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サキ、ヒーローと出会う。

彼は、「ヒーロー」になりたかった。

ワルモノを殴って、蹴って、倒していく。マントが翻れば、周りに倒れるワルモノ。そんな画面の向こうの存在に憧れていた。

(俺もあんな風に、ワルモノをやっつけたい。)

小さい頃に描いた夢は大人になっても変わらない。ヒーローは輝かしいものとして、ずっと彼の心のどこかにいた。

彼は鍛えた。身体を作った。売られた喧嘩は買った。そして勝った。


ヒーローにはなれなかった。


みんな、慕うどころか離れていった。あいつには近寄るなと。関われば殴られると。

ヒーローと似ていて違う、彼は暴力の塊と化していた。


ある日、彼の目の前にヒーローが現れた。

しつこい不良が数で勝負を仕掛けてきた。勿論彼は買った。


負けた。路地裏の生ゴミの山に投げられ、身体をひどく打ち付けた。悪臭が漂う。生ゴミの欠片が口内に入った。意識もぼんやりしていた。

目をうっすら開けると、背の高い人影が不良を殴って、蹴って、倒していた。みんな倒れた、後彼に傷だらけの手を差し伸べたヒーローはこう言った。


「大丈夫かい、ヒーロー?」


彼の何かがそこで弾けた。



「……ありがとう」


彼を助けた男は「ケン」と名乗った。見ず知らずの彼を部屋に運び、手当までしてくれた。ケンは本名ではないらしい。彼がしつこく聞くと、真剣な眼差しで彼を制した。


「ちょっと待っててね」


ケンはそう言うと立ち上がり、キッチンへ向かった。

部屋は一人で暮らすのにはちょうどいい広さのアパートだ。生活の主になるここはフローリングのリビング、隣に畳の小さな寝室、トイレと風呂は別でリビングに入って左にある。キッチンはリビングに入って右に設置してあり、部屋の真ん中には長方形のテーブル。椅子は三つあり、彼はそのうちの一つに座っている。部屋の装飾はシンプルでモノクロを基調とした家具が多い。本棚にぎっしり並んでいるのはほとんどが歴史ものだ。

頭を振り、部屋を観察しているとケンは彼にココアの入ったマグカップを差し出した。甘い香りが彼の鼻腔を通る。俺はガキじゃない、と彼は心の中でつぶやき眉間に皺を寄せる。ケンは自分のマグに口をつけて一口飲んだ。彼も一口飲む。胸の内がふわりと温まった。


「君は治安維持隊を知ってる?」


ケンはマグをテーブルに置き、彼と向かい合って座る。彼はそれを見届けたあと、答えた。


「知ってる」


治安維持隊。

政府がこの国の治安を守り、善良市民を守る為に作った組織だ。裏で動く秘密警察のようなもので、麻薬や密売の取り締まり、テロ組織への対策を行っている。いくつかの班に分かれて行動し、警察よりも自由。場合によっては武力行使も構わない。何故そのような関係ない組織が話に出されたのか、彼にはわからなかった。彼が今一番知りたいのはケンの本名だからである。


「君も、治安維持隊の第一班に入らない?」

「は?」


本名まではほど遠いようだ。彼は明らかに怪訝な声を出す。


「君を守りたい。君はヒーローになりたいから、喧嘩を買う。だけど、あのままじゃ君も取り締まりの対象になってしまう……君が治安維持隊に入れば、ワルモノを倒す為にその拳が使える」

「悪い話じゃねえな……」

「でしょ?」


ケンはにこっと笑う。彼もつられて口角を上げた。

茶色の髪、アシメントリーで短い前髪、穏やかな表情を印象付ける黒い瞳。ケンは一見暴力とは無関係で、寧ろカツアゲされてもおかしくない容姿をしている。背は高いが、服の上からでは鍛えた身体はわからないだろう。

ケンは、何故この道を選んだのだろうか。彼の興味はいつの間にかケン自身へと向いていた。


「治安維持隊にはいるには、いくつか条件があるんだけどね」

「条件?」


ケンがふう、と息を吐く。


「自分を捨てること」


彼は、ケンが何故自分について語らないのかを理解した。ケンは、自分を捨てている。自分に関してのあらゆる物事を捨て、「ケン」として生きているのだ。


「本名も、家族も……自分に関することがすべて消える、それでもなりたい?」


ひーろーに、とケンの口が動く。

人生の分岐点に立たされた気分だ、彼はそう思った。いつも、ちょっとしたことが分岐点なのだろうがここまではっきり意識したのは初めてだったのだ。あの日、あの道で躓いて転けなければこの未来は来なかったのだろうか。彼は思い巡らせた。実際には、答えが出せないほど意識がふわふわとい宙に浮いていたのだ。


「……じゃあ、『ケン』ってのは」

「偽名、まあコードネーム?とでも言っておこうかな」


ケンはまたマグカップに口をつけ、ゴクリの喉を鳴らした。彼はそれをぼんやり見ながら考えた。すべてを捨てるか、夢を捨てるか。これからの人生を左右する、最も重要不可欠な決定事項。

ケンはすべてを捨てた。平和で穏やかであった未来も捨てた。そして、この国のヒーローとして日々闘っているのだ。聞こえはいいが、言い換えると日々死と隣り合わせだ。言葉の羅列がぐるぐると彼の中を巡る。彼はまた眉間に皺を寄せた。


「ケンは、なんで自分を捨てたの?」

「僕?」

「未来とか、家族とか……そう簡単には捨てられないだろ」


実は選択するのが怖い、彼は自分のそんな気持ちに気づいていた。どちらを選択しても後悔するような気がしていたのだ。ケンは目を宙に向けて、また彼に戻した。


「僕は……僕はね、信念を曲げたくなかったからかな」

「信念?」

「君の夢みたいな」


ケンはテーブルに腕を組んで置き、身体を支える。彼は肘をつき、頭を手のひらで支え唇を尖らせる。信念は夢と同格ではない。しかし、ケンには曲げることのできなかった。信念を曲げるということは自分を否定すること、と彼は自己解釈した。

チクタクと黒い秒針が二人の沈黙を切り刻む。ケンはマグを持って立ち上がった。彼のマグを覗き、ココアの減り具合を確認する。彼ははじめの一口のみで、ココアはまだたっぷり残っていた。彼に甘いそれが喉を通る余裕などなかったのだ。ココアは一向に減らなかった。ケンは二杯目を持って座る。彼はマグに手を添えた。

彼は唇を噛み締めて、ゆっくり開く。ぐっと身体に力を入れるが手の震えは止まらなかった。ココアがゆらりと波紋を生む。窓の外ではどんよりとした紫の雲が月を隠していた。


「俺は、……!」


蚊の羽音のような、掠れた小さな声を一生懸命喉から出す。ココアを飲んで潤ったはずの彼の口内は、すっかりカサカサになっていた。冷めきった甘い液体を一気に飲み干す。彼は不安や戸惑いも一緒に流し込むことにした。

答えを言い切り、彼は汗を大量にかいていることに気づく。息も荒れていた。ケンはそんな彼をみて、微笑んだ。彼は心臓に手を当てる。今までにないほど激しく動き、苦しい。窓から月明かりが二人のマグカップを照らしていた。


「今日から君は、」

「サキ」

「え?」

「サキ。俺は『サキ』だ」

「……そうだったね、サキ」


俺は今日、すべてを捨てた。

俺は今日、夢を手に入れた。

その後のことを、『サキ』はあまり覚えていない。




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