信じるという癖
この文章は、何かを主張するために書かれたものではありません。
ましてや、正しさを示すための答えでもありません。
日常の中で、当たり前のようにしてきた行為に、
ふと引っかかりを覚えた瞬間がありました。
それがどこから来たものなのかを確かめるために、
言葉を並べてみただけです。
世界を知れば、人は変わると言われます。
けれど、変わらない部分が残ることもある。
その残り方が、時に厄介で、時に救いにもなる。
ここに書かれているのは、
立派な思想ではなく、
まだ整理しきれない癖のようなものです。
読み終えたあとに、
何かが腑に落ちなくても構いません。
その違和感が、
この文章の役割なのだと思っています。
夕暮れの駅前は、いつも少し疲れている。
仕事帰りの人の足音が重なって、空気が鈍くなる時間帯だ。
その日も、足元に財布が落ちていた。
拾った。
考えるより先に、手が動いた。
交番は、すぐそこにある。
この街では、落とし物は返る。
それを疑ったことはない。
そうやって生きてきたのだと思う。
疑わず、確かめず、まず信じる。
それが「正しい」かどうかではなく、
そうしないと落ち着かない。
海外の話を聞くたびに、
自分はずいぶん不用心なのではないかと思う。
騙す者と騙される者。
どちらが悪いかという問いに、
迷いなく答えてしまう自分がいる。
市場の映像を思い出す。
値段は揺れ、笑顔は読めない。
そこでは、信じる前に距離を取る。
抱きしめる前に、相手の背中を見る。
頭では理解している。
そうしなければ、生き残れない世界があることを。
SNSで見た、あの映像もそうだ。
若い人たちが、国境の話をしながら抱き合っていた。
見ているこちらは、少し救われた気がした。
だが、同じ映像を見た別の人たちは、
そこに救いよりも危うさを見たらしい。
この抱擁は、誰かの首を絞めないか。
あとから問題にならないか。
信じるという行為が、
感情ではなく、賭けになる場所がある。
知ってしまった以上、
知らなかった頃には戻れない。
日本の安心は、外では隙に見える。
それは事実だ。
だからといって、
自分の手つきまで変えられるかというと、
どうも話は別らしい。
夕暮れの駅前で、私は今日も財布を拾うだろう。
そして、交番へ向かうだろう。
その間に、周囲を見渡すことはあるかもしれない。
誰かに見られていないか、ではなく、
自分が何をしようとしているのかを確かめるために。
黙って自分のものにする想像だけは、
どうしても馴染まない。
それを合理性と呼ばれても、
首の奥が静かに拒む。
信じるという癖は、
直すべき欠点なのかもしれない。
それでも今のところ、
私はそれを手放す準備ができていない。
世界を知ることと、
世界に合わせて自分を削ることは、
同じではない気がしている。
夕暮れの駅前は、今日も少し疲れている。
その中で私は、
相変わらず財布を拾い、
交番へ向かって歩いている。
それでいいのかは、
まだ、わからない。
書き終えてみて、結局のところ、
私は何かを乗り越えたわけでも、
答えに辿り着いたわけでもないのだと思いました。
世界の広さを知るほどに、
自分の手つきがはっきり見えてくる。
それは誇れるものでも、
簡単に捨てられるものでもありません。
合理的であることや、
強くあることが正しさとして語られる場面は増えました。
けれど、身体が先に動いてしまうような行為まで、
すぐに書き換えられるわけではない。
この文章は、
変わるために書いたものではなく、
変わらずに残っているものを、
一度、言葉にしておくための記録です。
もし読み手の中にも、
似たような引っかかりが残ったなら、
それだけで十分だと思っています。
静かな場所で、
それぞれの夕暮れを思い出してもらえたなら、
これ以上の望みはありません。




