4.頂上までの道のりも一歩から
「ねえ、まだ着かないのー」
稲荷山コースを歩くこと二十分が経過した。久しぶりの登山にやや興奮気味な俺の耳に不満の声が聞こえてきた。
「ほら、まだ一キロだ」
俺は道の右手にある指導標を指差した。
稲荷山コースには二百メートル間隔に頂上までの距離の書かれた標識が設置されていた。全長3.1キロの道のりで残りは2.1キロもある。まだ三分の一しか歩いていない。
九年ぶりに訪れた高尾山の登山道は驚くほど整備されていた。指導標もそうだし、道は歩きやすいように平らにされ、勾配の急な個所は木の階段が設けられている。
そのうち自販機でも設置されるのではないかと思ってしまう。
「ねえねえ、さっきからぜーんぜん景色が変わらないんだけど」
後ろを振り返ってみれば、退屈そうに優が歩いている。
「そりゃあ低い山だからな。頂上まではずっとこんな感じだぞ」
高尾山の登山道は背の高いブナが密生しているため眺望はない。北アルプスの山中ならいざ知らず、森林限界にも達していない標高わずか六百メートルの高尾山では延々と木々に囲まれた山道を歩くのだ。
「森林浴だと思えばいいじゃないか。ほら、マイナスイオンだ」
「マイナスイオンなんてあるわけないじゃん。つーまーんーなーいー」
「山登りなんてこんなもんだ。ただひたすら足を動かすだけ。楽しいことなんて一つもない」
詭弁ではなく事実を口にした。
テレビ番組の山登りだってさ、いつも「歩くこと○時間」ってバッサリと道中をカットするだろ。つまりは目的地に到着するまでは何の面白みもないということだ。
俺は視線を正面へと戻した。
それにしても登山客が多い。山登りなんて人と遭遇する方が稀なのに、さっきから視界に人が映らないことがない。常に話し声が聞こえてくる。
登山道の道幅は広くないので、自分らよりも遅いペースの人たちを追い抜くのに何度も手間取ってしまう。
「暇だから何かやろうよ。しりとりとか」
「えー……」
三十近くになって妹としりとりなんて恥ずかしくてやりたくない。
「じゃあいくよ、リンゴ」
「本当にやるのかよ!?」
「だって退屈なんだもん。校長先生の長話と同じぐらい」
あんな無駄話と登山の退屈さを一緒にしないでほしい。
「とにかく、喋ると疲れるから口は閉じておけ」
「これぐらいへーきへーき。超余裕」
その台詞、頂上に着いたときにも口にすることができるかな。
ブツクサと文句の絶えない優であるが、足の運びは軽快だ。女子といえども若いから体力は存分に有り余っているのだろう。
対して、最近お腹が出てきたのが気になる三十歳目前の俺は、今日はかなり不安だった。なにせ七年ぶりの登山だ。それも空白の七年間は運動とは無縁の生活を送ってきた。
けれど、この調子なら下山も含めて気負う必要はなさそうだ。つまりは俺もまだまだ若いうちってことだな。
「ところでさー」
性懲りもなく優は話しかけてくる。
「しりとりはパスだぞ」
「しりとりはもういいから、何か話そうよ」
「話すと余計な体力を使うって」
「せっかくかわいい妹が会話してあげるって言ってるんだからさ、遠慮しないでよ」
「わかったわかった。好きなだけどーぞ」
頂上まで無言で歩くのも味気ないからな。付き合ってやるか。
「で、どんな話題をご所望なんだ」
「たとえばね、」
「たとえば?」
「たとえば、どうして山登るのやめちゃったのか、とか」
…………。
「パス」
「ずるい。何でも話すって言ったじゃん」
「言っていない。ねつ造するな」
「だって気になるじゃん。ヒロ兄ってある日を境に山の話をパッタリ口にしなくなったよね。大学三年生ぐらいのときだったっけ?」
その頃の優は小学校に入学したばかりのはずだ。なぜ覚えているんだよ。
「ねーねー、何で何で」
声が弾んでいる。楽しんでやがるな、この確信犯め。
「そのー、あれだ、大学三年の秋からは就活が始まって忙しくなったし、それが終わったら卒業論文書くのに忙しかったし、就職してからはずっと仕事一筋で忙しかったし……。とにかく社会人は忙しくて山登りに行く余裕もないんだよ。おまえにもいずれわかるときがくる」
苦しい言い訳だった。しかも締めくくりが頑固親父の愚痴みたいになってしまった。歳は取りたくないな……。
「ふーん」
チラと背後を見ると疑いの視線が突き刺さった。
「でもさ、ゴールデンウィークとかお盆休みとか、家でゴロゴロしてたよね?」
「うぐ……」
確かに優の言う通り、休暇に実家に帰省したときはどこへも行かず寝てばかりいた。律義に帰省などしなければ、いくらでも登山に費やす時間はあったのだ。
優のやつ、俺のことなんてお年玉をくれる以外は無関心かと思っていたら、何気に行動を見ているんだな。
とはいえ、ここで真実を語るつもりはない。
「まあ、仕事で疲れているから、休暇ぐらいはゆっくり休みたいんだよ」
「へえ、てっきり彼女さんと何かあったのかと思ってた」
やっぱり感づいているじゃないか!
「ねえねえねえ、どうなんですか、その辺」
相手の事情を一切気にしないゴシップ新聞の記者のごとく優を追及してきた。
これ以上は掘り下げられたくないので、俺は矛先を変える。
「俺のことより、そっちはどうなんだよ。おまえの気になる人ってどんなやつなんだ」
「べ、別に誰だっていいじゃん」
「俺の経験から言うと、山登りが好きなやつには悪い人間はいない。だけど大抵は変人ばかりだ。付き合うなら覚悟がいるぞ」
「はあ!? そんなわけないじゃん! 普通の人だよ」
残念ながら普通の人は山登りの部活になんて入らないんだよ。ソースは俺と高校時代の部活のメンバーだ。みんな一癖も二癖もあったからな。
そんな調子で、俺たちは足以上に口を動かしながら頂上まで目指した。