7 レニーとウーノ
医務室のベッドへ横付けされたテーブルの上に、小さな玉が幾つも浮かんでいた。
それらは縦横無尽に飛び回っているようだが、注意深く観測すれば一定の法則に基づいて動いているのが判る。
ほとんどが茶色や灰色の玉なのだが、一つだけ真っ青に、宝石のように輝く物があった。
ウーノはそれを指差し、名を語った。
「これが地球だよ」
リタはその惑星を食い入るように見つめた。思わず取ろうと腕を伸ばすが、手の平は青い海へと吸い込まれてしまった。
「もっと見たいかい?」
ウーノが訊ねると、リタはぼんやりとした表情で頷いた。
地球が膨らむように大きくなり、地表が鮮明に浮かび上がった。
「青いのが海で、茶色い所は大地。緑は森で、白いのは雲だよ」
ウーノが解説すると、リタは首をひねった。
「森ってなに?」
リタは森どころか、葉を傘のように湛える木を見た事がなかった。この町に生える植物は皆背が低く、深緑というには余りにも枯れ果てた色と言える。
「うーん、この星にも森ぐらいはある筈なんだけどな」
惑星改造を施され、大気が安定している限りどこかに森が存在しないとおかしい。だが、降下中の記憶を引っ張り出しても緑の記憶はなかった。
「この近くじゃないけど、遠くにいけば見つかるんじゃないかな」
リタの大きな瞳が輝きに満ちた。
「どうやったら森にいける!?」
「そうだね……。船が直ったら一緒に探そうか」
少女の期待が溢れ出さんばかりの眼差しを受け、ウーノはつい約束をしてしまった。だが、恐らくレニーは怒らないだろうと思い、ベッドの上ではしゃぎ回る少女の頭を撫でた。
「まだ完全に治ってないだからはしゃいじゃダメだよ。ちゃんと治らないと連れていかないよ」
そういうとリタは慌てて座り直し、ぐしゃぐしゃになったシーツを丁寧に元へ戻し始めた。
扉が開く音がしてウーノが振り返ると、レニーが入ってきた。
「おかえりなさい先輩」
「おかえりなさいレニーさま」
「ただいま」
そう答えるレニーは、どこか力なく見える。ウーノが察するに、カミルとの話し合いはあまり芳しい結果ではなかった事が判る。
「ダメでしたか」
「……ああ、兵は出せないそうだ」
「まぁ、当然かも知れませんね。危険が大きすぎますし」
レニーはそうだなと頷き、テーブルの上で回る星に気付いた。
「立体映像を見せて上げていたのか」
「はい、退屈でしょうからね」
「あと、お菓子とかジュースっていう飲み物ももらいました!」
リタが空になったカップを掲げて嬉しそうに報告する。
「お船の中のものってとってもおいしいんです。水もご飯も!」
その言葉にレニーは胸を痛めた。普段少女がどんな物を口にしているか、想像してしまったのだ。
「……そうか。遠慮は要らないから好きなだけ食べて構わないぞ。育ち盛りだからな」
「はい!」元気良く答えるリタにレニーは感情を押し込めて微笑み、部屋を出て行った。
だが、その努力は実らなかった。
「なんかレニーさま、元気なかったね」
残念そうに俯くリタにウーノは驚いた。子供は大人が思う以上に人の気持ちに敏感なのだ。ウーノは心配させまいとリタの頭を撫でてあげた。
「大丈夫、先輩は強い人だから、すぐに元気になるよ」
しかし、言葉に反してウーノの思いもまた、リタと同じく気掛かりを感じていた。
ウーノがリビングルームに入ると、レニーが一人紅茶を飲んでいた。何か物思いに耽っているようで、彼が入ってきても黙ってカップを見つめている。
その対面にウーノは腰掛け、テーブルの脇にあるボタンを押した。
テーブルの中央にぽっかりと穴が開き、そこから紅茶の入ったカップがせり出してくる。
一口飲み、そして透明な時間が流れる。
口火を切ったのはレニーだった。
「リタはどうしている?」
「お昼寝しています。ちょっとはしゃぎ疲れたみたいで」
「けが人なんだ。あまり無理をさせるなよ」
「はい、常に体調には注意しています」
そこで話は区切られ、再び二人は黙してしまった。
今度はウーノから切り出す。
「あまり根を詰めない方がいいですよ」
ポツリとそう忠告すると、レニーは我に返ったように自分の頬を触った。
「そんな風に見えるか?」
「そんな風にしか見えません」
ウーノが今度ははっきりと指摘した。レニーは、自分では普段通りに振舞っていると思っていたが、すべては筒抜けだったのだと諦め気を抜いた。机に突っ伏し、両腕に顔を埋める。
「大丈夫、少し疲れただけだ」
「大丈夫じゃないですよ」
いつになく強い口調のウーノに、レニーは少しだけ顔を上げた。
「先輩は研究所に居た時から。もっと言えば大学に居た時から、頑張りすぎだと思います」
ウーノの表情は今まで見た事が無いほど険しく引き締められている。
「先輩。少し休みましょう。いつもそんなに大きな荷物ばかり抱えて、いつか潰れてしまいますよ」
レニーはウーノの意見を信頼している。いつもすべてを受け入れていた訳ではないが、たまに言われる陳情の全ては、常にレニーを慮っていた。それだけに彼からの警告は心に堪える。
だが、レニーは首肯しなかった。
「それは出来ない」
彼女は身を起こして、視線を宙に浮かべた。次々と去来する過去を、一つ一つ見つめ直す。当時では見えなかった事が、遠く離れた場所からだと良く判る。
「……思えば私は、ずっと逃げていた。家族、仲間、研究、学校、社会。いろんな物から」
「だけどそれは……」
仕方が無かった。そう言いかけ、ウーノは口をつぐんだ。それはレニーがずっと苛まれてきた言葉だと彼は良く知っている。
「お前の言いたい事は判る」
レニーは俯き、ウーノの思いを飲み込んだ上で、自分の心情を吐露してゆく。
「確かにあのまま残っていた所で何が出来た訳じゃない。結局私はただの小娘で、代わりなんか幾らでも居る研究者の一人に過ぎない」
彼女は初めから認めていた。自分のした事は歯医者を嫌がる子供の駄々と同じで、抵抗と呼べる物ではなかったと。
自分と同じように悩む人間は幾らでも居て、彼らはそれでも耐え忍び、自らを覆う枠の中で出来る事をしているのだ。それに比べて私は……。そう思わざるを得ない。
「結局私は逃げ出したんだ。納得出来ないから、許せないから、逃げて、逃げて、逃げ続けて、今ここに居る」
そしてこの星にも、過酷な環境の中で必死に生きている人たちが居る。
レニーは顔を上げた。彼女は何かに挑むような視線をウーノに向け、敢然と告げた。
「私はもう逃げないぞ」
ウーノが始めて会った時から、目の前の少女は小さな胸を精一杯に張って生きてきた。その彼女がここまで自分を曝け出すのを始めて目の当たりにし、それだけで、満たされる思いがした。
長く息を吐くと、紅茶を一気に喉へ流し込み、彼は苦笑した。
「判りました」
まるで吹っ切れたような口調だった。実際、ウーノは自分でも気持ちが晴れているのを感じている。
「判りましたよ。もう止めません。先輩の思うようにやってみましょう」
「……すまない」
レニーはここまで心配してくれる相手へ、何も答えられない自分に心苦しさを覚えたが、ウーノの口調は明るい。
「いまさらですよ先輩。覚悟なんか、大学を出る時に決めています。でも、一人で抱え込むのはやめて下さい。優秀な助手が居るんです。忘れないでください」
そこでようやくレニーの表情が和らいだ。
「判った。お前も一緒に悩むといい」
「当たり前です。それと、しっかり食事と休みを取ってください。ちゃんと寝ていますか? 顔色が悪いですよ。あと、昨日の夕食と今日の朝食残したでしょう? 珍しく自分で片付けたからおかしいと思ったんです。子供ですか貴女は」
ここぞとばかりに不満をぶつけるウーノに、彼女はただ黙って聞き入れるしかなかった。だが、それほど悪い気もしない。
「あと、町の外に出ましたよね? 死骸を調べていたんだろうって事ぐらい察しは付きますけど、叫虫に襲われたらどうするんですか。しかも一緒に居るのは頼りない優男だし」
優男の部分に若干力が篭っていたが、やぶ蛇をつつく訳にもいかず彼女は言葉の雨に打たれ続けた。
「今度からそういう危険な事は僕がやります。いいですか?」
「うん」
レニーが大人しく頷き、ようやくウーノは息を付いた。今まで心の引き出しにしまって置いた物を一気に吐き出し、満足そうに2杯目の紅茶を手に取った。
「ウーノ、一つだけ構わないか?」
「構わないも何も……、なんですか?」
「なぜ私が町の外へ出た事を知っているんだ?」
ウーノは紅茶を口に運んだまま固まった。
レニーはゆっくりと頬杖を突き、覗き込むように、小刻みに震えるウーノを見つめた。
「まさか、私に発信機を仕込んでいるんじゃないだろうな?」
今度はレニーが引き出しの整理をする番だった。