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将棋マスターマサキ  作者: ひとやすみ
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02 豚は敗れた

豚は私です。生きるってしんどい。

 両国国技館に特設された色鮮やかな四角いリング。華々しく照らすスポットライト。既に終盤に差し掛かった将棋は勝勢だ。相手はもう首を差し出すしかない。

 勝利を確信した前崎先(まえざきすすむ)九段の耳に、ラウンド終了のゴングの音が響く。特別招待された一万人の観衆から、ため息の混ざったどよめきが起こった。


 師匠であり日本将棋協会会長を務める麦長君男(むぎながきみお)の強い反対を押し切って開催に漕ぎ着けた将棋ボクシングの試合だ。病に侵された身体が満足に動くうちに、棋士として生きた証を残したかった。二階級制覇の元世界チャンピオンを引き立て役にして、自分という存在を誇示して見せるのだ。

 麦長会長はワンマンで辣腕の政治屋で、あらゆる武道・スポーツ等は最終的に将棋で勝つための技術であり、将棋の一部に過ぎないとの主張を国に認めさせ、現在の日本将棋協会の地位を固めた。

 当然、各界からの猛反発を受けたが、国は判断を覆さず日本将棋協会はスポーツ省ともいうべき地位と権限を持ちながら、組織として独立した立場を認められた極めて特殊な存在となった。一説には国家の安全保障に関わる重大な裏取引があったと言われる。


「四十歳も半ばを過ぎての反抗期はやめてくれ」


 唯一前崎の病を知る師の懇願は、天邪鬼な愛弟子をかえって依怙地にさせた。国を相手取って己の主張を通す傲岸な老人も、最後には弟子可愛さに屈服した。


 一分間のインターバル中に、リング内から将棋盤は撤去された。次のゴングが鳴れば三十秒間のボクシングラウンド開始だ。そこさえ凌げば将棋で勝てる。


(――いや、守りに入るな。倒して勝つんだ!)


 ゴングと同時に腹肉を揺らしながら対角線を走り、小柄で細身の元チャンピオンに襲い掛かる。インターバル中から高めていた将気を上半身に還流させると、前崎の贅肉まみれの肉体が明王像のごとく裏返った。

 筋骨隆々の前崎の肉体。パンチの重さは相手と比較にならない。ガードの上からお構いなく青いグローブを叩きつける。だが、突風のような連打(ラッシュ)が瞬く間に終了すると、狙い澄ました反撃の拳が精確に前崎の肝臓(レバー)を刺した。

 苦痛に顔が歪む。耐え切れず開いた口から呼気が漏れ、顎が上がった。赤いグローブの右ストレートが迫るのを両目に捉えたが、もはや反応することすら叶わず、前崎の顎は砕かれた。

 右目の視界の隅にリングサイドで応援する妻の姿が映った。前崎の体は膝から崩れ落ち、意識はこの世界から隔絶された。


 数分後に覚醒し、両肩を支えられながら何とか感想戦を行った。砕かれた顎のせいで喋れず、身振り手振りで必死に意思を伝える姿が自分でも滑稽で哀しくなった。

 将棋でも前崎負けの順が発見されると、余りの不甲斐なさに前崎は静かに涙を流した。よろめきながらリングを降り退場する前崎に、観衆から心無い罵詈雑言が飛び交う。


「将棋に専念しろ!」

「棋界の面汚しっ!」

「安酒飲んで道路で寝ていやがれ!」

「永世勘違いだけは盤石で防衛だな」

「体絞ってこいよ、この豚野郎!」



「豚野郎!」「豚野郎!」「豚野郎!」「豚野郎!」「豚野郎!」「豚野郎!」


「……もうやめてくれ!」


 どこか聞きなれた響きをした声色の罵倒が何度も繰り返(リフレイン)され、耐え切れず声を上げ現世(うつしょ)へと逃げ戻る。

 午後三時過ぎの西陽がトタンの壁を熱し、安部屋を灼熱地獄に変えていた。窓から差し込む強い光が顔に当たっていて、全身が汗に塗れている。


 あの敗戦から二年が過ぎた。日本将棋協会の威信を地に落とした敗戦に、各方面からの風当たりは強かった。時に蔑まれ、時に憐れまれる。他人(ひと)の残酷な視線が前崎の精神を蝕む。

 断っておくが、豚の体脂肪率は食用ですら15パーセント程度であり、決して肥満ではない。将棋界のみならず豚の名誉すら毀損した己の無力さが、前崎の心を狂おしく責め(さいな)んだ。

 

「所詮生きるは苦しみなのか」


 自嘲気味に小さく嗤い、風呂無しのシャワーでだらしなくゆるんだ体を洗い流した。


「豚の子」


 子供が小学校で凄惨ないじめに合い、妻は離婚して子供を連れ、遠く離れた実家へ戻った。前崎は家を売り払った金で慰謝料を払い、激減した収入の多くを会えない子供の養育費に充てている。

 最低限の身支度を終え、寝巻兼用のスウェット姿のままサンダルを突っかけてアパートの玄関を出た。自室のすぐ脇にある錆びた鉄の階段を下り、建物一階の店のドアを開けた。


 東京・将棋会館からほど近い戦堕ヶ谷(せんだがや)商店街にあるスナック『血だまり』は、二階と三階が単身者向けのアパートになっている。大家でママの響子は三十代後半の妙に艶のある未亡人だ。無造作に纏めた明るい色の髪。暗い照明に照らされたうなじに何とも言えない色気が漂う。

 夫は若くして将棋の対局で命を落とした人で、店の名前も将棋に由来している。脚付き将棋盤の裏側には四角錐が埋め込まれたへこみがあり、これを『血だまり』と呼ぶ。対局中に横から口出しする者は、首を斬られてその血だまりに晒されるのだ。盤の脚先がクチナシの実を象って作られているのも同様の意味を持つ。


 そんな事情もあって、プロ棋士で店子の前崎には何かと親切にしてくれる。今もランチが終わって休憩中の店に我が物顔で入り込み、残ったツケなど知らんぷりで勝手を言う。


「ママ、ちょっと早いけど一杯飲ませてよ」


「いかにも二日酔いって顔して。体壊すわよ」


 既に諦めているのか、元々それほど関心もないのか、心配しているような|台詞《セリフを少し掠れた甘い声で囁きながら、響子ママは氷を入れたグラスにボトルからなみなみとバーボンを注いでカウンターに置いた。


「辛いこの世に、しばしさらばだ」


 前崎は一気にグラスを煽った。


「おかわりちょうだい」


「そんなに不健康な顔色じゃ内臓も売れないわね」


 溜まったツケの支払いを暗に促しつつも、困った顔でやさしく微笑み、二杯目を注いだ。左口元のほくろが、色白の肌に映える。


 将棋と同じで大して強くもない酒を急速に体内に摂取し、酔いの力で前崎は少し現実から離れた。寝ても覚めても悪夢は追ってくる。酔って忘れるしかできなかった。

 棋士を引退することは考えられなかった。小学生の身で住み込みの弟子入りをし、十代後半でプロ棋士になった。他に生きる術を知らなかった。


 絶望が劇薬なら、希望は麻薬である。いまさら自分が名人になる姿は想像もできない。頭ではそんなことあり得ないと理解している。だが、心のどこかに居座った希望が「もしかしたら」と囁きかける。そんなもの、いっそ捨ててしまえれば楽になれるのに。


「それを捨てるなんてとんでもない」


 天の声が聞こえた。


(勝手なことばかり言いやがって……)


 胸が苦しくて切なくて、でも、なぜか温かくて、どうにも処分できない想いを愛おく抱きしめた。


「ママ、好きなんだ。オレ、愛してるんだ」


「またその話?(すすむ)ちゃん酔うといつもそれね。誰にでも同じこと言ってるんでしょう?」


 実際その通りなのでぐうの音も出ない。以前にも別の店で、若いホステスを相手に散々くだを巻いて呆れられたばかりだ。でも、それでも、狂おしく疼く胸の痛みに前崎は抗えず、弱く惨めな自分を(さら)け出す。


「オレ、将棋が好きなんだ。将棋無しじゃ生きられないんだ。」


「それなら昼間からこんなとこにいないで、将棋の勉強でもしたら?」


 若い頃から無頼を気取って遊び歩き、将棋より囲碁や麻雀が好きだと言って(はばか)らなかった。本当は誰よりも将棋が好きだから、将棋に愛されないことが怖かった。全身全霊を懸けて、それでも報われなかったら、どうしたらいいのだろう。「やればできる。やらないだけだ」と自分に言い訳を重ねてきた。


「愛想を尽かされたかな。失望は座薬だね」


「あら、私は始めから熱なんてないわよ」


 切り捨てるような台詞を、優しい微笑み混じりに言う。どれだけこの笑顔に救われたろう。前崎は一人納得して笑った。

 身体にまわった酒が意識をどこか彼方へと連れ去ってゆく。首に掛けられた桂馬の駒は鉛色だった。




 東京・将棋会館最上階の会長専用トレーニングルームで日課の鍛練を終え、併設されたシャワールームで汗を流す。

 引き締まったしなやかな肉体は、とても四十代後半の男のものとは思えない。服を着た状態なら細見で中背の優男としか見えまい。いかにも温厚篤実そうな顔は知性の光を湛える。

 だが、それは仮面である。いざ対局となれば猛獣のごとく闘志を剥き出しにし、相手に襲い掛かるのだ。


『一秒間に一億と三手指す』


 日本将棋協会会長たる平頼光(たいらよりみつ)は未だ計り知れない実力(ちから)を持つトップ棋士の一人だ。『真剣』なら彼の苛烈な攻めを受け切れる棋士はほとんどいないだろう。


 濡れた身体を厚手のバスタオルで拭き取り、縁の無い四角いレンズの眼鏡をかけた。


 カーテンの閉まった薄暗い会長室に下着姿のまま戻ると、何度繰り返し観たか分からない動画を大画面のモニターに映し出す。

 仕立ての良い濃紺のスーツをゆっくりと身に付けながら、画面を注視する。


 明王のごとき剛体と化した前崎が、憤怒の形相で相手に襲い掛かる。


(この時にはもう、病に侵されていたんだな……)


 今になって見返すと、前崎は勝負を焦っているように見えた。


(ひねくれ者の前崎がこんな真っ向勝負を挑むなんて)


 顎を撃ち抜かれた前崎が膝から崩れ落ちる。


(病が無く、前崎(おまえ)らしい柔の将棋で挑むことができていれば、判定負けぐらいには持ちこめていたろう……)

 あの時には気付くことができなかった。元々柔らかな見た目と裏腹に激しやすい性質の平は、棋士全体の名誉を傷付けた醜態を許すことができず、感想戦を終えて退場する前崎を激しく罵ってしまった。


「体絞ってこいよ、この豚野郎!」


 棋士としての格には越えられない壁ができてしまったとはいえ、同世代の仲間の一人として心に壁は無いつもりだったのに。

 豚にも前崎にも申し訳ない気持ちで一杯だった。


 この敗戦はで失ったものは、今夏の藤囲爽太朗(ふじがこいそうたろう)四段の活躍で完全に取り戻した。彼は棋界の宝として、大事に育てていかねばならない。


 会長職にある者として政治を考え、気が付くと頭から将棋が離れている。本来一棋士として将棋の本分を追求したい気持ちの強い平は、現実との乖離(ギャップ)をただ責任感で埋めていた。


 矛盾する心に懊悩(おうのう)する平は、一人の男を想う。


(君が今の私を見たら、どう言うだろうか?)


 かつて史上最強と言われた一人の棋士がいた。自らに追随する同世代の棋士たちの先頭に立ち、一つの時代を創っていった。

 時に憧れすら抱きつつ、平もまた遠呂智将治(おろちまさはる)の背中を倒すべき相手として追い続けた。


 対局中彼が見せる真剣な眼差し。やや屈んだ状態で下から睨み付けるように視線をぶつけてくる。平は強気に睨み返すが、内心は常に歓喜に溢れていた。

 大勝負。二人で一つの棋譜を紡ぎ上げていく共同作業は、恋人同士が過ごすよりも甘やかに濃密な時間だ。勝敗が決して美しい一局が完成する瞬間には絶頂し、その後しばし虚無に襲われたものだった。

 または、勝敗が縺れた糸のように絡んで、形勢が波のように行ったり来たりする局面。平が悪手を指して一局を台無しにしてしまうと、彼は落胆と侮蔑の入り混じった冷たい目を向けてくることもあった。

 そんな時、平の背筋は一瞬ゾクリとするが、その後急速に上気し、体が熱くなるのを感じる。


(そんな目で、私を…私を……もっと見てくれ!)


 棋界に存在する全てのタイトルを同時に独占するという偉業を達成した翌年、遠呂智将治は自ら棋界を去った。もう二十余年前のことだ。


 過去を振り返りながら、平の妄想は暴走を続ける。

 若手の頃に棋士仲間で行った研究旅行。温泉風呂で目にしたご立派な大蛇(だいじゃ)の面影。


(ああ…遠呂智君のオロ…)


――カッカッ


 だが、予期せず短く二度繰り返された甲高いノックの音に、平の思考は中断された。


「は、入りなさい」


 常に無く狼狽して言うと、ドアは閉じたままにその付近の影が濃くなり、人型をとった。

 一見してどこにでも居そうな特徴の無い顔をしていた。暗いグレーの地味なスーツを身に纏い、背中に忍者刀を背負っている。この特徴の無い男が、必要な時には必要な姿に化けるのだ。

 日本将棋協会の諜報戦を指揮する忍者軍団の頭領、似舞銀影郎(にまいぎんかげろう)九段である。


「藤囲四段が、道場破りの少年に敗れました」


 抑揚の無い声の報告に苛立ち、平は思わず叱責した。


「お前たちが監視し(つい)ていながら、どういうことだ!?」


「他に誰も見ておりませんし、相手に興味もありましたので」


 感情の振れない平坦な響きに肩を透かされながら、平も気になって思い付くままに尋ねた。


「気になる相手とは?少年?何歳(いくつ)くらいだ?」


「会館入口の生体認証装置が政府のデータバンクに問い合わせたところ、遠呂智将治先生のご子息でした。遠呂智将棋(おろちまさき)、十一歳になったばかりの少年です。」


「なんだって?遠呂智君に息子が?私は産んでないぞ!」


「――会長?」


 似舞銀のいつもの無表情に心無しか困った色が浮かんだのを見て、平も少し平静を取り戻すことができた。


「すまない。取り乱してしまったようだ」


 大変なことになったが、とにかく現場に行かなければならない。何より自分自身の目でその少年確かめてみなければならない。


「藤囲四段とマサキ君は八階の来客用対局室です。藤囲九段も連絡を受けて向かっています。」


「そうか。我々も向かおう」


 平の言葉とほぼ同時に、似舞銀の姿が影に溶けてゆき、消えた。


(忍とは恐ろしいものだ。奴も心中は何を考えているものか)


 (はや)る気持ちを抑えつつドアを開け会長室から出ると、影に消えた似舞銀が廊下に待ち構えており、目が合った。


「会長急ぎましょう。こちらです」


「一緒にドアから出ればよかったのでは?」


 聞こえない振りをしてエレベーターへ先導する似舞銀の背中に向かって平は思う。


(本当に何を考えてんのかな、こいつは)


 呆れながらも、悪い奴ではないのかもしれないなと平は思った。


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