5.行ったらダメだ
七月も後半になると、夏休みより前に地獄の時期がやってくる。
期末テストに初の模試。おまけに三者面談と文理選択。忙しすぎて、ろくに息をつく間もありやしない。
おれと慧はテスト前には一緒に勉強をすることにしているので、七月後半は散歩ボランティアの頻度を抑えつつ、真面目に膝をつき合わせてテスト勉強することに専念した。
けれど、そんな欝々しい日々もようやく終わる。
「――これで夏休みだ!」
通知表を右手に掲げて、おれは父さんの運転する車の後部座席で伸びをする。
何を隠そう、おれはつい先ほど母さんと担任の山本先生との三者面談を終えたばかりだった。土曜日の日程に当たってしまったのは災難だったが、終わってしまえば何でもいい。
「赤点もなかったし、頑張ったじゃない」
「よっぽど補習に出たくなかったんだな。光太にしては珍しい」
母さんと父さんは、そう言っておれをからかった。面談に出た母さんはともかく、運転手をわざわざ買って出た父さんは、おれをからかうためだけにわざわざ来たのかと言ってやりたくなる。
「珍しいってなんだよ。やるときはちゃんとやるよ、おれは」
下手に赤点を取ってしまうと補修だの追加の宿題だので時間が取られて煩わしいし、慧にテストでぼろ負けするのも腹が立つ。
「……赤点なんて一回しか取ったことないし」
「その一回で慧くんに泣きついたから、いつも一緒にテスト勉強してるんだもんな」
からからと父さんは笑う。おれはぐっと言葉に詰まった。
「今日は慧くん、車に乗せてあげなくてよかったのか? この後はふたりでまたボランティアに行くんだろう? 最近父さん、慧くんと会えてなくて寂しいなあ。家にも全然遊びに来ないし」
「慧の面談はおれの後だから。つーか慧んちだって親が来るんだから、おれたちと一緒には帰らないだろ、普通に」
「ああそっか、そうだったな。なんかもう第二の息子みたいなものだから、つい」
父さんはたまにボケたことを言う。おまけに一度何かが気になるとそこからどんどんと連想して色々聞いてくるものだから、正直おれは、父さんと話しているとちょっとイラつく。口にしようものなら「おっ、反抗期だ!」と喜ばれるから言わないが。
「面談といえば――」
ほらきた。
「光太は文系と理系、結局どっちにしたんだ?」
のん気な父の問いかけに、おれはべえと舌を出して答えた。この間から誰も彼もそればかりで、嫌になる。
そんなおれを見かねてか、母さんがそっと口を挟んできた。
「まだ決めてないんだって。いつも通り、ぎりぎりまで考えたいみたい。お姉ちゃんはなんでもすぐに決めてたのに、姉弟で面白いくらい違うよね」
六つ上の姉の興味は外の世界に向いているらしく、今は国際協力事業団の職員として世界を渡り歩いている。たまにひょっこり帰ってきては変な土産物を置いていくので、おれから見たら自由気ままな変人でしかない。
「こだわりがないなら、光太も理系にしたらどうだ? 在宅メインの仕事に就けば、犬も飼えるぞ。預かりのボランティアもしやすいし」
「それも有りかもなあ……」
やりたい仕事を考えなければいけないと思っていたけれど、どんな生活をしていきたいかで将来を決めるのも有りかもしれない。
(慧はどっちにするんだろう?)
考え込むおれを呆れたように見て、母さんは雑に話をまとめた。
「なんでもいいけど、夏休みの間に決めておきなさいね」
「分かってるよ」
うんざりしながら返事をしつつ、おれはシェルターの犬たちに想いを馳せた。
進路の話は後回しだ。何はともあれ、テスト週間中ボランティアを控えていたおれは、とにかく犬に会いたくてたまらなかった。
保護犬のためのボランティア活動は色々ある。この間のように犬たちを散歩に連れて行くこともあるけれど、今日のおれの仕事は犬洗いこと、シャンプーボランティアだ。
おあつらえ向きに空は快晴だし、空気もからりと温かい。
「こんにちはー! シャンプー日和ですね!」
いそいそと扉を開けて、おれはいつも通りに榊のおばちゃんに挨拶をした。
「はい、こんにちは。晴れてよかったねえ、光太くん。今日はひとりなの?」
「慧は後から来ます。今日は三者面談だったんで」
返事をしつつ、おれは犬養さんの姿を探す。しかし、なにやら異様に人は少ないし、犬たちのシェルターも不自然に空きが多かった。
「なんか今日、人少なくないっすか? 犬も少ないし」
「ああ、みんな譲渡会に出かけてるの。夕方になれば帰ってくるよ」
譲渡会は、いわば保護犬たちと里親候補たちのお見合いパーティーだ。ホームセンターや町民会館、はたまたハウジングセンターなどの敷地を借りて、犬と人とが直接顔を合わせてお互いの相性を確かめる。保護犬の里親探しに欠かせないイベントでもある。
「おれも免許があればなあ」
犬養さんたちのように全部の仕事はできずとも、せめて犬たちの送迎くらいはしてあげられるのに。
おれがそうぼやくと、榊のおばちゃんは微笑ましそうにクスクスと笑った。
「あと何年かしたらいやでも大人になるんだから、焦らない、焦らない」
慰めとともにパイン飴を貰ったおれは、榊のおばちゃんからひと通りシャンプーボランティアについての注意事項を聞いた後で、他のボランティアさんたちと一緒に洗い場へ向かう。
犬を洗うのは、なかなかの大仕事だ。水に濡れるのが好きな子もいれば、洗われることをひどく怖がる犬もいる。
噛み癖のある子や、保護されたばかりの子は、経験豊富なスタッフやプロのトリマーさんが担当するので、未成年のおれが任せてもらえるのは、穏やかな老犬やシャンプー慣れした犬だけだ。
各自が担当の犬のシャンプーに取り掛かり始めると、洗い場にはデレデレとした声が飛び交うようになった。
「よーし、偉いぞ! 天才!」
「ちょっとだけ我慢してね。いい子にできて偉いねえ」
「すぐ終わるからね。……はーい、終わり! 偉かったね!」
おれもまた例に漏れず、水浸しの体をブルブルするビーグルに、「いい子だなー!」と全力で声を掛けた。にぱっと笑顔を浮かべたビーグルは、じゃれつくように濡れた体をおれの肩口へと押し付けてくる。
犬という生き物は、笑ってしまうくらいに感情表現が分かりやすい。シャワーを始めた直後は「どうしてこんな仕打ちをするんですか」と言わんばかりの虚無った目で恨めしげに見てくるくせに、おれたちが一声掛けるたびに犬たちの目は輝きを取り戻し、ついには尻尾を振って笑ってくれるようになるのだ。こんな素直な反応を返された日には、偉いと褒めて撫でたくなるのも当然である。
「はい、ドライヤーも終わり! 偉いぞ! あとは日向ぼっこしてしっかり乾かしてな」
疲れ切った顔の犬を洗い場の外へと送ったあとで、おれはふうと額の汗を手の甲で拭う。
ひと段落ついたところで辺りを見渡してみると、ボランティアで来ているトリマーさんが、仕上げのカットを始めている様子が目に入った。
カットは時間もかかるし、嫌がる子も多いので、里親さんの家へお試し同居に出掛ける直前の犬や、直近で譲渡会に参加する犬だけの特権だ。
(トリマーもアリだな)
トリマーボランティアさんの手でモデル犬のように生まれ変わっていく犬を見ながら、おれはうむむと腕を組む。ボランティアでも犬と触れ合うことはできるけれど、犬に関わる仕事を選べば、一日の大半を犬とともに過ごせるようになる。それは結構魅力的だ。
シャンプーボランティアを終えてシェルターに戻ると、散歩ボランティアの朝倉さんが来ていた。手にはリードを握っているが、何やらケージの前に座り込み、途方に暮れている様子である。
「モクレンちゃん。大丈夫だよ。ほら、お散歩に行こう? お散歩、好きだろう?」
情けない声で懇願する朝倉さんの前にいるのは、いかにもムスッとしているモクレンちゃんだった。初めて散歩に行った時から、モクレンちゃんは朝倉さんに懐いているように見えたのに、いったい何があったのか。
「どうかしたんですか?」
声を掛けると、朝倉さんは「ああ、春日井くん!」と弱りきった顔をしながら振り向いた。
「いや、それがね。モクレンちゃん、お散歩に行くのが怖くなってしまったみたいなんですよ」
しょんぼりとしながら、朝倉さんはおれがボランティアに来られなかったテスト期間中のことを教えてくれた。
「僕が悪いんです。あの後も何度かモクレンちゃんのお散歩を担当させてもらったんですけどね。前々回の時、車が来ているのに気づかなくて、クラクションを鳴らされちゃって……。音がよほど怖かったのか、モクレンちゃん、お散歩自体が怖くなってしまったみたいなんです」
「あー……なるほど」
このド田舎で狭い道をわざわざ通る車に出くわすこと自体が珍しいが、不幸に不幸が重なってしまったとしか言いようがない。
おれの記憶がたしかなら、モクレンちゃんは元々、犬が繁殖しすぎて手に負えなくなったという無責任な飼い主のもとから保護されてきた子だ。そういう悪環境から助け出されてきた子は繊細な子も多く、神経質なところがあったり、ちょっとしたことでトラウマがよみがえってしまったりすることも珍しくない。
「シェルターの前の道路が怖いなら、道路のないところで散歩してみるのはどうっすかね」
おれが提案すると、朝倉さんはパッと表情を明るくした。
「そうだね、場所を変えてみるのはいいかもしれない! 裏山の方なら車もめったに来ないし、ぴったりだ」
頷きあったおれたちは、さっと榊のおばちゃんのところへ行って、裏山方面への散歩許可を取りつけた。
「裏山ね。いいんじゃない? 猿に出くわさないように気をつけてね」
「はい。ちょっと歩いたら帰ってきます」
モクレンちゃんを抱き上げたおれたちは、榊のおばちゃんを交えて、一緒に散歩に連れていく犬を話し合った。モクレンちゃんと仲が良く、おおらかな犬がいいだろうということで、同行犬はミニチュアダックスフンドのマロンに決まった。
ぷるぷる震えるモクレンちゃんと、ぷりぷりとお尻を振るマロンを連れて、おれと朝倉さんは早速裏山に足を伸ばす。
裏山の麓に着いたところで、朝倉さんはそっとモクレンちゃんを地面に下ろした。
「ほら、モクレンちゃん。怖くないよ。匂いを嗅いでごらん」
モクレンちゃんはしばらく固まっていたが、マロンが自分の庭かのように辺りを駆け回っているのを見て安心したのか、ゆっくりと辺りの匂いを嗅ぎ始める。そんなモクレンちゃんをじっと見つめて、朝倉さんは嬉しそうに頬を緩ませた。
「ああ、よかった。獣道なら怖くないんだね」
「そうですね。……ビビりなのはどうしようもないみたいですけど」
アスファルトの上に居たときよりはマシだけれど、モクレンちゃんの様子はリラックスしているとは言いがたい。虫が近くで飛び上がるたび、身を震わせるビビりっぷりは、見ていて気の毒になるほどだった。小さな体で、こうまで神経質になってしまうなんて、過去にどんな生活を送っていたのだろう。
同じことを考えたのか、朝倉さんは悲しそうにぽつりと呟いた。
「こんな天使みたいな子たちを、どうして大切にできない人がいるんでしょうね」
譲渡会で里親を見つけても、毎週のように新しい保護犬はシェルターへとやってくる。もちろんやむを得ない経緯でやってくることもあるけれど、大半はそうではない。身勝手な人に振り回されて心に傷を負った犬を、これまで何匹も見てきた。
モクレンちゃんのように多頭飼育からレスキューされた犬もいれば、虐待をされていた犬もいる。無責任な飼い主に捨てられて、ガリガリの野犬として保護されてくる犬だって後を絶たない。
「ひどい話っすよね。動物のこと、動くぬいぐるみだとでも思ってんのかな」
「犬は家族なのにね」
しゅんとしながら語り合い、おれたちは獣道を歩くモクレンちゃんとマロンの後ろをゆったり歩く。
「そういえば、今日は秋月くんは一緒じゃないんですね。珍しい」
まるでおれと慧が四六時中一緒にいるかのような口ぶりだ。間違いではないけれど。
苦笑しながら、おれは榊のおばちゃんにも言った言葉を繰り返す。
「今日は三者面談だったので。慧も多分、そろそろ来てると思いますよ」
「三者面談ですか。懐かしいなあ」
「朝倉さんは文系と理系、どっちだったんですか?」
せっかくなので聞いてみると、朝倉さんは記憶を懐かしむようにゆっくりと瞬きをした。
「僕は商業高校だったから、はっきりした文理選択はなかったなあ。今も公務員をやってますし、文系理系とは無縁の人生ですね」
「文理選択、ないところもあるんですね」
「もちろん。ないところもありますし、理数科みたいにはじめから理系って決まってるところもあるし、そんな早くに進路を決めても仕方がないってことで、文理選択自体を廃止している高校も最近はあるって聞きますよ」
羨ましい。考える時間なんて、長ければ長い方がいいに決まっている。
「……うちの高校も文理選択なんてなかったらよかったのに。将来のことを考えて文理を決めろって言われるんですけど、やりたいことなんて、そんなすぐに分かんないっすよ」
おれがぼやくと、朝倉さんは人の良い笑顔を浮かべて「大丈夫、大丈夫」と優しく呟いた。
「難しく考えなくたっていいんです。将来やりたいことって、要はずっとやっても苦にならないことですからね。僕はこの町が好きだったので、ずっとここにいられる仕事にしました。春日井くんも、今自然にやっていることが、案外自分のやりたいことだったりするかもしれませんよ」
「自然にやってることかあ……」
いざ言われると難しい。
うんうん唸りながら考えていると、そんなおれを見かねたのか、朝倉さんはそっと言葉を足してくれた。
「これをやれって言われて抵抗があることは、つまりやりたくないってことだし、言われなくてもやってることは、自分が好きでやりたいことです」
「それで言うと、やっぱり犬関連ですね」
昔から、犬は当たり前におれの生活の中にいた。犬はもちろん、犬を通じて色んな人と話すのだって大好きだ。
おれがそう言うと、朝倉さんは嬉しそうに頷いた。
「春日井くんに向いていると思いますよ。獣医にトリマー、NGO法人……色んな仕事がありますし、夢が広がりますね!」
広がってもらっては困る。おれは選択肢を狭めて決めたいのだ。
そんな調子で朝倉さんとお喋りをしていたその時、どさりとおかしな音が聞こえてきた。
「モクレンちゃん⁉」
見れば、モクレンちゃんが地面に横倒しになっていた。がくがくと手足を震えさせながら、ぼうっと遠くの方を見ている。明らかに普通の状態ではない。
慌てて朝倉さんがモクレンちゃんのそばに膝をつく。おれもまた、何事かと様子を窺うマロンを押し留めつつ、おろおろとモクレンちゃんの様子を見守った。
「熱中症でしょうか? 拾い食いはしてないですよね?」
「ええ。おかしなことは何もなかったはずです。とりあえず、シェルターに連れて帰りましょう」
おれたちが話している間に、モクレンちゃんのけいれんはスッと何事もなかったかのように収まった。
よろよろと立ち上がったモクレンちゃんは、寝ぼけたような足取りで、ふらふらと辺りを回り始める。
「治った……のかな?」
首を傾げつつ、朝倉さんはモクレンちゃんに手を伸ばす。多分、抱き上げようとしたのだろう。
しかし、最悪のタイミングで邪魔が入った。
――ガガガッ。
カラスの声を濁らせたような耳障りな音が、木の上から落ちてくる。
喉を鳴らすような短い音の連なりは、あからさまな威嚇の声だった。
猿だ。近くの木の上に、小さな猿の姿が見える。いち早く姿勢を低くしたマロンちゃんが、勇ましくキャンキャンと木の上に向かって吠え始めた。
その声が決定打だった。
「ああっ、モクレンちゃん!」
ただでさえ神経質なモクレンちゃんは、猿とマロンの二重の鳴き声を受けて、パニックを起こしたらしい。じたばたとものすごい勢いで暴れたかと思えば、すっぽりとハーネスを抜けて、弾丸のように森へと飛び込んでいく。
「マロンを見ててください!」
咄嗟におれは、マロンのリードを朝倉さんに押し付けた。
さっきあんなにおかしな症状を見せていたのに、ここで迷子になるようなことがあったら、モクレンちゃんの命に関わるかもしれない。
助けなければ。その一心で、おれは日の落ちかけた森に飛び込み、真っ白な毛玉の弾丸と化したモクレンちゃんを全速力で追いかけていく。
しかし悲しいかな、不運に不運は重なるものだ。
森に飛び込んでほどなくして、雲行きがみるみる怪しくなってきた。大粒のぬるい雨を背に感じつつ、おれは必死にモクレンちゃんとの距離を詰めていく。
ようやく手が届きそうな距離にまで追いついたところで、おれはぎょっと目を見開いた。
モクレンちゃんが向かっているのは、崖だった。
「行ったらダメだ!」
飛びつくようにモクレンちゃんを制止する。ずるりと足元が滑る嫌な感触がしたと思ったときには、おれの視界はぐるりと回って、黒い雨雲でいっぱいになっていた。




