橙
既存小説を放出中です……
遠くで寒蝉の声がする。
熱を帯びた風が深緑の木々をあおり、葉が空を舞う。高い空を見上げると、瑠璃色の髪をなびかせて風の子たちが走って行くところだった。彼らとは長い付き合い。
風の子は任された一帯をいつだって駆けているけれど、決して遠くへは行かない。風の子たちの母親は世界の流れを創る役目。小さな小さな風の子は、母の流れをあちらこちらへ届ける役目。忙しなく駆ける風の子たちと話をした事は無いけれど、時々花の香りを祠へ届けてくれる彼らは時間の止まった小さな世界に変化を与えてくれた。
‘初夏はもう行ったか'
あの質問に答えてから、大分時が経った。
ここから見える景色は、淡い緑から深い緑へと変わり、その間を瑠璃色が駆けていく。小さな変化だけれど、とっても綺麗。
ただ、祠の周りだけは村が無くなってしまったあの日から、ずっと時間が止まっている。この山を残してダムの底へ沈んでしまった村。祠を創ってくれた村。
凍りついた時間は、祠が風化して消えて行くまで決して動くことは無い。
木々の間を縫って近づいてくる影が見えた。
赤みがかった明るい飴色の髪。あれはきっと橙の妖精。彼女の髪はいつも手入れされていてきらきらと光るから、遠くからでもすぐに分かる。
はたして影は橙だった。私の座る祠に駆けよってきた橙は、大きな瞳に涙を浮かべていた。
「お久しぶりですダイダイ。貴方の樹はまだ実をつけているんじゃ……」
「無いのよ! 何処にも無いの……」
「ええと……」
「急に無くなってしまったの。
ずっと守ってきた樹が、今日になって急に!
もうどうしたら良いのか解らなくって……」
橙の妖精は、樹がその一生を終えるまでの長い期間を独りで守る。彼女の樹は今年も緑の実をつけていたと初夏に聞いていたから、冬になれば白い景観に橙色を添える筈だった。
宿を無くした橙は、私と同じように時間が止まってしまうの?
いや、朽ちた樹はまた巡る。新しい時間が動き出す気がする。橙が此処までこれたのは、彼女の時間がまだ動いている証拠なのだから。
「これからどうすれば良いの? 今ある樹には、皆守りが付いているの。私は何処へ行けばいいの?」
橙はすがるように私を見つめたけれど、私は何も言う事が出来なかった。
一度だけ、宿を無くしてしまった妖精を見たことがある。彼の宿は橙では無かったけれど、樹が朽ちてしまった後彼の時間はだんだん遅くなっていって最期は風化して消えてしまった。私もいつかああやって消えてしまうのかと怖くてたまらなかったのを覚えている。
「貴方は何か、聞いていないの? 貴方の居た所は、他のダイダイが沢山いたでしょう?」
「時々、ふっと居なくなってしまった事があったけれど、皆しばらく経つと戻ってきた。けれど、皆と私は生まれた所が違うもの。」
彼女の樹は、果樹園の近くにあるのだといつか言っていた。けれど、果樹園の樹ではないから実が繰り越す事が多いのだと。中々巣立ってくれなくて困っているの、と彼女は微笑みながら話していた。
果樹園に住む妖精たちは、どうやってもう一度時間を取り戻したのだろう。
私の考えが合っているのなら、もしからしたら橙の時間を戻すことができるかもしれない。もしかしたら……。
「ねえダイダイ、試したい事があるの」
上手くいく保証なんて一つもないけれど、このまま私と同じように時間が止まって消えてしまうのを待つよりはずっといい。
橙は暇を見つけては私に会いに来てくれる、数少ない友人の中の一人なのだから。
とりわけ皆が渡ってしまう長い冬の間、白で覆われた世界に彼女が色をつける時嬉しさでいっぱいになる。
「貴方に案内したい所があるのだけれど、行ってくれるかしら?」
橙はこくりと頷いた。
私は此処から動くことができないと、彼女は知っていたから私が指で示した方向へ彼女は独りで歩いて行った。
案内したのは、初夏が教えてくれた時間の止まった橙の樹。
橙の樹は、祠のすぐ近くにあった。橙色の実をつけたまま止まった時間の中で静かに立っている。
祠の時間が止まった時に、巻きこんでしまった樹。
彼女がこの後どうなるのか、私が知る事は出来ない。
宿主の居ない樹を守る事で時間を取り戻すことが出来る、という私の考えがあっていれば彼女の時間はこれからも続くだろう。
樹と彼女の時間が同調するまでの間、彼女は動くことが出来ないだろうから、私が彼女に会うことはしばらくない。いや、二度と……? ここ最近の祠の風化はいままでにない速さになっている。いつまで祠が持ちこたえられるか解らない。彼女があの樹に留まる事が出来れば、私の役目を任せることも出来るかしら。
此処を通る方々の質問の受け答え。
初夏のささやかな話し相手。
そうね、誰にでも務まるもの。私じゃ無くたって……
彼女が歩いて行った方へ顔を向けると、橙の枝が見える。
あの枝になる橙はもうずっと橙色のままだ。時間が止まってしまっているから。
樹の時間が動き出すと、あの橙もじきに緑へと変わるのでしょう。
その時私は居るのでしょうか。
瑠璃色の髪をなびかせて、風の子たちが駆けて行く。
祠がだんだん風化する。
消えてしまう。
嗚呼、私の祠……
私の役目は答える事。時間の止まった此処から先への通行を認める答え。
そろそろ次の方が来る。
‘夏はもう行ったか'
読んでくださってありがとうございました。
この小説は、友人にお題を頂いて作った三題話小説になります。
お題に沿って作ったのはこの作品が初めてで、無理やり繋げている部分もありますが、非常に楽しく書くことができました。
御指摘、感想等御座いましたらお気軽にご連絡ください。