6.迎えに行くから
時をわずかに戻して、いぬかいの小屋にて。
よりにもよって土曜の午後の最終枠に三者面談を入れられてしまった慧は、ようやく『いぬかいの小屋』へと足を運ぶや否や、鬱憤を晴らすように野菜をざくざく切っていた。犬たちの夜ご飯を作るためだ。
一見するといつも通りの品行方正な優等生だが、その実、慧の内心は穏やかではなかった。
ひとえに、いつも一緒にいる幼馴染の姿が見えないためである。
(光太、何もやらかしてないといいけど……)
アスファルトを怖がるモクレンちゃんのため、裏山まで散歩に出ていったとは聞いている。けれどそれにしては、あまりにも戻ってくるのが遅いのではないか。
光太が目に入るところにいないと、不安で仕方がない。何しろあの幼馴染は、常に頭より先に体を動かす。
階段を踏み外した生徒を助けようとして足を捻挫したこともあれば、飛んできた硬球から人を守って、肩に青あざを作ったこともある。
光太というのは、いつだって自分のことは二の次で、目の前の相手を助けることしか考えないお人好しなのだ。
あの時だってそうだった。
ズキリと痛んだ肩をそっと押さえて、慧はちらりと窓の外に目を向ける。
日の暮れかけた空には、凶悪そうな雷雲が広がり始めていた。
「雨が降りそうだねえ」
犬養所長がひょこりとキッチンに顔を出す。肩を押さえる慧を見るなり、犬養所長は心配そうに眉尻を下げた。
「傷跡が痛むのかい」
うろうろと目を泳がせたあとで、慧はしぶしぶと肯定する。他人に弱みなんて見せたくはないけれど、犬養所長の前で強がったって意味がない。
「……そうですね。雨の降る前は、少しだけ」
「無理もない。深い傷だったものね」
「いいえ、軽い傷でした」
光太が負った怪我と比べたら、こんな傷、ないようなものだ。
この傷ができた日のこと――光太が崖に落ちて、救急車で運ばれた五年前のことは、あまり思い出したくない。考えるだけで、自分を殺したくなる。
ぽつり、ぽつりと雨が降り出す。あっという間に勢いを増す雨を見つめて、慧はそっと目を眇めた。
光太は大丈夫だろうか。雨で焦って走った挙句、転んで怪我をしないといいけれど。
「――ねえ、慧くん。ずっと気になっていたことがあるんだ。聞いてもいいかい」
犬養所長が静かに問いかける。慧が小さく頷くと、犬養所長は意を決したように口を開いた。
「どうして慧くんは、光太くんに本当のことを言わないんだい? 五年前の事故のとき、光太くんは私が彼を見つけたんだと思っているよね。私のことを命の恩人だと言って、好意を向けてくれている。でも、それは違うじゃないか。あの日、本当に光太くんを見つけたのは――」
「――犬養さんですよ」
皆まで聞かず、慧は淡々と犬養所長の言葉を遮った。
「あの日、崖から落ちた日、光太を助けてくれたのは花子と犬養さんです。光太がそう思ってるなら、それが全部です」
それに、と口には出さずに、胸中で呟く。
覚えていないなら、その方がいい。
勝手に両想いだと思い込んで好きだと言って、慧は光太を困らせた。自分が忘れてくれだなんて願ったせいで、光太は頭を打って、本当にあの時のことを忘れてしまった。
何もかもが自分のせいだ。もう二度と、あんな風に光太を困らせたくはない。
「……光太には言いたくないんです。子どもの頃の話とはいえ、恥ずかしくて」
目を泳がせながらそう言うと、慌てたように犬養所長は両手を振った。
「恥ずかしがることなんて何もないよ。あれは不運な事故だったんだから……。でも、慧くんが言いたくないなら、今まで通り秘密にしておくから。安心してね」
犬養所長は優しい人だ。ありがとうございますと礼を告げつつ、慧はポケットの中のロボット型のキーホルダーを握り込む。
苦い思いで笑みを浮かべたその時、ブブブ、とポケットの中でスマホが震えた。
光太からの着信だ。首を傾げながら通話アイコンをタップする。途端に、焦り切った光太の声が耳元で響いた。
『慧か? 今どこにいる? シェルターにいるか?』
「ああ、シェルターにいるよ。どうしたんだ」
『ちょっと色々あって……ああ、くそっ。どうしよう』
どこまで散歩に行ったのか、光太の声は、やたら音質が悪くて聞き取りにくい。
ざあざあと激しく降る雨音に、ノイズじみた雑音が何度も混ざった。走っているのか、それとも別の理由があるのか、光太の息はおかしなくらいに弾んでいる。
嫌な予感がした。
『どうしよう、どうしよう。慧……!』
光太の呼吸がどんどんと早まっていく。耳を澄ませると、泣き叫ぶような犬の鳴き声がかすかに聞こえた。
やっぱり何かあったらしい。ぎゅっと眉根を寄せて、慧はできるだけ柔らかい声を作って光太を宥める。
「落ち着いて。今行くから。どこにいる?」
『や、山。裏山。表から入ってすぐのところに――あ、いや、モクレンちゃんを捕まえなくちゃと思って走ったんだ。でも土手から落ちて、だから、えっと』
相当混乱している。要領を得ない説明を遮って、「分かった。裏山だな」と慧は強引に言葉を被せた。
光太は自分の怪我には動じない。これだけ動揺しているところを見ると、一緒にいる犬の身に何かが起きたのだろう。
「後ろの鳴き声、モクレンちゃんだよな? 怪我してるのか? それとも何か起きたのか」
『けいれんして、泡を吹いてるんだ……! さっきもあって、二回目で』
「……てんかんかな。この時間ならまだペットクリニックも開いてるはずだ。大丈夫」
確証はない。けれど、この間読んだ本の中に、似たような症状が載っていた。
「大丈夫だから、光太。そのままそこから動くなよ。迎えに行くから、通話はこのまま――」
言いかけたところで、ぷつりと通話が途切れた。ツーツーと空しく響く電子音を聞きながら、慧はチッと小さく舌打ちする。
多分、電池切れだろう。光太はこういう時に限ってやらかすやつだ。
くるりと犬養所長に向き直り、慧は素早く状況を伝えた。
「裏山でモクレンちゃんの様子がおかしくなったみたいです。二度立てつづけにけいれんしたらしいので、病院に連れて行った方がいいかもしれません。車で来ていただいてもいいですか」
サッと表情を引き締めて、犬養所長は力強く頷いた。
「もちろんだよ。車を持ってくるから、少し待っててね」
「ありがとうございます。でも俺はいいです。先に行きます。花子を連れて行ってもいいですか」
言った瞬間、「呼んだ?」とばかりに、ひょこりと花子が扉から顔を出す。慧と目が合うや否や、花子は嬉しそうに尻尾を振った。
「『もちろん』だって」
犬養所長がくすりと笑う。
夕立はすっかりと止んでいた。
「私もすぐに後からいくから」
険しい顔をした犬養所長に頷き返して、慧は花子とともに、保護犬シェルターを飛び出した。




