とりあえず1つ目
これはニート志望の私が自分自身を見つめ直す事も含めて書く自堕落な自分語りいや書きっぱなしである
まず生や死について語りましょう。
前提として個体としての死は一回しか訪れない(輪廻転生は観測出来ないので)
種族としてはまだ人類は滅んでいないので総括は出来ないでしょう(私もいないので滅んだ後だと語れない)
記録としての死これは個としても種として難しい問題ですここで書きっぱなしている理由でもあります、私が生きた記録は小学校などにも残っているでしょう、しかしこれが生きた私の記録だといわれると首を傾げてしまいます歴史上の人物が書かれた教科書は生きた証でしょうか?
それは感覚的には違う気がしていますでも聖徳太子が教科書に書かれなくなれば確かに記録として生きていない事になるわけです記録としての死は記録の紛失や記憶から忘れ去られる事にあたるのでしょう
前提が長くて読みにくいですね、私はこねくり回すのが好みなようなので簡単にいえばまだ死んでないから分からん(生きる気しか今は持てていません)私は自殺志願者ではありませんそれに補助してさしあげる気もありませんですが死ぬ気を生きる気に変える又は緩く生きる、人そのものを書かせて頂きます
命に変わる物は尺度をどれだけ変えようと本当は存在しないだけど無理矢理命を何かに変える動きはあらゆる場所であります、仕事もある意味でそうだと認識しています当たり前のことですが命>時>金なので本当は命の方が高いのに金がないと命が繋げない時に金>命の図式に代わり命を落とされる方もいることを承知しています。いじめられた時は己の価値を上げられない子供が最初で最後ののわがままとして謝りながらなくなる方の多さには悲しみとわがままを違う所で発揮したらと思わずにいれません(泣きそうになるのはいけませんね)私のわがままとしてこの記録を記憶の片隅に置いて生きてくだされば光栄というほかありません
(読み専だったので残念な評価をつけるのはなれてます)