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信じるという癖

作者: 沢 一人
掲載日:2026/02/09

この文章は、何かを主張するために書かれたものではありません。

ましてや、正しさを示すための答えでもありません。

日常の中で、当たり前のようにしてきた行為に、

ふと引っかかりを覚えた瞬間がありました。

それがどこから来たものなのかを確かめるために、

言葉を並べてみただけです。

世界を知れば、人は変わると言われます。

けれど、変わらない部分が残ることもある。

その残り方が、時に厄介で、時に救いにもなる。

ここに書かれているのは、

立派な思想ではなく、

まだ整理しきれない癖のようなものです。

読み終えたあとに、

何かが腑に落ちなくても構いません。

その違和感が、

この文章の役割なのだと思っています。







夕暮れの駅前は、いつも少し疲れている。

仕事帰りの人の足音が重なって、空気が鈍くなる時間帯だ。

その日も、足元に財布が落ちていた。

拾った。

考えるより先に、手が動いた。

交番は、すぐそこにある。

この街では、落とし物は返る。

それを疑ったことはない。

そうやって生きてきたのだと思う。

疑わず、確かめず、まず信じる。

それが「正しい」かどうかではなく、

そうしないと落ち着かない。

海外の話を聞くたびに、

自分はずいぶん不用心なのではないかと思う。

騙す者と騙される者。

どちらが悪いかという問いに、

迷いなく答えてしまう自分がいる。

市場の映像を思い出す。

値段は揺れ、笑顔は読めない。

そこでは、信じる前に距離を取る。

抱きしめる前に、相手の背中を見る。

頭では理解している。

そうしなければ、生き残れない世界があることを。

SNSで見た、あの映像もそうだ。

若い人たちが、国境の話をしながら抱き合っていた。

見ているこちらは、少し救われた気がした。

だが、同じ映像を見た別の人たちは、

そこに救いよりも危うさを見たらしい。

この抱擁は、誰かの首を絞めないか。

あとから問題にならないか。

信じるという行為が、

感情ではなく、賭けになる場所がある。

知ってしまった以上、

知らなかった頃には戻れない。

日本の安心は、外では隙に見える。

それは事実だ。

だからといって、

自分の手つきまで変えられるかというと、

どうも話は別らしい。

夕暮れの駅前で、私は今日も財布を拾うだろう。

そして、交番へ向かうだろう。

その間に、周囲を見渡すことはあるかもしれない。

誰かに見られていないか、ではなく、

自分が何をしようとしているのかを確かめるために。

黙って自分のものにする想像だけは、

どうしても馴染まない。

それを合理性と呼ばれても、

首の奥が静かに拒む。

信じるという癖は、

直すべき欠点なのかもしれない。

それでも今のところ、

私はそれを手放す準備ができていない。

世界を知ることと、

世界に合わせて自分を削ることは、

同じではない気がしている。

夕暮れの駅前は、今日も少し疲れている。

その中で私は、

相変わらず財布を拾い、

交番へ向かって歩いている。

それでいいのかは、

まだ、わからない。










書き終えてみて、結局のところ、

私は何かを乗り越えたわけでも、

答えに辿り着いたわけでもないのだと思いました。

世界の広さを知るほどに、

自分の手つきがはっきり見えてくる。

それは誇れるものでも、

簡単に捨てられるものでもありません。

合理的であることや、

強くあることが正しさとして語られる場面は増えました。

けれど、身体が先に動いてしまうような行為まで、

すぐに書き換えられるわけではない。

この文章は、

変わるために書いたものではなく、

変わらずに残っているものを、

一度、言葉にしておくための記録です。

もし読み手の中にも、

似たような引っかかりが残ったなら、

それだけで十分だと思っています。

静かな場所で、

それぞれの夕暮れを思い出してもらえたなら、

これ以上の望みはありません。




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