弱さを愛する
いつからか仮面を被り続けるようになっていた。
よくあることだが“本音と建前”で言う所の建前の部分が強固な壁となり、外面と内心の乖離が自分を苦しめていた。
今も苦しんでいる最中ではあるが、解決・解放の光明が見えたため筆を執ってみることとした。
これから自分語りを入れるが、理解の手助けになるようにと考えたためなので少々お付き合い願いたい。
乖離に気づいたのは高校時代だった。
自分で言うのも少し気が引けるが、高校では中心的存在であった。
生徒会で副会長や学校祭の委員長を務めていたり、所属していた弓道部では団体県3位・東北ベスト8の成績を収めたり、学業は3年間上位3本の指の内1本だったりしていた。
その原動力には前向きな理由もあったが、多くを占めていたのは自分の弱さを克服するためであった。弱さと言っても抽象的なため具体的に言うと、人付き合いへの恐怖である。
私は、小学生時代・中学時代、それぞれ一回ずつ友達にハブられたことがある。
1回目は小学2年生の時。仲良くしていた友達2人から距離を置かれた。学校ではいつも一緒に居たが、休みの日に遊ぶのはその2人だけといったことだ。子どもながらに仲間外れにされたことはショックだった。しかし、丁度良いタイミングで仲の良くなった友達が出来、遊ぶ相手には困らなかった。3年生に上がった時にはクラス替えがあり、ハブった2人とは別のクラスになった。それ以降、その2人と話す事すらなかった。
そして2回目は中学1年の時だった。こちらも似たようなことが起こった。ただ、今回の規模は5人程度だった。ある日学校に行くと無視されるようになっていた。思春期真っ只中の私はかなりのショックを受けた。そのグループはクラスの中心であり、そのようなグループに無視されるのは厳しいものがあった。また運が言うべきか、別のグループと仲良くなりかけており、以降そのグループと行動するようになった。元々、分け隔てなくクラスの人と接したていたため派閥には入りながらも、その垣根はないような立場だったのが幸を奏したようだった。しかし、内心また裏切られるのではないかという恐怖が心の中を埋めていた。
この頃から仮面を被るようになり、ほぼ本音で話したことは無くなった。他人との極端な線引きである。ただ、2・3人だけ本音で話せる友達はいる。
ここまでまるで被害者かのように書いてきているが、もちろん自分が悪い事も分かっている。原因があって、その先に結果があるのだから。その原因とは自己中で空気を読まないということだ。
長男ということもあり、散々甘やかされて育てられてきた。自分の願望をほとんど叶えてもらっていた自分は、彼らにも我儘を要求していたのだろう。同じ年齢の友達に好き勝手やられて気分の良い人間はおらず、ハブるという結果に繫がったのではないだろうか。
だからこそ私は仮面を被り、人の顔色を窺うようになった。おかげで高校も大学も本音で話せる親しい友達は少ない。それどころか人間関係自体煩わしくなり、新しく出来た関係をもすぐさま断ち切っていく始末だ。
その反面、本当の繋がりというモノを求め始めた。特に大学では表面上の付き合いが多い。私はそれが大嫌いであった。友情とは到底言えぬ薄っぺらな繋がりが目に見えているのが胸糞悪かった。
と、言いいながらかくいう私もインターンシップに3度参加し、全国規模のNPO法人にも所属していた。参加した目的は唯一つ、自分の弱みを克服することだった。大学時代に入り、自分の弱みとは対人恐怖とそこから派生したコミュ力の低下と捉えていた。嫌なところを直すために自分が行きたくない場所こそ飛び込むべきという、Mっ気たっぷりの思考で、活動していた。実際、克服できたかと言われれば、少しは良くなったかもとしか言えない位の効果だった。ただ、1つ気付いたのは仕事上の関係であれば恐怖心はないということだった。そして実際に活動先からの評価は高かった。とは言え、問題は何も解決していないのであった。
そして大学4年次には就活を迎えた。面接で落ちるたびに対人能力に自信が無くなり、対人恐怖の度合いが強くなっていった。ただ、運よく地元の地方銀行に内定を頂き、来週から働くことになっている。就職先に対して内心、こんなのを採って良いのかと思っているが。
最近は最後の大学生活ということで好き勝手生活をしている。とは言ってもアニメを見たりゲームをしたり本を読んだりといったことだが。
そしてここからが一番言い伝えたい事である。私は先日、ある本を買った。「小林秀雄 学生との対話」という文庫本だ。書店を徘徊していると、ふと目に入りただの気まぐれで購入した。何気なく買ったこの本の中に、自分の価値観というと大げさかもしれないが、苦しみを和らげてくれる文章があった。以下にその文章を引用する。
「僕らの認識は僕らの生活を決して便利にはしてくれません。だけど、僕らの生活を生活のしがいのあるものにするのは、認識です。僕らの生活は、僕らの認識によって、喧嘩にもなるし愛にもなる。認識とは、非常に面倒なものです。その面倒なところに人生があるのです。そこの値打ちをしらないといけない。」
近頃、私の根底にある思いは寂しさだったのではないかと気付いていた。もしかしたら、ずっと前に気付いていたのかもしれない。小学・中学時代に仲間外れにされ、自分を守ろうと変な方向にやさぐれて人との間に壁を作った。だが、心の奥底では人との繋がりを求めた。だから、人間関係が豊富な人たちを見下そうとした、自分よりも下だと思い込もうとした。その矛盾する考えと本音が自分を苦しめていた。自分を愛せなければ、他人を愛せないと言われているように、結局は自分を理解しなければ、他人を理解することはできないのだ。
何年もかけてようやく私は、自分の中にある寂しいという気持ちを認識し、本音に寄り添えることができた。もう自分で自分を苦しめなくて良いのだ。素直に自分の心に触れることが自分を愛する第一歩になる。そこがスタート地点で、まだまだ寄り添っていける距離はある。しかし、自分の寂しいという感情を正しく認識できたことで、道は遠くないと確信している。
これからも山と谷はあるだろうが、良い人生を歩んでいけるように自分に寄り添っていこう。




