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将棋マスターマサキ  作者: ひとやすみ
1/3

01 初手1六歩 ―― シュートサイン ――

今宵(クリスマスイヴ)を孤独に過ごす全ての同志に捧ぐ。

あわてない、あわてない。Have a break!

 東京・将棋会館は江戸城寛永度天守を模した外観を持つ。天守台を含め高さ約60メートル、五層の屋根と白漆喰の壁面には黒い金属板が貼られ、最上層の屋根には金の(しゃちほこ)(そび)える。

 閑静な住宅街に不相応な威圧感は、敷地を囲んだ城壁の正門を警護する二人の番兵が携える抜身の槍に増幅される。


 藤囲爽太朗(ふじがこいそうたろう)は門の前まで来ると、顔なじみの番兵たちに人懐こい笑顔を向け、いつものように声を掛けた。


「こんにちは」


 番兵たちは槍を下げ、丁寧に会釈した。詰襟(つめえり)の学生服を着た童顔の少年であっても、爽太朗はれっきとしたプロ棋士であり、番兵たちにとっては雇い主側の人間なのだ。

 昨年十月に史上最年少でプロ棋士になって一年余りが経つが、養成機関である新鋭棋士督励(とくれい)会時代から爽太朗の振る舞いが変わることはなかった。


 プロ棋士としてのデビューから公式戦二十九連勝の新記録を樹立し、今夏には非公式戦とはいえボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンと完全なボクシングルールで闘い、KOで勝利した。

 第2(ラウンド)に相手の大振りの右ストレートにカウンターの雀刺しを合わせ、身長2メートルのロシア人ボクサーを失神させた瞬間には、日本国中が熱狂の渦に包まれた。プロ棋士藤囲爽太朗は、今や時の人となった。


 晩秋には暑い日だった。門をくぐって会館入口に向かう爽太朗の視界の隅に、赤っぽく色づき始めたクチナシの実が映った。




 会館の外観は江戸城天守閣だが、内部は十五階建ての現代建築である。一階は入口左手に受付、その奥にエレベーターホールとロビーになっている。それ以外の大部分を占める広大なフロアスペースには、将棋に関する貴重な文化財や資料が展示されている。

 爽太朗は、中でもお気に入りの日本画の前で足を止め、しばし眺めた。


 後足で立ち上がって両前足を広げ爪を伸ばし、牙を剥いて上から襲い掛かる巨大な虎。赤々と輝く有翼の甲冑を纏った武者姿の棋士。己の身の丈の三倍はあろうかという巨体を誇る虎の喉から後頭部を、棋士の放った槍の一撃が刺し貫いている。

 三世名人である初代伊藤宗漢(いとうそうかん)の『虎殺し』を描いたこの作品は作者不詳だが、江戸後期の作と伝えられている。多彩で鮮やかな配色と少年らしい英雄願望を刺激するテーマも相まって、いつも爽太朗の心を躍らせた。過密スケジュールにより蓄積した疲労も、半ば忘れさせてくれる。


 初代宗漢は島原の乱平定に功績を上げ、武人としても高名である。そのうえ血筋でなく実力を認められ伊藤家という新たな将棋家元の祖となった人物だけに、真偽不明の様々な逸話が後世に伝わっている。爽太朗は知らなかったが、『虎殺し』もその一つである。


 あるとき、宗漢が御城将棋に呼ばれた際、一人の大名が戯れに無理難題を言ったことがあった。

 大名は大きな虎が描かれた屏風を宗漢に見せて言った。

「最近、お城では夜な夜なこの虎が屏風から抜け出し、人々に害をなす。そこにある縄で縛りあげてくれまいか」

 それに対して宗漢は一言、

戯言(ざれごと)を申されるな!」

 と、愛用の名槍『香車』で屏風の虎を刺し貫いた。

 それ以降、宗漢は『虎殺し』と揶揄(やゆ)されるようになったという。


 画の隣には宗漢の愛槍『香車』も展示されている。伝説のナントカいう金属でできているらしいが、全体がどんよりと暗い鉛色で、爽太朗にはそれほど大した逸品だとは思われなかった。


 入口の自動ドアが開き、入ってきた誰かが受付に向かう気配を背中で感じながら、爽太朗は本来の目的を思い出してエレベーターに向かった。振り向く寸前一瞬『香車』が光ったように見えたが、窓から入った午後の強い日差しが反射したものと無意識に処理された。


「藤囲って人と闘いたいんだけど?」


 受付の前に立った少年が、やや高いよく通る声を発した。

 突然に自分の名を呼ばれ興味を惹かれた爽太朗は、少年を観察する。身長は188センチメートルの自分より頭二つ分近く低い。濃紺のデニムと黒のブーツ、赤いレザージャケットを身に着けている。ゆるくウェーブした少し長めの髪を真ん中で分けて後へ流しているが、頭頂部やや後ろの一束がアンテナのように力強く天を向いている。


「藤囲は二人いるよ。」


 爽太朗が後から声をかけると、少年が振り向いた。あどけない顔をしているのに、二重まぶたの大きな目は獣のように獰猛な光を宿して視線を叩きつけてくる。後からは見えなかったが襟を立てたジャケットの中はラベンダー色のシャツ、ショッキングピンクのストールを首に一巻きして左右に長く垂らしている。


「強い方と勝負したい」


 不敵な笑みを浮かべた少年の発する圧力に本能が反応し、爽太朗は僅かに怯んだ。


(――将気(しょうき)!?)


 爽太朗は気圧された自分に苛立ちながらも、少年が尋常の者でないことを感じた。こいつは危険だと内なる野性が告げている。道場破りなど普段は相手にしないのだが、強者と認めた相手に興味もわいてきた。


「君、名前はなんていうの?」


「マサキ」


「マサキ君か。僕は藤囲爽太朗。一局指そうか」


「アンタと?俺、強い人と闘いたいんだけど」


(どう考えても強い方の藤囲は僕の方だ。もう一人、藤囲猛史(ふじがこいたけふみ)九段も昔は強かったらしいけどね。でも、悪いけど今じゃ指し盛りを過ぎたちょっと顔が良いだけのロートルでしかないさ。)


 生意気がオシャレして歩いているかのような小癪な生き物の要望を心の中で確認しつつ、爽太朗はざわつく心を落ち着けるように努めてやわらかく言った。


「プロ棋士を侮辱すると無礼討ちだよ。上に特別な来客用の個室対局室があるから行こう」


 二人がエレベーターに向かうと、所在なげに困り笑いを浮かべていたミニスカートの受付嬢が、ほっとため息をついた。




 会館八階の来客用対局室は九畳の和室で、盤と駒、駒台が置かれ座布団が敷かれている。爽太朗は無言で上座に着き、駒袋から駒を取り出して並べ始めた。マサキも大人しく座り、同様に駒を配置する。

 大橋流の手順で並べる二人の飛角香の利きが盤上でしばしぶつかり合い、一触即発の気配だ。対局開始に向けて二人の集中力と部屋の緊張感が極度に高まってゆく。ここはもうすぐ戦場になるのだ。


「マサキ君の先手で。持ち時間は特に決めないけど、部屋を使える時間は限られているから、長考はほどほどにね。」


「ソータロー相手ならそんなに時間は掛からないよ」


 ただでさえフィジカルに圧倒的な差がある。体重はせいぜい自分の半分ほどしかなさそうな子供が、これほど強気に出られる理由が爽太朗には分からなかった。だが、その子供の放った初手に爽太朗は眼を疑った。


(――初手1六歩(シュートサイン)!?)


 将棋は当然ながら真剣勝負である。だが、それは建前となって形骸化して久しい。プロの将棋は興行として相当数をこなす必要があるのだ。いちいち命を懸けて闘ってなどいられようはずもない。闘いを盤上のみに限定し盤外に持ち出さないのはプロ棋士間の紳士協定に過ぎず明文化されてはいないのだが、それを敢えて破ろうとする者は今まで爽太朗と闘った相手にはいなかった。


 初手1六歩は角道を開ける7六歩や、飛車先を伸ばす2六歩に比べて価値が低いとされ、「あなたが相手ならこの程度の手で充分ですよ」と相手を挑発する意味がある。「あなたに喧嘩を売っているんですよ」という意味から転じて、今から『真剣(なんでもあり)』で対局()るよという宣言として使われるようになった。


 爽太朗は負けじと△9四歩と了承のサインを出すが、動揺の色は隠せなかった。

 何度も盤面を確かめ、前屈みに動きの止まった爽太朗の眼前に、あたかもの棚の上の物でも取ろうとするような自然さで、マサキの手が伸びる。決して急がぬ優雅でなめらかな動きに、爽太朗は虚を突かれ反応できない。優しく(えぐ)ろうとする二本の指は、爽太朗の眼球の寸前で停止した。

 そこで初めて金縛りが解かれたように、爽太朗は上体を反らして逃げた。


「常在戦場。将棋は単なる盤上の遊戯じゃないぜ。ルールに保護(まも)られた試合(ためしあい)しかしてこなかったのかい?」


 常在戦場――長岡藩牧野家の藩訓であるこの言葉は、文字通り「常に戦場にあるの心を持って生き、ことに処す」との意味である。越後長岡が生んだ偉大な棋士である山本五十六が自らの座右の銘としたことでも知られる。

 ルール内に矮小化された戦場では、棋士として当然に持つべき覚悟も贅肉として削られてしまうのか。歴戦の軍人でもあった山本五十六が現代のプロ棋士を見たら、さぞや落胆するだろう。棋士の対局は互いに全身全霊を懸けた仕合(しあい)でなければならない。棋士はサムライなのだ。


 爽太朗はマサキの言葉を聞いて素直に自分を恥じた。ここからは落ち着いて自分の将棋を指すのだ。注意深く姿勢を戻し、盤面に向き合う。


「三手指しだと!?」


 爽太朗は驚愕した。いつの間にかマサキの歩が2五まで伸びている。飛車先はもう受からない。互いがプロレベルの棋力であれば、盤上はもはや敗勢となった。


(目潰しで盤上から僕の視線を反らし、その間に自分の手を進める…)


 マサキの盤外盤上を連絡させる視野の広さと発想の柔軟さに、爽太朗は『真剣』に不慣れな自分の不利を意識した。何とか自分の形に持ち込まなければ、このまま為す術もなく負かされてしまうだろう。


(もう、(KO)して勝つしかない!)


 そう思うと開き直ることができたのか、爽太朗の思考が静かに深くなってゆく。


 「人間は脳の10パーセントほどしか使うことができない」とする説がある。また、脳は部位ごとに分担した役割を与えられているが、それぞれの部位がその役割に特化してはおらず、例えば損傷した左脳の役割を無事な右脳が同時に担うといった事実も確かめられている。


 プロ棋士が深く思考するとき、各部位が持つリソースを自在に割り当て脳を酷使することで、通常眠っていて使うことができない人体の潜在能力(ポテンシャル)を存分に引き出すことが可能になる。

 その時、血管に重なって身体を巡る気脈の流れが活性化し、生体エネルギーとなって丹田に蓄積してゆく。棋士はこのエネルギーを『将気』と呼ぶ。

 爽太朗はどこまでも静かに深く集中し、丹田に生体エネルギーを溜め込む作業を続ける。即ち、『将気』を高めていった。


 爽太朗が得意とする『雀刺し』は、日下田升三(ひげたしょうぞう)実力制第四代名人の創案と言われる。盤上における『雀刺し』は飛び道具と呼ばれる飛角桂香の駒の利きを端に集め、歩の付き捨てから一点突破を狙う戦法である。日下田はそれを盤外で相手を倒すための技に応用した。

 息をもつかせぬ歩香桂の連続攻撃から、飛角の成り込みのような大技へ繋げるイメージで放つ。ボクシングでは最初の一撃で相手を失神させた。将気を込めた一つ一つの攻撃は、全て必殺の威力を持つのだ。


「シッ!」


 強く息を吐きながら爽太朗が右拳の鉄槌を振り下ろす。長い腕は鞭のようにしなり将気を帯びた破壊の拳が加速する。

 左こめかみを狙った一撃を、マサキはやや上体を反らしつつ首を半分右に捻って躱した。

 振り下ろされた爽太朗の鉄槌が今度は裏拳となり、反動で戻ろうとするマサキの顎目掛けて跳ね上がる。

 戻る動きを加速させそのまま逆方向に上体ごと捻り、マサキは裏拳の通過をやり過ごした。


「シッ!シッ!」


 爽太朗は左右の手刀を連続して突き入れる。座った状態で放ったとはいえ、どこに当たってもマサキの小さな体が千切れ飛びそうな威力の攻撃だ。しかし、マサキは将気を薄く張った掌で爽太朗の太い腕を、内側から後方に払い流して防いだ。

 平然とした涼しい顔の相手に、爽太朗の闘志はむしろ高まった。


「ここだっ!」


(この体勢では躱せないはずだ。防御(ガード)ごと押し潰す。)


 爽太朗はありったけの将気を両掌に集め、重心が後ろに傾いたマサキの腹部にそのまま叩きつける。


 腹筋の収縮で上体を戻しながら、マサキも将気を集中した両掌を爽太朗の両掌に合わせる。

 ぶつかり合った膨大なエネルギーは一瞬押し合いながら眩い光を放ったが、やがて相殺され、霧散して消えた。


 その時、動きが止まった一瞬の隙を見逃さず、黒い学生服の両腕がやや前のめりになっていたショッキングピンクの首を捕えた。大技を放ってから体が動き出すまでのわずかな時間差に、二人のフィジカルの優劣が現れたのだろうか。


「このまま絞め殺してしまおうか。道場破りが相手なら、対局中の不幸な事故で済まされるだろうし」


 得意の力将棋に持ち込み優勢を意識した爽太朗は、投了を促す脅しのつもりで(うそぶ)いた。マサキの喉を締める指先にそっと力を込めていく。


(――っ!?)


 違和感。鉄でできたゴムのような硬い弾力。大蛇の皮膚のような冷たい感触。マサキの首に巻かれたストールが左右に鎌首をもたげた瞬間、爽太朗の背筋が凍りついた。ストールの下に隠れていた首から下げられた飛車の駒が(きらめ)いた。


「将棋は力だけじゃ勝てないぜ」


 マサキの将気を帯びた血のように赤黒い双頭の大蛇が、爽太朗の二本の腕に内側からぐるぐると巻き付いて締め上げる。下方から睨みつけるマサキの両目は爛々とした輝きを放ち、爽太朗は自分が捉われて仕留められるのを待つ獲物であることを思い知らされた。


(――負けたくない……)


 どんなに不利な状況でも、簡単には投げない。勝利を渇望する強靭な意志が逆転の一手を導くこともあるのだ。


 爽太朗はマサキの首を握ったまま動けない。微かに震える小さな両掌が、爽太朗の大きな両手に、優しく重ねられた。


「今、楽にしてあげるよ」


「そこはっ」


 両手の親指と人差し指の間にある『合谷(ごうこく)』という経穴がマサキによって強く押された。押したマサキの両親指から、大量の将気が流し込まれる。

 マサキの将気が両手の『合谷』から流れ入って全身の気脈を駆け巡ると、爽太朗の身体を熱と痛みの激流が暴れ回った。


「うぐぅわぁーーー!!」


 爽太朗は声にならない雄叫びを上げ、朦朧としながらマサキの言葉を聞いた。


「このツボがこんなに効くなんて、随分とお疲れだったんだね」


(――ひ、疲労回復の……)


 爽太朗の意識は途絶えた。


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