。この国では第一王子が王位を継承すると決まっているが、ジルは王位継承者として振る舞い、周囲の人間もそれを許している。サロンとて、本来であればジルがユリエルのもとに赴くべきなのだが、毎度〈落日の宮〉から最も遠い〈暁の宮〉に呼びつけて憚らない。
(でも確かに、ここで愚痴を言っても始まらないものね)
イヴはそっとため息をつき、こちらを見下ろすユリエルと向き直った。神様が丹念に仕上げた彫刻のようなかんばせに、禍々しい呪紋が這っている。古代文字がびっしりと肌を覆い、血が飛び散ったようにも見える紋様は、魔女の呪いの証だ。イヴは絹の手袋を嵌めた手を伸ばし、そうっと彼の頬に触れた。
「呪紋に変化はありませんね。痛みは?」
「……特に」
「本当は?」
彼の顔を覗き込む。蒼い瞳に自分の顔が映るくらい詰め寄ると、ふいっと視線を逸らされた。目元をじわじわ赤くしながら、居心地悪げに返事をする。
「……まあ、少しは」
「もう、妙なところで嘘をつかないでください。私はたった一人の世話役なんですよ。痛み止めを飲みますか?」
「もらおう」
ユリエルが差し出した手に、痛み止めの入った小瓶を乗せる。苦いはずのそれを、彼は表情一つ変えずに綺麗に飲み干した。イヴの胸に小さな痛みが走る。彼はもう、この人生に慣れきっているのだ。
「たった一人の、か」
小瓶を弄びながら、ユリエルが薄く笑む。蒼く光る瞳でイヴを見つめ、
「それは良い響きだな。イヴにとって、俺は唯一か?」
「もちろんですとも。私にとってユリエル様は……」
口に出かかった言葉を飲み込んで、イヴは正確無比に微笑んだ。
「たった一人の主ですから」
世話役になって十年以上、芽吹いた初恋を殺すことには慣れていた。
鏡台から仮面を取り上げる。当然という面持ちで目を閉じるユリエルに、半面を覆い隠す仮面をあてがう。
彼女の手に迷いはない。いつもと同じように、何百回も繰り返した動きで、絹紐を使って仮面を固定する。
けれど、とふと思う。
その無防備に晒された唇に口づけたら、一体どうなるのだろう。
イヴの手が止まった。
「……支度が整いましたよ」
ユリエルが目を開けるときにはもう、イヴは完璧な世話役の表情をこしらえている。
分かっている。
(私は運命の乙女なんかじゃない。ユリエル様の運命には、なれない)
くすんだドレスに身を包み、焦茶の髪を飾り気もなく一つにまとめただけ。もちろん顔立ちだって平凡で、もう十八歳になったというのに縁談の一つもない。イヴはそういう少女だった。限りなく凡庸な。
劇的な運命にはなれやしない。
〈暁の宮〉に向かうユリエルの後ろを歩きながら、イヴはこっそり祈った。
——どうか神様、私の恋心なんて差し上げますから、この方に運命の乙女をお与えください。
■ ■ ■
〈暁の宮〉は、真白い壁に鮮やかな琥珀の装飾が施された華やかな離宮だった。廊下を歩けばひっきりなしに人と行き交い、その誰もが流行のドレスや礼服に身を包み胸を張って歩いている。
「ようこそ兄上。ご足労をおかけして申し訳ないですねえ」
常と同じに〈暁の宮〉の最奥で待ち構えていたジルは、少し肥えた体を柔らかそうなチンツ張りの椅子に投げ出し、ニヤニヤ笑いを浮かべていた。背後には美しい女たちを侍らせ、目の前のテーブルには瑞々しい果物や、美味しそうな茶菓子の載った皿が所狭しと並べられている。
「用件は何だ?」
ユリエルは弟の言葉を無視し、イヴが引いた椅子に腰掛けた。優雅に足を組み、心持ち顎を上げてジルを見下ろす。前髪の間から覗く蒼瞳の底で、冷たい光が冴え冴えと輝いていた。
ジルがごくりと唾を飲み込み、視線を床に彷徨わせた。だがすぐに顔を上げ、薄っぺらい笑顔を見せる。大げさに腕を振りながら、
「いえね、もう少しで僕の誕生日パーティですから。兄上にもぜひ参加して欲しくって。今日は招待状をお渡ししようと思ったんですよ」
侍る少女の一人がほっそりとした手を伸ばし、ユリエルの前に白封筒を置いた。
彼は一瞥もせず、
「用件はそれだけか。くだらない」
「いえいえ、まだありますよ。そこの世話役の話なんですがね」
急に指差されて、イヴはびくりと肩を揺らした。ジルのねっとりした視線が肌をねぶるような気がして、思わず体を抱きしめる。
ユリエルが顔をしかめた。
「……彼女がどうかしたか」
「実は父や母とも話していたんですよ。王族に対するイヴ嬢の献身は素晴らしい。ぜひとも報いなければならない、と」
「要点を話せ」
「ですから」
ジルが舌で唇を舐めた。
「イヴ嬢を、僕の何番目かの愛人に迎えようと思うんですよ。良いアイデアでしょう?」
「——ふざけるな」
ぞっとするほど冷たい声に、イヴは思わず身をすくませた。ユリエルの顔からは完全に表情が抜け落ち、わずかに見開かれた目だけが炯々と光っている。
ジルがヒュッと息を呑み、背中を背もたれに押しつけた。しかし脂汗の浮かぶ額を手でこすり、勝ち誇ったように唇の端をつり上げる。
「でも兄上がイヴ嬢に何をしてやれるっていうんです。僕の誕生日の一週間後に、あなたは十八歳のお誕生日を迎えるというのに」
「言いたいことは、それだけか?」
限りなく静かな口調で、ユリエルは言い放った。ともすれば穏やかとも言える響きには、抑えつけられた激情の気配が漂っていて、触れれば爆発しそうだった。
部屋の中は夜の底に落ちたように静まりかえっている。外の喧騒が遠い。イヴは立っているのが精一杯だった。
ユリエルが席を立つ。指先で招待状を摘み上げ、しきりに瞬くジルの前でひらひらさせた。
「お招きどうもありがとう。イヴとともに参加するとしよう」
「……あ、お、おい!」
ジルが椅子を蹴立てたときにはもう、ユリエルはイヴの手を取って部屋を出ようとしていた。最後に振り向き、冷え切った声で吐き捨てる。
「二度とイヴに下衆な視線を向けるな」
■ ■ ■
〈落日の宮〉に帰っても、ユリエルは無言のままだった。イヴは何度も口を開いては、かける言葉が見つからず、結局目を伏せるだけだった。
ジルの言葉は事実だ。もうじきジルは誕生日を迎え、そしてその後ユリエルは——。
「イヴ」
低く名を呼ばれ、イヴは肩を震わせた。
太陽は地平線にわずかに顔を覗かせるだけとなり、窓の外は薄闇に包まれている。燭台に火を灯さなければ、と思った。
「こっちへおいで」
薄暗い部屋の中、ユリエルが一歩近づいてくる。革靴の踵が床を叩く硬い音が、物の少ない部屋に虚ろに反響した。
「寒いのか?」
震える彼女に気遣わしげな声をかけて、ユリエルがそっと腕を広げる。イヴが嫌がらないことを確認すると、強く彼女を抱きしめた。
それで限界だった。
「ユリエル様」
イヴは子供のようにしゃくりあげ、ぼろぼろと涙をこぼした。ユリエルの大きな手のひらが彼女の頭を撫でる。その暖かさにますます目の奥がつんと痛んだ。
痛いくらい囲われた腕の中、彼女は顔を上げた。濡れた瞳で強くユリエルを見つめる。ずっと心の底に秘めていた言葉を言うなら、今しかないと思った。イヴの人生の中で、最も劇的なのは今この瞬間だと。
深く息を吸い込み、はっきり告げた。
「私と、口づけしてください」
イヴは目をそらさなかった。彼女のブラウンの瞳に射竦められたように、ユリエルの手がぴたりと止まった。
彼のシャツの胸元を握りしめて背伸びをし、必死に言い募る。
「どうかユリエル様のために……。わ、私が、運命の乙女、かもしれないでしょう」
「イヴ、それはできない」
ユリエルはきっぱりと首を横に振った。苦しげに顔を歪め、腕をほどく。
急に寒気が忍び寄ってきた気がして、イヴは体を震わせた。
「ど、どうして、ですかっ……」
どんどん濃くなる闇の中、彼の表情は窺えない。ただ声だけが、無慈悲なほど大きく部屋に響いた。
「君は『運命の乙女』にはなり得ない」
■ ■ ■
分かっている。分かっていた。
その夜、イヴは眠るユリエルの顔を眺めながら、唇を噛んだ。
彼はベッドで穏やかな寝息を立てていた。銀の髪が燭台の灯りを鈍く反射している。本物の御伽噺の王子様のようだ。そのかんばせの半分が呪紋の進行を抑える劇薬を浸した呪布に覆われていても、イヴにとっては——。
でも、彼にとっては違うのだ。
ベッドの横で石像のように佇んでいたイヴが、そっと身をかがめた。覆い被さるように寝顔を覗き込んで、垂れ落ちる自分の髪を押さえる。規則正しく呼吸を繰り返す唇に唇を寄せた。
吐息が交じる。
触れたのは一瞬だった。イヴは弾かれたように後ずさり、口元を覆ってユリエルを見下ろす。
静かな寝姿には、何の変化もなかった。
「……ふふ」
喉の奥から笑い声が漏れて、慌てて部屋をあとにした。扉を閉めたところで、ずるずると崩れ落ちる。乾いた笑いが泡のように浮かんでは消えた。うずくまって必死に声を噛み殺す。
どれほど純粋な恋心で飾り立てようと、イヴが振りかざしたのはただの暴力だった。運命の乙女なんてロマンチックな響きに憧れて、ユリエルのためを想って、だなんて綺麗事を言いながら、下心を持って。こんな愚かで醜い女が、運命の乙女になんてなり得るはずがない。
朝日が上るまで、イヴはそうしていた。
ひたすら惨めだった。
■ ■ ■
ジルの誕生日パーティは、王宮でも最も豪奢な大広間で行われた。
天井から吊り下がるシャンデリアの光が、金彩の壁を眩く照らす。色とりどりのドレスを着た淑女が花の咲いたように裾を翻し、笑いさざめく。
その大広間の壁際で、イヴは一人立ち尽くしていた。
途中まで一緒だったユリエルとははぐれてしまった。ジルに挨拶をしてくるから待っているように、と言われて、それきり姿を現さない。
窓の外を覗く。銀の砂を撒いたような星空に、真円の月が浮かんでいた。
不吉な第一王子の世話役に話しかけてくる者はいない。今日のイヴは、なるべく目立たぬように、深い緑色の地味なドレスをまとっていた。フリルもリボンも最低限で、もちろん宝石は一つも身に付けていない。
ユリエルはもっと華やかなものを用意しようとしたが、イヴが断ったのだ。そんなところに力を入れるくらいなら、第一王子であるユリエルの恰好を整えるべきです、と。
彼が身にまとうのは、高貴な青色の礼服。瞳に映えていて、すらりとした体躯にぴったりだ。隣に立つだけでも背筋が伸びる端正な佇まいだった。
入場する際には「ジルには近付くなよ」と心配そうに瞳を覗き込んでくるものだから、イヴは暴れる心臓を抑えるのに必死で、世話役らしく控えめに微笑んで頷くのが精いっぱいだった。
(やっぱり、ユリエル様を探そう)
ジルとユリエルは、二人きり閉じ込めたらどちらか片方しか出てこない仲だ。もしも彼の身に何かあったらと思うと、イヴの胸が酷くざわめく。
そう決意してイヴが大広間の真ん中へ一歩踏み出したとき。
「イヴ嬢、こんなところにいたのか」
横から腕を掴まれた。勢いよく振り向くと相変わらずニヤニヤ笑いを浮かべるジルが立っていた。珍しく取り巻きを連れていない。
「まあ、ジル様。今宵はお招きありがとうございます」
恭しく頭を下げたイヴの耳元に、ジルが囁いた。生ぬるい呼気が耳たぶに触れる。
「あの男を探しているのだろう? 連れて行って差し上げよう」
「はい?」
イヴは眉を寄せる。しかしジルは強い力で彼女の腕を引っ張った。
「お待ちください、私は」
「早く行かないと、劇的な瞬間を見逃すぞ。なんせあの男は、異国の令嬢と逢引きの最中だからな」
「なっ……」
イヴは目を見開いた。ジルはますます笑みを深くし、
「異国までは呪いの話も届いていないのだろうよ。これは君のためを思って言うが、あの男はやめておけ。僕も可愛がってやるぞ? 愛人として」
「ユリエル様はどこです?」
「おい、話を聞け」
連れて行かれたのは、王宮の中庭に設られた薔薇園だった。なるほど確かに、月の光に照らされて、ユリエルと金髪の美しい令嬢が連れ立って歩いていた。令嬢が微笑みながら何事か話しかけると、ユリエルが静かに頷き返す。まるで一幅の絵画のようだった。
生垣に隠れて二人の様子を窺いながら、イヴはぽかんと口を開けていた。
「な? な? だから言っただろう。あの男はやめておけ」
ジルの言葉も耳に入らない。手のひらに爪が食い込むほど強く拳を握りしめる。血の気が引き、立っているのがやっとだった。
風が吹く。葉がこすれて秘め事を囁くような音を立てる。花びらが舞い散る中、それはまるで夢のような光景だった。
令嬢が腕を伸ばし、ユリエルの頭を引き寄せる。彼は抵抗せず、少し顔を傾ける。前髪が垂れ落ちて、紗の幕のように彼の目元を覆い隠した。
二人の影が重なった。
影は、すぐに離れ——そして様子がおかしいことに気づく。ユリエルが呻き、仮面を取り払った。令嬢が甲高い声で悲鳴をあげる。
「おい! あれは——」
ジルがイヴを突き飛ばしてユリエルに駆け寄る。イヴはよろめきながら、両手で口を塞いだ。そうしなければ、自分でも何を言うか分からなかった。
青白い月光の下、イヴは確かに目が合った。禍々しい呪紋が取り払われ、まっさらなかんばせを晒すユリエルと。
呪われた王子様の元に、運命の乙女は現れたのだ。
■ ■ ■
ユリエルの呪いを解いた運命の乙女は、実は亡国の皇女だったという。正統に王位継承権を取り戻したユリエルの周りはにわかに騒がしくなった。〈落日の宮〉には宰相や大臣が足繁く通う。ユリエルの隣には皇女がいて、いつでも麗しく微笑んでいる。世話役もたくさん送り込まれてきて、イヴはもう、ユリエルのそばに近づくことはできなかった。
これでいい、とイヴは自分を納得させる。
(私は運命の乙女にはなれなかった。王子様の隣には、清廉可憐なお姫様がお似合い。ただそれだけのことよ)
それでも、と心のどこかが軋みをあげる。先に恋したのは、ずっとそばにいたのは、他の誰でもない、イヴ・コートニーなのだ!
ユリエルが呪われてしばらく、いやしくも王族なのだから周囲に下賤な者を置くわけにはいかぬ、と男爵令嬢のイヴが世話役として抜擢された。下働きが〈落日の宮〉からどんどんいなくなって、貴族なら決してやらないような水仕事もイヴは喜んでやった。ユリエルの話し相手を務めるために、語学、地理学、歴史学を修め、様々な本を読んだ。彼の呪いを解く方法がないかと、魔術も勉強した。公の場で絶対に彼が侮られないよう、貴族の相関図や人柄を完璧に頭に叩き込んだ。礼儀作法も淑女としての振る舞いも、文句なしにこなせるようにした。
全部、全部、好きなひとのためだ。
でもそんなことには意味がない。イヴの努力も、積み重ねた時間も、運命の前には等しく無力だ。
イヴは時々、皇女とすれ違う。皇女は本当に、可憐な少女だった。さらりとした金の髪。森の奥深くに湛える湖のような翠の瞳。華奢な体を、フリルとリボンのたっぷりあしらわれたドレスで包んでころころと笑う。非の打ちどころのない、人形のように愛らしいお姫様。
彼女はすれ違ったイヴが頭を下げても見向きもしない。脇役が主人公の目に入らないのは当然のこと。イヴを個として認識しているかも怪しかった。
仕方がないと分かっていても。そのたびに、肩に重い石でもくくりつけられている気持ちになった。
(もう、世話役を辞めよう)
コートニーの実家に戻っても、居場所はないだろう。ジルの愛人なんかは論外として、きっと報償金が支払われるだろうからそれを元手に商売でも始めようか。隣国へ行くのもいいかもしれない。幸い、周辺国の言語は一通り修めている。下働きも慣れたものだから、自分一人くらいの食い扶持は稼げるだろう。それで、それで——もう、叶わない恋は捨てるのだ。呼び声も聞こえないほど遠くへ行けば、心の奥深くに根を張った恋心も、やがて枯れていくに違いない。
誕生日パーティ以来初めてユリエルに話しかけられたのは、イヴがそうひっそりと決意した日だった。
ユリエルはいつもと変わらない距離でイヴを見つめていた。
だからイヴも世話役らしく頭を垂れた。
「イヴ、悪いが紅茶を淹れてくれるか」
「かしこまりました」
「彼女の紅茶にはこれを一滴垂らしてくれ。彼女の国の香りづけらしい」
「かしこまりました」
ユリエルは小さなガラス瓶をイヴの手のひらに乗せた。透き通った青色で、少し揺らすと、中の液体がとろりと揺れた。
彼と別れ、厨房の隅でイヴは湯を沸かす。紅茶を淹れるのは久しぶりだったが、彼女の手はすらすら動いた。てきぱきと茶葉を取り出し、ユリエルの好み通りに計量する。
茶器を取り出そうと棚の扉を開けたとき、埃を被った薬瓶が目に入った。呪紋の侵食を抑える薬だ。かつては毎晩、これを呪布に浸していた。少し触れただけでも筋肉が痺れ、一滴でも舐めれば死に至る劇薬だから、気をつけるようにと言い含められていた。
——ガラス瓶を握りしめる。ユリエルから渡された、運命の乙女のための美しい小瓶を。
迷いは刹那。イヴの手は淀みなく、薬瓶を取り上げた。ティーカップ一つにひと垂らし。それでおしまいだった。
いつも通りに紅茶を淹れ、いつも通りにユリエルの元に運ぶ。彼は皇女とともに、中庭のテーブルで待っていた。
よく躾けられた世話役の動きで、皇女の前にティーカップを置く。香りづけされていないことに、彼女は気づくだろうか。それともユリエルが?
皇女が華やいだ声をあげて、ティーカップを持ち上げる。ユリエルは微笑みながら、その様子を見つめていた。心底愛おしいというように、柔らかく目元を緩めて、頬を染めて。
その瞬間、イヴは思わず手を伸ばしていた。
「待っ——」
けれど最後まで言うことは叶わなかった。
身を乗り出したイヴを遮るように、ユリエルが彼女の腕を掴んだ。ぐいと引っ張られて、彼の胸元に倒れ込む。
次にイヴの耳に届いたのは、令嬢のしゃがれた呻き声と、えずく音だった。
周囲が騒然となる。メイドが悲鳴をあげ、どこかの大臣が喚く。その全てが音程の狂った音楽のように鼓膜を突き刺した。
イヴを包む腕に力がこもる。力の抜けた体を引き上げられ、ユリエルの隣に立たされた。
ユリエルが四囲を睥睨し、口を開く。
「騒ぐな」
それだけで、しんと辺りは静まり返る。
彼は虫でも見るかのような眼差しで、倒れ伏す皇女を見下ろす。
「よく見ろ。そいつは魔女だ」
ハッとしてイヴも皇女を凝視する。瑞々しい肌はしわくちゃに、苦悶に見開かれた目は黄色く濁り、華奢な腕は枯れ枝のようだった。
「何が呪いだ。初めから運命の乙女として俺に近づき、王妃の座に座るのが目的だったのだ。とっくに調べはついている。……そして」
ユリエルがイヴの肩を抱き寄せた。人々の視線が突き刺さり、彼女は体を縮める。
「この策にはイヴ・コートニーが協力してくれた。俺の指示通り、魔女に薬を盛った。おかげで怪しまれずに正体を暴くことができた」
「わ、私は——」
イヴは言葉を失った。違う、違う、私はそんなつもりではなかった。
ユリエルを振り仰ぐ。その瞬間、自分が何に捕まったのかを悟った。
底光りする蒼の瞳。その奥で熾火のように揺らめく執着。
ユリエルは白い頬を染め、うっそりと微笑む。イヴの肩に、彼の指が食い込んだ。
■ ■ ■
ユリエルは少しだけ怒っていた。イヴが自分を信じてくれなかったことに。
自分の中にそんな子供っぽい感情があったことに驚く。緩む口元に手を当て、俯いて表情を隠す。
日に日に元気がなくなっていく彼女の背中をずっと見ていた。すぐに駆け寄って抱きしめたい気持ちと、もっと眺めていたい気持ちが揺れていた。そのうち、何か不穏な決意を固め始めていたので、計画を早めた。
魔女の狙いはもうずいぶん前に分かっていた。自分でかけた呪いを自分で解く。三流の詐欺師のやり口だ。運命の乙女の口づけなどという嘘の解呪方法を流布し、美しい少女に化けてロマンチックな演出のもと王子の呪いを解く。そして王子が運命の乙女に求婚し、乙女は王妃となる——。馬鹿馬鹿しい。欠伸が出そうな甘ったるい喜劇だ。
魔女を差し向けた黒幕は王国のとある公爵で、捕縛の準備も整っている。今頃、王国騎士団が捕らえている頃合いだろう。取り潰しのうえ死罪は免れまい。
しかしユリエル本人としては、この一連の騒動に感謝もしていた。呪われなければ、男爵令嬢のイヴとは出逢うこともなかったのだから。
幼い頃、世話役として現れたイヴに心を奪われた。どんな手段を使ってもそばにいてほしかった。
まず、イヴの身分は王の妻になるには低すぎた。それを覆すには、時間と努力を積み重ねるしかなかった。〈落日の宮〉からイヴ以外の世話役を追い払い、イヴがどれほど健気に尽くしているか明らかにした。十年以上世話役として過ごした献身は、現王と王妃も認めるところだ。世話役として身につけさせた教養も、男爵令嬢では得られるはずもなかったもの。今や彼女はこの国で最も王妃にふさわしい淑女だ。誰も文句は言わないだろう。もとより、言わせるつもりもない。
抱き寄せたイヴの肩が震えている。そっと顔を覗き込むと、青ざめた彼女と目が合った。濃い茶色の瞳が揺らめいている。視線をそらそうとしたので、白い頬に手を当ててこちらを向かせた。周囲から、ほうと感嘆のため息が漏れる。きっと愛し合う二人の戯れに見えることだろう。わざわざ誤解を解く必要はない。
イヴは自分の見た目が凡庸であることを気にしていたようだが、ユリエルにとっては世界で一番愛らしい少女だった。少し癖のついたブルネットの髪を指先で弄ぶのは心地よかったし、なにより控えめにはにかむ笑顔がとびきり可愛らしかった。
イヴが唇を噛みしめる。失せた血の気は戻らない。それでも、覚悟を決めたようにユリエルを見上げた。肩に触れるユリエルの手にそっと手を重ねる。それだけで十分だった。
——唯一、イヴの想いだけは、ユリエルの手の及ぶところではなかった。
寝顔に触れるだけの口づけをするような、可愛らしい恋では満足できなかった。自分がイヴを求めるのと同じくらい、強く求めて欲しかった。しかし、それが叶わないことくらい理解していた。
だからもっと、強い絆を作ることにした。
イヴと秘密を共有することで。
イヴに渡した小瓶には当然毒が入っていた。彼女の手はいずれにせよ汚れる運命だったのだ。他ならぬユリエルのせいで。
しかし彼の用意した暗殺用の毒は、もっと静かに命を奪うだけで、あんなに苦しむことはないはずだった。
魔女が呻きながらのたうち回り初めるのを眺めていたとき、ユリエルは声をあげて笑いそうになるのを懸命に抑えていた。腕に閉じ込めたイヴが苦しげに吐息を漏らすのを感じ、背筋にぞくぞくしたものが走った。
イヴは自分で運命を選んだのだ。そしてそれが、ユリエルにとっては最も重要なことだった。たとえ彼女にそんなつもりがなかったとしても。
いずれにせよ、もはや手離すつもりはない。
与えられる運命になど何の意味もない。自分で選んだものだけが、いつだって愛に値する。
王子様とお姫様は結ばれてハッピーエンド。これでこの物語はおしまいだ。めでたし、めでたし。
■ ■ ■
王国暦五二六年。
第一王子ユリエル=デディシアが戴冠し、コートニー男爵家次女であるイヴ・コートニーと結婚した。彼女は男爵令嬢という身分ではあるものの、王子時代から新王を支え、「呪われた王子事件」の立役者でもある。文句を言う者は一人もおらず、国全体が二人を祝福した。結婚後も二人は仲睦まじく、王は片時も王妃を手離すことはなかったと伝えられる。二人は理想の夫婦として民に慕われ、王国では彼らを題材にした歌劇や童話が盛んに作られた。
そのどれもがこう結ばれる。
二人はいつまでも幸福に暮らしました、と。
<了>