9.水臭い子でごめんね
「うー……、うぅ……!」
三者面談の日、雨に降られたのがよくなかったのか、はたまた色々と考えすぎたのがよくなかったのか、おれは翌日から高熱を出して寝込んでいた。
痛くてだるい。苦しくて怖い。熱いのに寒い。
熱を出して動けなくなる感覚は、五年前、大怪我をして動けなくなったときの感覚とよく似ていた。
そのせいだろうか。寝込んでいる間、おれは五年前の欠けた記憶を覗き見るように、何度も繰り返し悪夢を見た。
夢の始まり方はいつも同じだ。
おれよりも背が低かったころの小学生の慧が、控えめにおれの体へ腕を回してくる。目をきらきらと輝かせながら、照れくさそうに何かを言う。慧の胸元では、慧が今も愛用しているロボット風なゆるキャラが、きらりと夕焼けを映してきらめいていた。
慧が何を言っているのかは分からない。どれだけ耳を澄ませても聞こえない。無音の世界なのだ。
おれは慧に答えようとした。けれど、どう頑張ってもおれの口は動かない。
そんなおれを見て、幼い慧の表情は、どんどんと虚ろになっていく。
やがてこの世の終わりとばかりに顔を白くさせた慧は、ぐらりと背中から倒れこみ、おれの目の前でなすすべもなく崖の下へと落ちていった。
「慧!」
叫んだ瞬間、音が生まれた。
夢の中の慧と位置を入れ替えるかのように、おれの体はふわりと宙に浮かび、頭から真っ逆さまに落ちていく。
ひ、と悲鳴を上げた瞬間、浮遊感はパッと消えてなくなった。代わりにあらゆる景色が黒く滲んで、音が一気に遠くなる。
どくり、どくりと脈が打つたび、何かがおれの体の外へと漏れ出していった。感覚はあるのに、体を動かすこともできなければ、声を出すこともできない。
腕に抱えた誰かの熱だけが、この恐ろしい世界の中で、唯一おれを安心させてくれるものだった。
「光太、……光太! いやだよ、起きろよ……!」
慧の声が聞こえた。今よりもほんの少し高く幼い声で、弱々しく泣きじゃくっている。
あいつが泣いているところなんて保育園にいた時くらいしか見たことがないというのに、妙にリアルな声だった。
「ごめん。……ごめん、光太……、俺のせいだ。全部、俺のせい……!」
幼い少年の声が、だんだんと今の高校生になった慧の声に変わっていく。
「ごめんな、光太」
するりと腕の中から熱が消えていく。遠ざかる慧の背中には、いくら手を伸ばしても届かなかった。
* * *
最悪の目覚めだ。
肩の傷跡を押さえながら、おれはゆっくりと身を起こす。
体中、汗でべたべたに濡れていた。熱が出ているせいだろう。測ったら余計に具合が悪くなりそうだから、あえて熱を測ることはしない。
吐き気をこらえつつ、おれは枕元に置いた水をのそのそ探す。一日中寝ていたものだから、今が何時なのかも分かりやしない。外が暗いところを見ると、まだ朝には遠いだろう。
コップを持ち上げた拍子に、指がスマホの画面に触れた。ぱっと画面が明るくなる。
時刻は午前一時ぴったり。朝には遠いどころか真夜中だった。
「ん?」
慧からのメッセージが来ていた。
開いてみると、何時間か前に『体調は大丈夫か』という短いメッセージを送ってくれたようだ。熱でボランティアにいけないと連絡してから三日も経つから、慧も心配してくれたらしい。
『大丈夫じゃない。きつい』
短いメッセージを返すと、間を置かずに既読がついた。ずいぶん夜更かししているらしい。
『がんばれ』
『がんばる。犬たちは?』
『元気だよ』
ぽこぽこと短いやり取りをしつつ、おれはまどろっこしさに舌打ちする。
会って話せば一瞬なのに。体調不良が恨めしい。
『おれも早く犬に会いたい』
『すぐ会える』
慰め代わりか、慧は花子とモクレンちゃんがお散歩をしている写真を送ってくれた。元気そうな様子にホッとする。
少し間を置いて、慧はもうひとつメッセージを送ってきた。
『明後日からじいちゃんたちの家に行く。俺もしばらくボランティアには行けない』
慧の両親は名古屋からの移住組だ。だから毎年お盆の時期には、秋月一家は名古屋にある祖父母の家を訪ねに行く。今年はかなり早い時期に行くんだなあとは思ったけれど、おれは深く考えずに返事をした。
『了解』
しばらくと言っても、せいぜい一週間のことだろう。おれが回復するころには慧だって帰ってきているはずだ。
そう思ったのに――。
「え? 慧、まだ帰ってきてないんですか?」
夏野菜が詰まった竹カゴを下ろしつつ、おれはぽかんと慧の母さんを見つめた。
発熱してから約一週間、寝込みに寝込んでいたおれは、完全回復を果たしていた。なんならずっと寝込んでいたせいで、足の怪我まですっかり治ったくらいだ。
今日のおれの仕事は、母さんの荷物持ち。秋月家への夏野菜のおすそ分けに来たのだ。
朝おれが畑で収穫したばかりのきゅうりには、足が二股に分かれたマンドラゴラのようなやつが紛れこんでいた。慧に食べさせてやろうと思って持ってきたのに、本人がいないのでは意味がない。
新鮮野菜と引き換えに、慧の母さんからはお手製の漬け物と名古屋土産を頂戴する。ご近所間でこうやって収穫物の物々交換をするのは、この辺りの風習だ。
「慧だけ向こうに残ってるってことですか? 何かあったんですか」
慧の弟妹たちはつい先ほど元気に遊んでいるところを見かけたばかりだ。
「ううん、何もないよ。夏期講習を受けてるだけ」
「夏期講習?」
聞いてない。おれが声を上げると、慧の母さんは慌てたように口元に手を当てた。
「あらやだ。あの子もしかして言ってないの? 水臭い子でごめんね、光太くん」
「慧くんと喧嘩でもしたの? 今度は何をしたの、光太」
茶々を入れてくる母さんに「してねえし!」と返しつつ、おれは慧の母さんに続きを促す。
「夏期講習ってことは、慧は今、予備校に行ってるってことですか?」
「そうそう。夏休みの間だけ受けられる集中講義みたいなものがあるんですって。あの子、三者面談の日、いきなり勉強に目覚めちゃったみたいでね、帰ってくるなり『予備校に行かせてほしい』って言い出したの」
慧の母さんは、頬に手を当てながらぽやぽやと微笑んだ。
「お兄ちゃんのおねだりなんて初めてだから、お父さんとおじいちゃんが張り切っちゃってねえ。『送り迎えは任せろ』だの『おじいちゃんの家に泊まりなさい』だの、賑やかだったよお。あと二週間くらいはおじいちゃんの家にいるんじゃないかな」
「二週間もですか!」
つまり慧は、盆過ぎあたりまで帰ってこないということではないか。夏休みの半分も町にいないなんて聞いてない。
すっとんきょうな声をあげるおれに、慧の母さんは深い同意を返してくれた。
「ねー! びっくりよね。よっぽどレベルの高い大学でも目指してるのかって聞いたんだけど、行きたい大学も学部も全然教えてくれないの。光太くん、何か聞いてない?」
「……聞いてないです」
慧も獣医になりたいと言っていたから獣医学部を目指すのだろうが、おれが知っているのはそれだけだ。
塾も予備校もないこのド田舎での受験対策といったら、基本的には自学自習一択だ。親の協力があるなら、慧のように休みを使って都会で集中講習を受けたり、通信教育を取ったりする人もたまにいるけれど、それにしたっておれに黙って行く理由はない。
ふつふつと怒りが湧いてくる。
こうしてはいられない。
「――おれも勉強する!」
「あら」
おれの宣言に、慧の母さんは面白がるように目を細めた。
くるりと母さんに向き直ったおれは、空になった竹カゴを手に取って、ぶっきらぼうに一言告げた。
「母さん、おれ、先に帰ってるから」
「はいはい。いただいたお漬け物、冷蔵庫に入れておいてね」
「分かってる」
ずしりと重いたくあんを腕に抱えて、おれは早足で歩き出す。後ろでは、母さんたちが楽しそうに笑い合う声が響いていた。
「慧くんが真面目なおかげで、うちの子も勝手に頑張ってくれて、本当に助かるわあ」
「あら、こちらこそ光太くんと競争してくれるおかげで安心ですよ」




