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7.獣医になろうかな

 まずったなあ。

 泥だらけになったおれは、土手に刻まれた無様な滑り跡を見上げて途方に暮れた。ぎりぎりのところでモクレンちゃんを抱き上げたはいいものの、ぬかるんだ地面に足を取られて、この様だ。

 スマホは最悪のタイミングで電池が切れてしまったし、右足は嫌な感じにズキズキと痛んでいる。

 加えてモクレンちゃんの状態も良くない。おれの足元では、ようやくけいれんの止まったモクレンちゃんが、ぐったりと横になっていた。呼吸が安定していることを何度も確かめ、おれは震える息を吐く。


「ごめんな。すぐ、迎えに来てくれるからな」


 ――大丈夫。

 スマホ越しに聞いた慧の声を思い出す。

 いつも通りの落ち着いた声だった。てんかんかもしれないと慧は言っていたし、動物病院へ連れて行ってあげれば、きっとなんとかなるはずだ。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 モクレンちゃんに言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのか、自分でも分からなくなりそうだった。


「上に登っておこうな」


 動くなとは言われたけれど、下に落ちたままでは、慧が探しに来てくれたとしても見つけられないだろう。

 モクレンちゃんを抱き上げて、おれは草の生えた獣道をゆっくりと登っていく。夕立に降られたせいで、うっかりすると濡れた草に足を取られそうになるのが煩わしい。

 大きめの段差に差し掛かったところで、おれは背伸びをしながら、近くのツタをぐっと掴んだ。


(昔、こういうところで慧と遊んだなあ……)


 懐かしく思い返した瞬間、ぶちりと景気のいい音を立ててツタがちぎれた。

 今日は厄日だ。


「……っ!」


 片腕でモクレンちゃんをしっかりと抱きかかえつつ、おれは尻もちをつく覚悟を決める。

 しかし幸運にも、おれが痛い目に遭うより前に、まるで野球のスライディングでもするような滑り込みの音が聞こえてきた。ぐっと腕を掴まれ、倒れ込みかけた体を引き戻される。


「バカ光太……っ! 動くなって言っただろ!」


 その声を聞いた瞬間、体からふっと力が抜けた。

 慧だ。本当にすぐ来てくれた。


「……先にモクレンちゃんを頼むよ」

「分かってる」


 おれの腕からサッとモクレンちゃんを抱き上げた慧は、背負っていたペット用のキャリーバッグを下ろすと、手際よくモクレンちゃんを中に収めた。次いで、おれに手を差し伸べると、上に登る手伝いをしてくれる。

 ふたり揃ってべちゃべちゃの地面に座り込んだところで、おれたちは示し合わせたようにため息をついた。


「……ありがとう、慧! 尻にでかい青あざができるところだった」

「こっちの身にもなってくれ。心臓が止まるかと思った」

「しょうがないだろ。意外とあのツタ、弱かったんだから」

「そんなものを縄代わりにするからだ」


 なんでここが分かったのかと聞こうと思ったけれど、聞くまでもなく理由は分かった。ふすふすと鼻を動かす花子が、嬉しそうにおれの頬をぺろりと舐めてきたからだ。


「花子がおれを見つけてくれたのか?」

「光太をって言うか、多分、光太の持ってるジャーキーの匂いだけどな」


 そう言われると、花子はやたらと熱心におれのポケットのあたりをふんふん嗅いでいる気がする。

 散歩ボランティアをしていると、途中で歩くのに飽きてしまう子もいるので、そういう子を説得するため、おれはいつも犬用の菓子を持たせてもらっているのだ。


「ポケットに色々入れると落とすぞって言ってるのに。今回だけは光太のやらかしのおかげで命拾いしたな」


 呆れのこもった慧の口調から察するに、どうやらおれは道中にジャーキーを零していたらしい。走るのに必死で気づかなかった。

 お礼代わりに、おれは犬用ジャーキーを花子にひとつ食べさせてやる。


「ありがとう、花子。花子はおれの女神さまだ。おれが困った時には、いつも花子が見つけてくれるんだな!」


 軽く首まわりに抱きつくと、花子はお返しのように湿った鼻を頬に押し付けてくれた。愛の鼻チューだ。


「慧もありがとう!」

「ありがとうは一回でいいよ」


 花子にハグをした流れで慧にも抱きつこうとしたが、しかめ面で押しのけられてしまった。つれないやつである。


「モクレンちゃん、大丈夫かな」


 慧が持ってきてくれたキャリーバッグの窓から、そっと様子を伺う。モクレンちゃんは視線はこちらに向けてくれたが、口がうまく動かないのか、ひくひくとまだ顔を引きつらせているままだった。

 おれの横からモクレンちゃんを覗いた慧は、スマホで何やら動画を撮りながらも、落ち着いた態度で頷いた。


「少なくとも、今すぐどうこうって風には見えない。獣医さんに診てもらおう。犬養さんが車で迎えに来てくれる。朝倉さんが入り口で誘導してくれてるはずだ」


 短い動画を撮り終わると、慧は誰かに電話を掛け始めた。どうやら、おれとモクレンちゃんを見つけた旨を、犬養さんに伝えているらしい。

 さすがは慧。おれのやらかしの後始末なんて、手慣れたものだ。パニックになっていた自分が恥ずかしくなってくる。

 犬養さんの通話を終えた慧をじっと見つめる。すると、おれがまだ混乱しているとでも思ったのか、慧は先ほどまでの塩対応とは打って変わった優しい手つきで、そっと背中を叩いてくれた。


「そんな心配しなくたって大丈夫だよ。犬養さんなら、モクレンちゃんをすぐに病院に連れて行ってくれる。だからもう大丈夫。な?」


 聞いた途端に不安がすうっと消えていくような、優しい響きのこもった声だった。添えられた手の体温も相まって、うっかりすると目が潤みそうになる。慌てて涙を飲み下しつつ、おれはへらりと笑みを浮かべた。


「……そうだな。ありがとう、慧」

「うん。さ、行こう」


 慧に続いて立とうとした瞬間、ズキリと足首が鈍く痛んだ。


「い……っ」


 ふらつくおれに、慧は慌てたように手を伸ばした。


「足、ひねったのか」

「少しだけ。でもまあ歩けるから、平気だよ」

「動かさない方がいい」


 平気だと言っているのに、慧はどうやら信じていないらしい。心配そうにおれを見たかと思うと、いいことを思いついたとばかりに、モクレンちゃんの入ったリュックキャリーを腹側に回して、そっとおれの前にしゃがみ込んだ。


「ん」


 どうやら背負ってくれる気らしい。おれは顔を引きつらせて、「いいって!」と慧に抗議した。


「歩けるって言っただろ」

「いいから、早く。モクレンちゃんを病院に連れて行ってやりたいんだろ」


 その言い方はずるい。

 しぶしぶと慧の首に腕を回すと、ぐんと視点が高くなる。軽々と背負われたことが地味にショックで、おれは照れ隠しに悪態をついた。


「……背中、濡れてね? じっとりしてる」

「そりゃそうだろ。さっきまで雨が降ってたんだから。文句言うなよな」


 慧はそう言うけれど、これが雨のせいでないことくらい、おれにだって分かる。一緒に来た花子がふわふわのままなのだから、慧だって雨に降られたはずがない。

 慧の首筋にも額にも、汗の粒がいくつも見えた。

 多分、電話で話してすぐに、慧は花子と一緒に全力で走ってきてくれたのだろう。花子は舌を出してへっへっと呼吸を弾ませているし、慧は慧で、抑えてはいるけれど、やはり息が上がっていた。


(カッコつけ野郎め)


 こういうところが、慧がイケメンと呼ばれる所以なのだろう。胸がいっぱいになって、おれはぎゅうと慧に抱きつく力を強める。


「さっき、モクレンちゃんの動画撮ってたよな。なんで?」


 無言で背負われているのも気恥ずかしくて、おれはなんとなく口を開いていた。

 慧は理由のないことはしない。必要だから撮ったのだろう。思った通り、慧は「診察の役に立つかもしれないから」とさらりと答えた。


「けいれんにも種類があるんだって。口で言うより動画で見せた方が、獣医さんも分かりやすいだろ」

「そっか、てんかんかもって言ってたもんな」


 モクレンちゃんが二度目にけいれんし始めた時、このまま死んでしまうのではないかと怖かった。けれど、慧が電話の向こう側で冷静に宥めてくれたから、あの時おれも落ち着けたのだ。


「……てんかんって、治るのかな」

「まずはちゃんと検査してみないと分からない。もし突発性のてんかんだったら、犬にはよくあることらしいし、薬で発作の頻度は抑えられるはずだ。きっと大丈夫だよ」


 慧の淀みない言葉を聞いていると、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。慧は物知りだから、知識に裏付けされた言葉には、自然と力が籠るのだろう。

 おれもこうなりたい。こんな風に、犬も人も一緒に安心させてあげられるようになりたい。

 そう思ったら、自然と言葉がこぼれ出ていた。


「……おれ、獣医になろうかな」


 ただの思い付きだ。でも、いざ口に出してみると、なんだかとてもしっくりきた。


「うん。獣医学部に行きたいな」

「いきなりだな」


 おれの唐突な言葉を、慧は驚くでもなく、自然に笑って受け止めた。

 ちらりと慧がおれを見る。苦笑を滲ませるその目には、悪ガキのような色がほのかに浮かんでいた。その目を見た瞬間、おれはなんとなく慧の考えていることが分かったような気がした。


「なあ、慧もそうなんだろ。違うか?」

「なんでそう思うんだ?」

「てんかんかもしれないって、すぐに口に出てくるくらい勉強してるじゃん。それにおれたち、こういうときは似てるから」


 咄嗟の時の行動や、やりたいことを決める時、いつもだいたいおれたちは同じことを考える。いままでもずっとそうだった。

 おれがそう言うと、慧はくすりと笑って、「そうだよ」と頷いた。


「保護されてくる犬たちには、怪我や病気をしてる子も多いだろ。治してあげられたらいいのにって、ずっと思ってた。獣医が診るのは犬だけじゃないけどさ、獣医になりたいって、中学の時から考えてたよ」


 やっぱりだ。ぼそりと返された言葉を聞いた瞬間、ぐわりと嬉しさが爆発しそうになった。


「だよな! そんな気がしたんだ。おれたちふたりとも、理系ってことだな」

「……ちゃんと考えたのか? 光太は流されやすいから、心配だ」

「保護者面するなよな。おれは直感で生きることにしてるんだ。これだって思ったら、それでいいんだよ。ピンときたことなら後悔しないから」

「適当だなあ」


 話しているうちに、裏山の出口が見えてきた。

 木々のトンネルをくぐり抜けるなり、犬養さんと朝倉さんが慌てた様子で駆け寄ってくる。


「ああよかった! 春日井くん、任せてしまって本当に申し訳ない。怪我をしたんですか? 大丈夫ですか? モクレンちゃんも……!」


 慧に背負われているおれと、リュックキャリーに入ったモクレンちゃんを見て、朝倉さんは心配そうに眉尻を下げた。


「おれは足捻っただけなんで、心配しないでください。それより、モクレンちゃんをお願いします」


 慧の背中から降ろしてもらい、おれたちはモクレンちゃんの入ったリュックキャリーを朝倉さんに手渡した。

 褒めてと言わんばかりにしっぽを揺らして犬養さんに駆け寄っていく花子の横で、朝倉さんは涙ながらにリュックキャリーを抱きしめる。


「ごめんね、モクレンちゃん。僕のせいで、びっくりさせてばかりだね」


 なんのことか分からないとばかりに、モクレンちゃんは朝倉さんをきょとんと見上げる。そんなモクレンちゃんの様子を確かめて、犬養さんは落ち着いた調子で頷いた。


「このまま病院に連れて行こう。クリニックの先生には電話しておいたから」

「よかった。ありがとうございます!」

「こちらこそ。モクレンちゃんを守ってくれて、ありがとうね」


 泥だらけになったおれと慧をじっと眺めて、犬養さんはかすかに苦笑する。


「……昔を思い出すね」


 言葉の意味がよく分からない。おれは首を傾げて、慧はふいと目を逸らした。

 気分を切り替えるように、犬養さんはゆるゆると首を横に振る。そしてサッと車の鍵を取り出すなり、おれたち全員を『いぬかいの小屋』のワゴン車へと誘導した。


「さあ、行こうか。朝倉さんとマロンちゃんはシェルターに戻ってもらうとして、光太くんと慧くんは、今日はもうおうちに帰ろう。怪我の手当てをしないとね。親御さんにも説明したいし、家まで送らせてもらうよ」


 その言葉に、慌てておれは待ったをかける。


「いいです! おれは勝手に転んだだけなんで。そんなことしてもらわなくても大丈夫ですから」

「私がそうしたいんだ。ボランティアをしてもらってた最中のことだし、光太くんのお父さんお母さんにはいつもお世話になってるからね。少し挨拶に伺うだけだから。ね?」

「……すみません」


 しゅんとおれは小さくなった。

 早く成人したいと思うのはこういう時だ。おれが勝手にやらかしたポカでも、その責任を取るのはおれではない。

 縮こまるおれを慰めるように、慧はおれの腕をぽんぽんと叩いた。

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