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将棋マスターマサキ  作者: ひとやすみ
3/3

藤囲システム

私も共にシステムの(なか)に在りたい。

それなら独りじゃないのでしょう?

 ドアが開き、また閉まる音で爽太朗は目覚めた。

 仰向けに倒れていた身体を起こして立ち上がる。間もなく玄関を仕切る襖が開いて誰かが入ってくるだろう。

 盤を挟んだ反対側で、マサキも入口の方に注目して立っている。


 どれくらい気を失っていたのだろうか。意識はかつてないほどに明瞭で、やけに身体が軽い。そのことが爽太朗に一層敗北を実感させた。

 対局相手の体調を見抜き、癒して勝つ。そんな懐の広い将棋を目の前の小さな少年が見せた。その事実に爽太朗の正確な理解が追いつく前に、二人の男が入室した。


 一人は細身のスーツを身体の一部のように纏っている。

 濃紺のジャケットに赤のネクタイの組み合わせが意思の強さを感じさせる。縁無しレンズの四角い眼鏡はいかにも誠実そうな顔貌に知的な印象を加えている。

 日本将棋協会会長、平頼光である。


 もう一人、グレーのスーツの地味な男は、平会長の背中を守るように無表情で立っている。爽太朗は実際に会うのは初めてだったが、似舞銀九段の顔は知っていた。タイトル獲得経験もある強豪棋士なので、当然ではあるのだが。


「藤囲四段、立場を(わきま)えず勝手な真似をしたな」


 爽太朗を叱責する平会長は、いつもより少し高い声の調子で、どうしても浮かぶ楽しげな表情を抑え切れない様子だった。


「申し訳ありません」


 謝りつつも、言葉と裏腹に会長は上機嫌だなと爽太朗は感じた。形式的に言うべきことを一言言い終えると、すぐに平会長はマサキに向き直った。


「君が遠呂智将棋(おろちまさき)君だね?」


 マサキは小さく笑って(うなず)いた。


(遠呂智だって?)


 『最強棋士』遠呂智将治の活躍は爽太朗が生まれる大分以前のことだが、棋士として当然にその伝説の数々は知っていた。子供の頃には棋譜を並べて勉強したこともあった。


「流石は将棋協会。見られていただけじゃなく、もうそこまで知られているんだね。」


 正体が明らかにされたことで、マサキに動揺は見られなかった。

 マサキはマサキで日本将棋協会のことを知っているのだろう。何しろあの遠呂智将治の息子なのだ。


「私は平頼光。日本将棋協会会長を務めている」


「知ってるよ。とうさんの好敵手(ライバル)だった人でしょ」


「遠呂智君が、君にそう言ったのかい?」


「うん。お互いを高め合う存在だって。どんな将棋を指したか、棋譜を並べて教えてくれたよ」


 平会長の肩は震えていた。マサキの言葉を恍惚として噛みしめているようだ。


好敵手(ライバル)!)


 その言葉の響きに、爽太朗の心も撃たれた。自分の将棋はどう映っただろう。マサキの心に自分は残っただろうか。

 認められたい。自分を見てほしい。爽太朗の胸の内に、今までには無かった仄暗い情熱の炎が灯った。


 その時、再び誰かが入ってくる音がした。玄関で履物を脱いで、上がってくる気配がする。


「だが、道場破りを黙って帰らせるわけにはいかないな。今度は私が相手になろう」


 満面の笑みで、平会長が言った。何か取り繕ってはいるが、結局のところただ対局()りたいだけなんだろうなと爽太朗は思った。


「ダメですよ会長。指名は私なんですから」


 襖を開けて入ってきた人物が平会長を窘めた。もう一人の藤囲、藤囲猛史(ふじがこいたけふみ)九段であった。

 黒のジャケットとチノパンに、赤とグレーのボーダーシャツ。真ん中で分けた髪で隠れがちな目は、開いているのか分からないほどに細められている。口元にはあるかなしかの微笑(アルカイックスマイル)が、いかにも自然に形作られている。


(相変わらず、全て見透かしたような……)


 爽太朗は、藤囲九段に良い感情を持っていない。


「あっ!」


 続いて入室してきた少女を見て、思わず声が漏れた。佐倉里那(さくらりな)は督励会三段リーグに所属する棋士の卵で、藤囲九段の弟子である。

 落ち着いた紺色のブレザーは進学校で有名な女子高の制服で、黒いストッキングに包まれた伸びやかな脚は、爽太朗の思考をどぎまぎさせた。

 督励会には爽太朗より一年早く入会していて、歳も一つ上。誰にでも分け隔てなく接する面倒見の良い彼女に、当時は何くれとなく世話になったものだ。


「ソータロー……」

 自分が小さな少年に敗けたことを知ってか、遠慮がちに名を呼ばれた。爽太朗は今日出かけてきた本来の目的を思い出し、はっとした。


「今日は三段リーグの対局日だったよね。僕、里那さんの応援に来たんだった」


 それなのに、ああそれなのに。


「私も敗けちゃった。でも、ソータローと違って慣れてるからね、敗けるの」


 明るく言ってふふっと笑った。

 これで今期は黒星が一つ先行する形になったはずだ。四段昇段はおろか、来期の順位も厳しくなってしまう。

 そんな状況でも自分を気遣って気丈に振る舞う里那に、爽太朗は素直に感心していた。


偽物(フェイク)


 マサキが里那を見て、ぼそっと呟いた。何の感情もこもらない抑揚のない響きだった。

 里那は一瞬、大きな目を更に大きく見開いてマサキを振り返ったが、すぐに元の表情に戻り特に何も言わなかった。

 爽太朗にはこのやり取りの意味は分からなかったが、何となく何かが面白くないと感じた。


 九畳の和室の入口付近から時計回りに、藤囲九段と里那、平会長と似舞銀九段、爽太朗、マサキの順で将棋盤を囲んでいる。


「ロートルは腹が立ったけど、顔が良いって言われると悪い気はしないな」


 不意に藤囲九段が口にした言葉に、爽太朗は横っ面を叩かれたような気になった。


「えっ!」


 なぜあの時心に思っただけのことを、その場に居もしなかった人間が知っているのか。


「私は色々なことを知っているのだよ」


 よく見ると笑っていない。いや、やはり微笑んでいるのか。その口元が急にはっきりと笑みを形作った。左の口角が上がっている。目をカッと見開いた。


(目、開くんだ……)


 初めて見る藤囲九段の切れ長の目には、有無を言わせぬ迫力があった。


「……赤」


 そう言って藤囲九段は自分の左隣にいる里那を確認するように見やった。里那は一瞬考え、はっとした顔の後で藤囲九段を睨み付けた。


「……最低!」


 小さく呟きつつ、少し顔を赤らめている。藤囲九段はいつもこんな風に里那の感情を刺激して動かそうとする。爽太朗はいつもそれが気に入らない。自分が里那を守ってあげたかった。


「なるほど。いいお師匠さんなんだね」


 マサキの言葉は、爽太朗には甚だ見当違いに思えた。


「君にも一局教えてあげよう。いいですね、会長」


「どうやらそれが遠呂智君の意思のようだ。私には分からないが、何か理由があるのだろう」


 平会長の言葉にゆっくり肯くと、藤囲九段は胸元から首に掛けた玉将の駒を取り出した。マサキの飛車と同じく、赤々と輝いている。


「理由の一つはこれでしょう。三世名人、伊藤宗漢が島原の乱で天草四郎の力を封じるために作った『神封(しんぷう)の駒』です」


 平会長の双眸が、驚きに見開かれた。


「まさか実在して、所持までしているのか。どこで藤囲九段は?」


 どこでどうやってそんなことを知り、実物を手に入れたのか。平会長も知りたいことが多すぎて上手く質問できていないようだ。


「私は色々なことを知っています。『神封』というツボにはバストアップ効果があるとされているのですよ」


 藤囲九段は関係ありそうでない無駄知識を披露してはぐらかし、にやりと里那を見た。

 里那は自分の控えめな膨らみを視認すると、またはっと気付いた顔になって自分の師匠を睨んだ。その間のほんの一瞬、里那がマサキに目をやったことに爽太朗は気が付いた。


「棋士なら将棋で語ろうよ」


 もう付き合い切れないといった様子でマサキは盤の前の下座に着いた。


「そうしようか」


 楽しげに言いながら上座に着いた藤囲九段の目は、再び細められている。

 互いに慣れた手付きで駒を盤上に配置していく。静寂に張り詰めた空気を駒音が切り裂く。盤を挟んで対峙する両対局者の闘志が高まり、将気が漲る。


「あまり長い時間は掛けられない。持ち時間15分の切れ負けで、立会人は私が務める」


 平会長の言葉に両対局者が肯いた。


 振り駒の結果、マサキの先手番に決まった。


 果たしてどんな将棋になるのか。平会長をはじめ三人のプロ棋士が見ている。三手指しのようなあからさまな反則はできないだろう。そうかと言って尋常の盤上の勝負に収まるとも思えない。

 爽太朗は固唾を呑んだ。


 意外にも闘いは盤上で進んでいった。藤囲九段の四間飛車に対し、マサキは雁木に構える。両者の駒組みは飽和に近づきつつある。

 何か違和感があった。ほとんど時間を使わない藤囲九段に対して、マサキは常に一定の秒数を使い同じリズムで指す。


(手順もどこかで見たようだが、あれは確か……)


「ソフト指し!?」


 思わず口をついたが、しかし、どうやって。


「アカシックレコードって知ってるかい?」


 盤面に顔を向けたまま、マサキが言った。爽太朗は答えられなかった。


「宇宙誕生以来のあらゆる情報が蓄えられた記録層のことさ。インターネットはいずれアカシックレコードへと進化を遂げる」


「なるほど。その寝ぐせ(アンテナ)でネットに接続し通信していたのか」


 藤囲九段が会話に割って入った。


「ネットに接続された無数のコンピュータの使われていない演算能力を拝借すれば、どんなスーパーコンピュータも上回る力となる」


 爽太朗は戦慄した。


(大した作業もしていないのにCPU使用率が高くなることがあるが、まさかあれもこいつの仕業なのか!?)


 互いの駒組みは飽和状態となり、遂に本格的な戦端が開かれる。開戦は歩の突き捨てから。マサキは▲2四歩と飛車先を突き捨てた。

 マサキの首に掛けられた神封の飛車が強く輝き出し、その光が盤上マサキ陣の飛車に流れ込む。


「オレの飛車は、今、無敵の加護を受けた。さあ、勝負だ!」


 マサキが獰猛な光を宿した(まなこ)で藤囲九段を睨み付けた。藤囲九段はあくまでも静かに、その視線を受け流している。


「その若さで本当に大したものだ。君には藤囲システムの真の力を見せよう」


 藤囲九段の首の玉将の駒が輝きを増した。光が盤上の藤囲陣の王将に注がれると、更に隣の駒から駒へと伝播していった。瞬く間に藤囲陣営の駒たちは赤い光に包まれた。

 藤囲九段の将気が際限無くどこまでも高まってゆく。


(これが、トップ棋士の本気の将棋なのか!?)


 これが将棋なら、自分の今までやってきたことはまさしく児戯に過ぎない。


「始めは居飛車の左美濃や穴熊に対する戦術に過ぎなかった藤囲システムだが、やがて将棋のあらゆる戦法をサブシステムとして内包するようになった。そしていつしか、システムは一人歩きしだした。政治、経済、芸能、スポーツ。この世のありとあらゆるものを取り込んでいった」


 刹那、藤囲九段から発せられた将気が拡がって、部屋全体を包んだように思えた。


(いや。包んだ、というよりは一瞬で突き抜け、更に遠くへと……一体どこまで?)


 藤囲九段はマサキが突き捨てた2四の歩を取り上げてゆっくりと駒台に置いた。

 極限まで高まった藤囲九段の将気が臨界点を超えて爆発し、空気がうねって渦を巻いた。将気の暴風が物理的な力の流れとして顕在化していく。


dɔ́rf(ドーフ)!」


 藤囲九段がカッと目を見開き、真言(マントラ)を発するとともに駒音高く△2四同歩と打ちつけた。

 たゆたっていた破壊の波動が、衝撃波となってマサキ陣に襲いかかる。


「▲5八飛車!」


 マサキは神封の加護を受けた飛車で咄嗟に玉将を守護(まも)ったが、その他の駒は戦闘不能なほど傷付いてしまった。


(これが藤囲システムの真の力なのか……)


 爽太朗の理解は藤囲システムの全容にとても及ばないが、トッププロである平会長や似舞銀九段も驚きを隠せない様子に見えた。

 一人里那だけは、劣勢のマサキを心配そうに見つめていた。爽太朗の心はざわめいた。


「この宇宙の有相無相(うそうむそう)が、システムに組み込まれた」


 藤囲九段は目を細め、あるかなしかの微笑(アルカイックスマイル)を浮かべている。坐禅(ざぜん)を組み、左拳を人差し指のみ立てて、それを右手で握っている。


「即ち、宇宙は今、システムの(なか)に在るのだ!」


(これが、将棋……なのか……)


 自分の知っている将棋(それ)とは何もかもが違った。だが、固定観念を捨て去って藤囲九段が語る将棋を受け入れなければ。成長の歩を自ら阻害するのは愚か者だ。


「藤囲システムを発動した私は、宇宙の真理たる大日如来と一体となる。大日如来は大いなる知恵、アカシックレコードそのものでもある。自陣の駒は神封の玉の力により、全てが大日如来の化身となり(ひと)しい力を持つのだ」


(そうか。だから藤囲九段は『知っている』のか)


 藤囲九段の千里眼、順風耳は紛れもなく本物であったのだ。


 △2五歩。じわりと一マス、藤囲九段が赤い輝きを放つ歩を進める。


 歩の一枚に至るまでが如来の力を持つ。マサキ陣営で互角に戦えるのは同じく神封の加護を受けた飛車だけ。これだけの戦力差では、いくらマサキでももう指す手は残っていないだろう。


「どうやら勝負はあったようだ」


 立会人の平会長がマサキに決断を促した。


「ありません」


 意外にあっさりとマサキは投了の意思表示をした。


「とうさ……じゃなかった。師匠の言ったとおり、すごい将棋でした。お願いします。藤囲先生、オレを弟子にしてください」


 その場にいた全員が、それぞれが抱く思惑に表情を変えて一斉にマサキに視線を向けた。何か言いたげな平会長を、似舞銀九段が懸命の目配せで黙らせていた。当のマサキは、いつの間にか年相応の少年らしい照れた笑いを浮かべている。


(こんな表情(かお)もするんだな)


 爽太朗はマサキに少し親近感が湧いた。


 相変わらず涼しい顔をした藤囲九段の横で、里那は肩の長さの黒髪をしきりに触っていた。長い付き合いの爽太朗には、それが里那の動揺を表していることが分かる。

 熱に昂ぶった里那の瞳の光が、爽太朗の胸にチクリと刺さった。

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