8.いわゆるキス待ち顔に見えなくもない
朝倉さんとマロンをシェルターに届けて、車はおれたちの家へと向かっていく。犬養さんの運転する車がおれの家の前へと差し掛かるころ、不意に慧が「あ」と焦ったような声を上げた。
「どうしたんだよ。スマホ、裏山に置いてきちゃったのか?」
「置いてくるわけないだろ。光太じゃあるまいし」
どういう意味だ。
「そうじゃなくて、うちの家族、買い物に出るって言ってたなって。多分まだ帰ってきてないと思う。家出るとき、鍵を持ってくれば良かったな……」
しかめ面で慧は言葉を継いだ。そんな慧に、おれはにかりと笑いかける。
「皆帰ってくるまでうちにいればいいじゃん。泥だらけだし、ついでに風呂も入ってけば?」
二人目の息子と父さんが言っていたように、おれも慧も昔から家族ぐるみの付き合いだ。今さら遠慮をする理由もない。
もっとも、中学高校と進むにつれて慧が家に遊びに来る頻度は減っていたし、最近に至ってはおれの部屋に来るどころか、慧の部屋にすらいれててくれなくなってしまったが。
「家の前で待ちぼうけしてる方がおかしいだろ?」
渋りに渋る慧を、おれはそう言って説き伏せる。
「……じゃあ、少しだけ」
「決まりな!」
慧が頷いたのをいいことに、おれは意気揚々と自分の家へと慧を引きずり込んだ。
おれが怪我をした事情を、犬養さんは親に丁寧に説明してくれた。動物病院へ向かうモクレンちゃんと犬養さんを見送るなり、母さんは当たり前のようにおれと慧を合わせて風呂場に放り込む。
「ふたりともとりあえずお風呂ね。どろどろの体、綺麗にしなさい」
「いや、俺はあとでいいですから……!」
慧は必死に抵抗したが、押しの強い母さんに逆らえるはずもない。
「濡れたままじゃ風邪引くよ。湯船とシャワー、交代で使えばいいんじゃない? そうしたら洗濯物も一気に洗えるし、一石二鳥!」
高校生の男ふたりを一緒に風呂に押し込むのはどうかとおれでさえ思うが、母さんはいつまで経ってもおれたちに五歳児と変わらぬ扱いをしてくる。
「汚れ物は隅にまとめておいてね」
有無を言わさず言い残して、母さんはぴしゃりと風呂場の扉を閉めてしまった。
無言で慧と見つめ合い、おれはふるふると諦めを込めて頭を振る。
「……しょうがねえ。とっとと入っちゃおう、慧」
ひと声掛けて、おれはてきぱきと湯を張り始める。
小学生のころには、こうして二人して泥まみれになって風呂場に押し込まれるのは、よくあることだった。懐かしいなあと思いつつ、おれはさっさと汚れた服を脱いでいく。
「わ」
しかし、慧はおれがシャツを脱ぎ去った途端に、サッと不自然に目を逸らした。
「なんだよ」
「あ、ああ、いや、えっと……」
ガン見されてもそれはそれで気まずいが、そんな見てはいけないものを見てしまったかのような反応をされると、気になって仕方がない。
「……足! 痛めてるんだから、温めない方がいいんじゃないのか」
ごまかし方が下手すぎる。いきなり挙動不審になって、どうしたというのか。
首を傾げつつ、おれは早々に裸になって浴室に上がる。
「おれはシャワーだけにするから大丈夫。慧は湯船も使っていいからな」
「ああ、うん。ありがとう……」
足を捻ったとはいえ、見た感じそこまで腫れはひどくない。歩けないほどでもないし、これなら風呂上がりにテーピングをするだけで十分だろう。
そんなことを考えつつ雑に髪を洗っていると、慧もおずおずと浴室に入ってきた。所在なげに立ち尽くした慧は、まだろくに湯の溜まっていない湯船につかり、小さくなって膝を抱える。
「一緒に風呂入るって、なんか修学旅行みたいだな」
「光太は修学旅行で大風呂行ったことないだろ」
「……まあそうだけど!」
小学生のときは食べすぎて腹痛で寝込んでいたし、中学のときはタイミング悪く捻挫したばかりだったから、そもそも湯船に浸かれなかった。いかにも修学旅行らしい大浴場というイベントを逃し続けてきたのがおれである。
修学旅行と言えば――。
「なあ、慧が好きなやつって誰?」
びくりと慧が肩を揺らした。
修学旅行といえば恋バナ。単純な連想だ。聞こうと思ってタイミングを逃し続けてきた慧の恋の相手とやらを問い詰めるにも、絶好の機会に違いない。
「……いきなり何だよ」
「ずっと聞こうと思ってたんだ。見込みのない恋をしてるとか何とか、前に言ってたじゃん。相手、誰? 聞かせろよ。クラスのやつ? それともボランティアに来てる人?」
慧の性格からすると、こいつは見た目で惚れるというよりは、中身に惚れるタイプだろう。とすると、ある程度親交のある相手があやしい。
クラスメイトなら中野か坂上、ボランティアなら参加歴の長いベテランたちか。叶わぬ恋というからには、相手にはすでにパートナーがいるか、年が相当に離れている可能性もある。
にやりと笑って、おれは慧を振り返る。
「当ててやろうか。榊のおばちゃんか、犬養さんだろ!」
「……なんでだよ。そんなわけないだろ……」
慧は疲れたように肩を落とした。違うらしい。
「えー、じゃあ誰だよ。おれも会ったことあるやつ?」
「誰でもいいだろ」
「よくないよ。気になるじゃん」
叶わぬ恋だと慧は言うけれど、相手がどう思うかはまた別の話だ。
慧に恋人ができたらどうなるのかなど考えたくもない。慧は優しいから、誰かと付き合うとなれば、相手をとても大切にするはずだ。時間だってたっぷり使って、甲斐甲斐しく世話を焼いてやるに違いない。
登下校も昼飯もボランティア活動も今までずっとおれと一緒にしてきたくせに、ぽっと出の誰かがおれの立場を取っていくのかと思うと、想像するだけで胸がムカムカとした。どろどろとした焦りを腹の奥深くに押し込んで、おれは恋バナの体で探りを入れる。
「なあ、『好き』ってどんな感じ?」
「どういう意味だ」
「犬養さんがいつだか言ってただろ。誰かに惹かれる『好き』は、ほかの好きとは違うんだって。慧もそうなのか?」
「……しつこいな。なんでそんなに気にするんだよ」
なんでと言いたいのはおれの方だ。
だって、慧の一番の友だちはおれではないか。それなのに、慧の中にはおれの知らない『一番』がいる。ならばせめて、その想い人とやらの名前くらい教えてもらわなければ気が済まない。
背は高いのか。
足は速いか。
知り合ってどれくらい経つんだ。
どこで会ったんだ。
なんで好きなんだ。
あの手この手で言葉を変えて探っていると、何度目かの問いかけで、ようやく慧は観念した。
「ああもう、いい加減にしてくれ! ……同じクラスのやつだよ! これでいいだろ!」
「よくないなあ。どんなやつ?」
「元気で優しい。名前通りの性格のやつ」
じとりとおれを睨みながら、慧は呻くように白状する。
あいまいすぎる。けれど名前通りと言うからには、慧の想い人は何かしら象徴的な名前をしているのだろう。たとえば花とか。
体を泡まみれにしながら、おれはクラスメイトの名前を必死に思い出そうとした。けれど、さっぱり思い当たらない。
さすがにもう少しヒントが欲しい。
「なあ、慧――」
くるりと振り向くと、慧はおれに背を向けるようにして湯舟の中に座っていた。
いかにも落ち着かない様子で、手で水鉄砲を作って遊んでいる。普段話をするときには当たり前のように目が合うのに、今の慧は不自然なくらい、自分の手元しか見ていなかった。
慧が気づかないのを良いことに、おれはまじまじと幼馴染の背中を観察する。
先ほどおんぶしてもらったときも思ったけれど、慧の体には帰宅部とは思えないくらいしっかりと筋肉が付いていた。水泳の授業のときは皆ウェットスーツに近いジェンダーレス水着を着ているから、思えばこうやって裸を見る機会は今までなかった気がする。
犬たちの世話をしているおかげで、おれだってそれなりに筋肉はついている方だと思うが、それでも慧とは体の分厚さに差があった。
(おれに隠れて筋トレでもしてるのか?)
別におれに報告する義務はまったくないが、地味に悔しい。背だって昔はおれの方が高かったのに、いつの間にやら結構な差をつけられてきているし、これ以上慧に負けたくない。
「ん……?」
じっと背中を見つめていたその時、おれはふと見覚えのない傷跡を慧の肩に見つけた。体を洗い終えたところで、シャワーを流しっぱなしにしたまま、おれはそろりと慧の肩へと手を伸ばす。
「え? わ……っ!」
おれの指がその傷跡に触れた瞬間、慧はびくりと体を震わせ、文字通り垂直に飛び上がる。さながらくつろいでいた犬の体に急に触ったときのような驚きっぷりに、触ったおれまでびっくりした。
「ごめん」
「な、な……っ!」
バッと振り返った慧は、まずおれの顔を見て、それから視線を少しだけ下ろして、おれの体を思わずといったようにじっと見た。それからまたおれの顔に視線を戻した慧は、おれと目を合わせるなり、じわじわと頬に血を上らせていく。
「ぅ、あ」
「や、そんなところに傷跡、あったかなって……思って……」
言い訳にもならない言い訳が、おれの口の中でしおしおと消えていく。
言葉を取り繕えない慧なんて、はじめてだった。あからさまにうろたえている慧は、おれが触った肩の傷跡を自分の手で覆って、皮膚が白くなるほどぎゅっと掴んでいる。
慧は耳まで赤くなっていた。緊張していて、動揺していて、――そして、怯えているのがひと目で分かる。
おれが傷跡のことを聞いたせいじゃない。多分、裸で、手を伸ばせば肌に触れられる距離にふたりきりでいるこの状況が、慧をおかしくさせている。もっと言うなら、おれが慧に触ったからか。
友だちとふたりで狭い風呂に入るのは、それはまあ居心地が良いものではないだろう。でも、そこまで緊張するほどのことではないはずだ。だって相手はおれなんだから。
そこまで考えて、いや、とおれは直感的に自分の考えを否定した。
ここにいるのがおれだからこそ、多分、慧はこんなにも動揺しているのだ。
『見込みのない恋なら、ずっとしてる』
前に聞いた慧の言葉が、急に奇妙な生々しさを持って、おれの胸にストンと落ちてきた。
思えば慧は、おれが服を脱ごうとしただけで目を逸らしていた。体を洗っている間、こちらを見ようともしなかった。おまけにたった一瞬指が触れただけで、こうしてただの友だちに対するものにしては過敏すぎる反応を見せている。
それはおれを特別意識しているからだと思うのは、おれの自惚れなのだろうか。
「……あ、あはは……。びっくりした。ごめんな、光太」
上擦る声で、慧がごまかすように無理やり笑う。真っ赤になった慧の顔は、いつもと違って妙に幼く、頼りなく見えた。
「慧が謝ることじゃないだろ。おれが勝手に触ったんだから」
「ああ、うん。そうか。そうだな」
自分の肩を押さえていた手を、慧がぎこちなく外していく。正面から慧の傷跡を見たおれは、ついつい口を開いていた。
「それ、触ってもいいか」
「え? まあ、うん」
改めて許可を取った後で、おれは指先で慧の肩に触れる。
しっとりと濡れた慧の肌は吸い付くように熱くて、触れた瞬間、おれは自分の指が慧に吸い込まれるような、不思議な気分になった。このままずっと触っていたら、自分の肌と慧の肌の境目が分からなくなりそうだ。
――やっぱりだ。
でこぼことした傷跡を指で確かめて、おれはひそかに目を伏せる。
大きさこそおれの傷跡の方が濃く大きいけれど、傷のつき方といい、位置といい、おれの肩にある傷跡とよく似ている。
おれの傷跡は右肩にあるけれど、慧のそれは左側にある。たとえばおれたち二人が向き合った状態でどこかに落ちて、鋭い岩で肩を抉られたとしたら、こういうことになるかもしれない。でも、慧まで跡に残るほどの怪我をしていたなんて話は聞いたことがなかった。
おれが考え込んでいる間も、妙に慧は静かだった。
指を離して、顔を上げる。直後におれは息を呑む。
膝を抱えて座る慧は、半身で振り向いた体勢のまま固まっていた。唇をきつく引き結び、何かを耐えるように目を閉じている。
なんだかエロい。見ようによっては、いわゆるキス待ち顔に見えなくもない。
(慧はこういう顔も絵になるんだな)
思わず顔を寄せ、しげしげと慧の表情を眺めた後で、おれは自分で自分の思考にびっくりした。
何を考えているのだ。
慌てて顔を引こうとした拍子に、うっかり鼻先が慧の鼻に当たった。その感触を不審に思ったのか、慧がそろりと目を開く。
ぱちりと至近距離で目が合った。
おれたちは、ふたり揃って固まった。
「……何してるんだ、光太」
慧が上ずった声で聞いてくる。
まさか馬鹿正直に見惚れてましたなんて言えるはずもない。おれは笑ってごまかそうとした。
「や、あはは、愛の鼻チュー……なんつって……」
「愛?」
妙なところで慧が食いついてきた。
「そう。愛! 犬たちもよくやるだろ? 慧はおれの一番大好きな友だちだからな!」
「……友だち? 友だちか。……そうだな」
慧は苦しそうに目を伏せた。
どうして慧がそんな顔をするのか、その理由はおれには分からない。分からないけれど、取り返しのつかないことを口にしてしまったかのような、とんでもない罪悪感だけがおれの胸を埋めていた。
気まずい雰囲気がおれたちの間に立ち込めたその時、かたりと外から音が聞こえてくる。
「――ねえ、ちょっと」
母さんの声だった。
どうやら脱衣所の外にいるらしい。びくりと飛び上がったおれたちは、別に悪いことをしていたわけでもないのに、ふたり揃って大袈裟なくらいに距離を取る。
「……か、母さん? 何? 何か用?」
「タオル、ちょうど全部洗濯しちゃってたなって思い出したの。新しいやつを持ってきたんだけど、今、脱衣所に入っても大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫。ありがとう」
すりガラス越しに、母さんの影がさっと脱衣所に入ってくる。
「ふたり分、ここに置いておくからね。着替えもあとで持ってくるから」
「いいよ、それくらい自分でやるし」
「自分でやるも何も、光太、下着も持ってきてないじゃない」
持っていく間もなく風呂場に押し込んだのは母さんじゃないか。
物申したい気持ちにはなったが、おれはぐっと我慢する。無言のままでいると、母さんはため息をついて「まあいいや」と呟いた。
「光太のパンツだけここに置いておくから。慧くんの分はあとで光太が用意してあげなさいね」
「言われなくても――」
おれの返事も待たぬまま、母さんはおれたちが脱いだ服を洗濯機にささっと入れて出ていった。
「ああもう! 自分でやるってのに……!」
イライラが口をついて出た。
母さんのおかげで、さっきまでのおかしな雰囲気はすっかり消えてなくなった。惜しいことをしたような、ほっとしたような、何とも言えない気持ちだ。
顔を俯けた慧は、おれの視線から逃げるように背を丸める。
「洗い終わったなら先に出てろよ、光太。足の手当て、早くした方がいいだろ」
まるでさっきのことなんてなかったみたいな振る舞いで、慧は早々におれを追い出しにかかった。
なんだか一枚壁を張られてしまった気分だ。でも蒸し返すのもおかしい気がして、おれも慧の言葉にそのまま乗っかることにした。
「……そうだな。慧の着替えも持ってこないとだし、先出とくわ」
「ありがとう。足、ちゃんと冷やしておけよ」
「分かってるって」
浴室の扉を抜けて、タオルを被る。
髪を拭くふりをして、おれは盛大に頭を抱えた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
おれの傷と鏡写しのような位置にある、慧の傷跡。五年前の事故と無関係とは思えない。それなのに、あの日あったことをいくら考えても、なぜ慧が怪我をしているのか思い出せないことがもどかしい。
そしてあの挙動不審な慧の態度はなんだ。なんでそんな目でおれを見るんだ。なんで傷ついたような顔をするんだ。
(叶わない恋の相手って、まさか――)
顔を上げる。鏡の中の自分と目が合った。
おれか。おれなのか。いつからだ。
情けない自分の顔を見ていられなくて、パッとおれは視線を逸らす。
慧に聞きたいことは山のようにあるのに、何から聞けばいいのか分からない。普段なら慧に意見を求めるところだけれど、困ったことに、今はその慧こそが悩みのもとだ。
(……いや! おれの気のせいかもしれないし!)
ここはいったん、考える時間を置いた方がいいだろう。頭が冷えて冷静になったときに、またゆっくりと話をすればいい。
けれど、おれは慧を甘く見ていた。普段冷静で真面目なやつが思い詰めたとき、思いもかけない方向に暴走することを忘れていたのだ。
おれたちの波乱の夏休みの始まりだった。




