壱ノ妙 白石美咲の件
キャンバスから目線を外して顔を上げる。
周囲を見ると辺りはずいぶんと薄暗くなっていた。
絵を描くことに夢中で時が経つのを忘れていた。
美術部の活動でコンクールに出品する作品の制作に、かなり集中して取り組んでいたのだろう、美術室には白石美咲だけが一人残されていた。
――今年も最優秀賞が貰えるかもしれない。
そう思えるほど、美咲にとって会心の作品になりそうだった。
壁にかかった時計を見ると、すでに六時になろうとしている。
――そう言えば、部活の仲間が「まだ帰らないの?」とか「先に帰るからねー」とか言っていたのを、「うん、うん」と生返事で答えていたような、ないような。
と美咲は思う。
下校時刻はすでに過ぎている。
美咲は慌てて画材などを無造作に片づけ、キャンバスの収納もそこそこにスクールリュックを肩にかけ美術室の扉に手をかける。
「えっ?」
扉を開けかけたそのとき、扉の狭間から薄黒い靄のようなものが漏れ出るのを感じ、思わず声を漏らす。
戸惑っている間にも、靄は室内にも満ち始めた。
やむを得ず美咲は、恐る恐る廊下に出る。
いつもと違うただならぬ空気が漂う廊下を、美咲は身を縮めながらも、廊下の向こうの階段に向かって、一歩一歩足を運んでいった。
廊下の先は異様に暗く、何もない漆黒の闇の中へ吸い込まれるような感覚に襲われる。
重たい空気が躰を押し潰そうとする。
冷たい空気の塊のようなものが、かすかに頬を掠めた。
「ひぇっ?」
胃が縮み上がり、脂汗が噴き出す。
階段に近づくにつれて濃くなる闇の中に、蠢く何かがあることに気付いた。
いや闇自体が蠢いているのだ。
体温が急激に下がり、背筋に冷たいものが走る。
躰が凍ったように動かず、足を前に進めることができない。
しかし、たち込める靄は辺りを一段と暗くし、闇の中へと引き摺りこもうとするかのごとく濃くなっていく。
獣臭と錆びた鉄の匂いが入り混じりツンと鼻に付く。
――いやーっ 血の匂い。
空気が全く肺に入ってこない。
呼吸が徐々に荒くなる。
美咲は思わず手のひらで鼻口を覆った。
何か苦いものが胃からこみ上げてくる。
――とにかくここから出なくちゃ
美咲は気力を振り絞って、蠢く闇の中へ足を踏み入れていく。
周囲の異変を見逃さないようにじっと目を凝らし、天井、壁、床に満ちた闇の濃い部分に注意を払いつつ進む。
暗闇の中からは、美咲を凝視するような強い視線。
かたわらで、何か肉厚なモノが、地面を這うような音をたてて蠢いた。
「いーっ」
美咲は、叫びながら身を屈める。
しかし、それは一瞬のことで、次の瞬間には何処へともなく消え失せる。
心臓が早鐘のごとく鳴り、過呼吸で心肺が持たない。
わずかに残っている力を振り絞り、恐る恐る階段を下っていく。
至るところで何かが蠢き、のた打ち、這いずっている。
――見ない、見ない、見ない……。
躰を縮こまらせるながら、美咲は眼を見開いてはいるものの、意識の中から見たくないものを遮断していた。
階段を一歩また一歩と、踏み締めながら進む美咲の足首あたりに、氷のように冷たい何かが、ねっとりと掠める。
再び背筋が電撃を受けたように凍り付く。
巨大なウミウシか、あるいは泥まみれの芋虫のようなヌルヌルした感触が、足首から這い上がり、ふくらはぎに纏わりつく。
「いやぁぁーーっ」
美咲は、恐怖のあまり半狂乱で叫びながら、最後の力を振り絞り階段を駆け下りようとする。
その刹那、蠢く闇の獣は足首に絡みつき、ふくらはぎを締め付け、太ももに喰らい付いた。
美咲は、足を取られて階段を転げ落ちていく。
「痛い、痛い、痛っ、うっ」
段差に躰を打ち付けながら、下の階との間にある踊り場まで一気に転げ落ちていく。
窮地に立たされると人は、逆に物事を冷静に考えられるのかもしれないと美咲は思った。
転げ落ちる自分がスロー再生のように感じる。
もはや、痛みも麻痺して感じない。
――死ぬのかなぁ?
――でも、踊り場で止まれば死ぬことはないかも……。
踊り場で止まれば、確かに重傷ではあるかもしれないが、死ぬところまではいかないだろう。
しかしながら、美咲の想像を裏切って、何故だか美咲の躰は、踊り場で大きく弾み、跳ね上がった。
美咲は、踊り場に転げ落ちる直前、あのおぞましい血の泥に覆われた得体の知れないものに、顔から胸までを深く沈みこませていた。
「うぐぐぅーっ」
鼻や口の中に血の泥が押し込まれて、強烈な異臭と感触が美咲を襲う。
そして、その反動で跳ね上がったのだった。
美咲の躰は、踊り場の正面にある窓の方へ弾かれる。
踊り場の窓といえは通常は閉まっているし開ける者もまずいない。そして、比較的高い位置に設置されている。
にもかかわらず、何故か窓は開かれていて、弾かれた美咲の躰は、造作もなく窓の外へ投げ出された。
美咲の躰が宙に舞う。
落ちる、落ちる、回転する、そしてさらに速さを増し、もがき落ちる。
美咲の躰は、地面に叩きつけられた。
最初は、右肘から骨が砕ける感覚と強烈な熱さ、次は右足から灼熱のように痛みが駆け上がる。そして、全身に痺れが走った。
朦朧とする意識の中で、美咲はかろうじて目を細く開ける。
霞む視界の前には、頬にゴツゴツと当たる冷たいアスファルトと、駆け寄って来る人のいくつかの足。
何かを慌ただしく叫んでいるようだけど、何を話しているのかよく聞こえない。
ぼんやりとした視界の中で最後の目にしたのは、校舎の陰に立つ一人の少女。
顔はよく見えないけど、長い黒髪、右耳の上辺りに鈴がついた変わった髪飾りをしている。
涼やかな鈴の音。
鈴の音は風に揺れる風鈴のように、緩やかに美咲の脳裏に響き渡る。
リーン、チリーン
――へぇー。変わった髪飾り。
美咲の意識は、もう一度宙に舞い深い闇の中にゆっくりと落ちていった。
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