ケン、ピアスをつける。
「疲れた……」
サキがソファに勢いよくダイブすると、ボンッと音がして水色の丸いクッションが落ちた。サキは床に落ちたそのクッションを取り上げ、抱きしめる。ふわりとケンの匂いがした。ケンはコンビニで買ってきたサラダやパスタをテーブルに並べている。今日はもう遅いのでケンの手料理は振舞われなかった。サキは仕方なく、好物のカルボナーラと濃縮還元100%のグレープフルーツジュースを買った。
「サキ食べるよー!ほら、起きて起きて!」
「お前は俺の母親かよ!」
咄嗟にそう返したが、サキは今の言葉に違和感を覚えた。ケンは何やら複雑な表情を浮かべてサキを見ている。サキは胡座をかいて手を口元に当てて唸った。
「……母親って」
誰?
サキがそう考えて首を傾げた瞬間、ケンは目の前に飛んできてサキの両肩を掴んだ。いきなりのことで、サキは反応が遅れて反撃ができなかった。ケンは依然としてサキを視線で射抜く。
「サキ、捨てたんだよ。みんな、捨てたんだ」
ケンはそう言った。声色を変えず、至って冷静に言い放った。それがサキにとっては世紀末の宣告のようにずっしりと、しかし確実に響いた。サキは思い知らされた、自分を捨てるという選択の『全て』を。いくら頑張っても家族の顔、兄弟、姉妹、親戚、そして19年の時を重ねた思い出が、一つも浮かんでこないのだ。まるで産まれた時から一人で育ってきたかのように、ぽっかりと空虚が広がっていた。
ケンは次第に虚ろな瞳へ変わっていくサキを見て、とても辛そうに顔を顰めた。そして恐る恐る、動物を愛でるかの如くサキの肩を撫でた。
「……サキ」
「……」
「泣かないで……」
この俺が泣く?ばーか、妄言吐くんじゃねーよ。と、サキは言い返した。しかし、実際口から漏れたのはただの嗚咽で、サキは事実を遅れて思い知らされた。空気の通らなくなった鼻をすするが、上手く息ができない。サキはクッションを抱きしめる腕に力を入れた。
ケンはポケットからハンカチを取り出し、そのハンカチでサキの頬に伝う涙を優しく撫でた。サキは栓がスポンと抜けたように、みっともなく泣き喚き始めた。
「俺……っ!」
「うん」
「覚悟とかっ……、出来て、なくって……!こうなるっ、て……ひぐっ、……考えてな、くて……!」
「うん」
「っ、ケンに、めいわ、く……かっ、かけ、かけてっ……る!」
「そんなことないよ」
サキは頭が痺れていた。考えても言葉を上手く並べることができず、自分でも何を言っているのか分かっていなかった。ケンは微笑みゆっくり頷いていた。サキは、母親ってこんな人なのかなと勝手に人物像を思い浮かべた。ケンのように、優しくてそばにいてくれるような人なのだと、自己解釈をする。
「昨日飲んだ記憶抑制剤に慣れてないだけだよ、大丈夫だから。僕みたいにすぐ慣れるから」
「……うん」
「僕を家族と思っていいからね、サキ。また新しい思い出を作って、一緒に穴を埋めよう」
兄という人物像を、サキはまた勝手に自己解釈した。兄とは、こんな人なんだろうかと。
サキはケンの言葉に対して頷くことしかできなかった。普段の元気はどこかに消え、サキはただただクッションと、薄い黄緑色をしたハンカチを濡らしていた。パスタは冷め切って、蒸気はもう上がっていない。グレープフルーツジュースのボトルの表面を、一筋の水滴が伝った。
サキはまた、ハンカチを濡らした。
ケンのiPhoneの着信音が鳴る。無機質な音は三秒ほどで鳴り止んだ。ケンはiPhoneを耳に当てる。
「はい、もしもし……はい、そうです、はい……ええ、今は寝ています」
ケンはソファで優しい寝息をたてるサキを見た。彼の頬にはいくつか涙の通った跡が痛々しく残っていた。泣きつかれて寝てしまった、それもあるかもしれないがサキが寝た理由はこちらの方が強いだろう。
「……睡眠剤と記憶抑制剤を二粒ずつ、飲ませました」
サキが泣いたあと、「落ち着かせるために」グレープフルーツジュースを飲ませた。予め掌の窪みに四粒の小さい薬を仕込んでおき、ペットボトルのキャップを開けた際に落としたのだ。グレープフルーツ系のジュースは成分が沈殿するので振らなくてはならない。ケンはこれを利用して、薬を溶かした。炭酸飲料だとこうはいかない。サキのジュースがこれでよかったと、ケンはぬるくなったペットボトルを持って眺めた。
「次の仕事は僕一人でいきますから」
電話越しに抗議の声があったが、ケンはそれを遮るために通話終了ボタンに軽く触れた。コポン、とまた無機質な音が鳴りホーム画面が映し出された。ケンはメールをチェックして、iPhoneの電源を落とした。
ケンは立ち上がり、寝室へ向かう。押入れの中から毛布を一枚引き抜き、抱えてリビングのソファで寝ているサキにそれを優しくかけた。サキは小さく唸り、また規則正しい寝息をたてる。ケンはサキの頭をゆっくり撫でた。
「ごめんね、サキ」
カッターシャツの第一ボタンを閉め、黒いスーツを着る。そして、左耳の耳たぶに紫色の鉱石がついたピアスを付けた。
色は治安維持隊での階級を表すもので、階級は実力、試験、功績で決まる。上から紫、青、黄、赤、白と分けられており、給与や仕事の割り当てはこのランクによって決められている。ケンは最高ランクの紫色で、権力がかなり強い立場となる。しかしケンは、このピアスが嫌だった。
(所詮、人を殺した数だ)
勿論地域の治安維持には貢献してはいるが、ケンはあまり嬉しくなかった。胸も張れなければ、自慢も出来なかった。
メールには、今追っている組織の情報が僅かだか書かれてある。その組織とは、世界中に糸を持っており、情報によると幼いころ拉致され手先として「飼育」された者が五人もいるらしい。名前も性別も顔も、何も情報がない中での仕事は骨を折ることをケンは知っていた。だから、サキには参加させたくなかったのだ。
机の上にメモと合鍵、五千円札を一枚置く。玄関のドアを開けると、外は雨だった。雨独特の土と水の匂いが漂い、ケンは少し笑顔になった。
(雨は、血の匂いを消してくれるから、好きだ)
ケンは鍵を閉め、夜泣きの街へ駆け出した。




