4.隠しごとをするなんて許さない
犬たちの散歩が終わるころになると、明るかった空もすっかり暮れていた。近くの田んぼからは、そろそろ聞き納めだろうカエルの合唱が賑やかに響いてくる。
「皆さん、今日はどうもありがとうございました。よかったらお茶とお菓子を持って帰っていってくださいね」
にこやかに微笑む犬養さんが、お茶と煎餅を手ずからボランティアに配って渡す。『いぬかいの小屋』では、ボランティアの時間が終わると、いつもこうしてささやかな差し入れをくれるのだ。
ただ、犬養さんの好みはおれからするとかなり渋い。煎餅やおかきならまだいい方で、栗しぐれやら水無月やら、じいちゃんばあちゃんの家で見るようなお菓子が出てくると、おれはしょっぱい気持ちになる。
「光太くんと慧くんにも。はい、どうぞ」
今日の差し入れはプチ最中だった。悪くない。
「今日も本当にありがとうねえ。みんなも散歩に行けて嬉しそうだったし、いつも本当に助かるよ」
「いえいえ、おれも犬たちに会えるのが嬉しいですし、何より大恩人の犬養さんのこと、おれ、大好きですから!」
「ありがとう。嬉しいよ」
てれてれと頭をかく犬養さんはかわいらしいが、告白したのに今日もさらりと流されてしまった。けれど、一度でダメなら二度言うまでだ。
「おれ、犬養さんが好きです! おれと付き合ってください!」
「気持ちは嬉しいけど、それはできないなあ」
苦笑する犬養さんに、ぐぬぬとおれは歯噛みする。
「あらまあ光太くん、またやってるの」
「昔っから変わらないねえ。『犬養さん、おれと結婚してください!』って言ってたものねえ」
くすくすと微笑ましそうに笑うスタッフさんたちに、目だけの抗議を無言で向ける。子どものときに出会うとこれだから厄介なのだ。何年経っても誰も彼もがいつまでもおれのことを子ども扱いしてくる。
おれはキッと犬養さんを見上げた。
「おれの何がダメなんですか?」
「ダメというかね、まず光太くんは、別に私と付き合いたいわけじゃないだろう?」
問われてちょっと考える。そう言われるとそうかもしれない。おれは犬養さんのようになりたいのであって、別に恋人になりたいわけではない。
「……そうですけど、でもおれ、犬養さんみたいなダンディな大人になりたいんです。この気持ちに嘘はありません! 好きです!」
「ありがとう。でもそれは尊敬の好きってやつだね。付き合いたい『好き』っていうのは、誰かに強烈に惹かれる気持ちのことだからね」
言葉は正しく使おうね。
犬養さんはまるきり子どもを諭すように言ってくる。
「分類はともかく、おれ、犬養さんが大好きなのに」
食い下がるおれを見て、呆れたように慧が横から口を出してくる。
「いい加減にしろ、光太。何度同じことやれば気が済むんだよ。引き際ってものを――ん?」
不意に慧が言葉を止めた。遅れておれや周りもスタッフも、外から響く物音に気づく。
「こら! 待て!」
何やら外が騒がしい。困り果てた人間の声に、興奮したような犬の鳴き声。そしておそらくは鍵束だろうものがガチャガチャ鳴る音が聞こえてくる。……と来れば、おそらくはシェルターの施錠をしている最中に、脱走した犬が出たのだろう。
考えるより前に、おれと慧は同時に外へと飛び出していた。
門をくぐるや否や、小さな犬が弾丸のように目の前を駆け抜けていく。
ビーグルの梅吉だ。別名・脱走犬。
花子と同じく、保護された時には衰弱死する寸前で、看取りのためにシェルターへと引き取られてきた……はずなのだが、何年経とうと天に召される気配はない。むしろ年々元気になっている。
フレンドリーなやつではあるが、隙あらば首輪抜けする問題犬でもあった。
「梅吉だな」
「ああ」
おれと慧の間に、細かい言葉は必要ない。目を合わせれば、何を考えているのかなんてだいたい分かる。
パッと二手に分かれたおれたちは、裏道に繋がる小道に陣取って、両脇から細い裏道を攻めていく。
ダダダッとすごい勢いで走ってきた梅吉は、おれの顔を見るなり急ブレーキをかけ、鋭く方角を反転した。
どうやら梅吉はこれを完全に遊びだと思っているらしい。尻尾はぶんぶんと勢いよく振られているし、表情に至ってはあからさまなイタズラ犬だ。
「こら! ノーリードの散歩はダメだぞ、梅吉!」
おれはわざと大袈裟に声を上げて追いかける。
追えば逃げるし、逃げれば追いたくなるのが犬というものだ。思った通り、おれから逃げるように走り出した太郎は、まっすぐ裏道を進んでいく。
つまりは慧が待ち構える、出口の方へ。
「おいで、梅吉」
慧が両腕を広げて体勢を低くする。慧を見つけた梅吉はきょろきょろとおれと慧を交互に見て、観念したように慧の腕に向かって飛び込んだ。
「なんでおれじゃなくて慧の方に行くんだよ!」
「そりゃ、人徳じゃないか」
おれと慧の間に人徳の差があってたまるか。
唇を尖らせるおれを尻目に、慧はワシワシと梅吉の首元をモフっている。たくさん走って満足したのか、太郎はへっへっと荒い息をつきながらもご機嫌にしっぽを振っていた。
「あれ? もう捕まえたのかい!」
ひょいと犬養さんたちが曲がり角から顔を出す。犬養さん含め、シェルターに常駐しているスタッフの人たちの手には、犬の気を引くためのおやつにボール、そして身を守るための分厚い手袋が抱えられていた。遅れて、榊のおばちゃんが捕獲用の檻を持ってやってくる。
「あら、檻はいらなかったみたいね。さすが光太くんたちは早いねえ」
「息ぴったりでびっくりしたよ。これがニコイチってやつかい」
「やあ、若い、若い。さすが高校生は瞬発力があるなあ」
スタッフさんたちはおれたちを褒めてねぎらってくれたけれど、犬養さんだけは心配そうな顔を崩さなかった。
「捕まえてくれたのはありがたいけど、何の準備もなしに追いかけてはいけないよ。普段は温厚な犬でも、興奮すると噛んでくることがあるからね。君たちが怪我をしてしまったら悲しいし、人を噛んでしまえば犬も里親のもとに行けなくなってしまう。まどろっこしく思えるかもしれないけど、次から気をつけようね」
「……すみません。大通りに出ちゃったら危ないと思って、つい」
しゅんと頭を下げるおれとは真逆に、慧は堂々と「梅吉以外だったら追いかけてません」と言い返した。
「ちゃんと手袋もつけていきましたし、大丈夫です」
その言葉に慧の腕を見ると、いつの間にやらペットグローブが嵌まっていた。どうやら飛び出す直前に持ち出してきていたらしい。
さすがは慧。用意周到なやつである。
「遊ぶならドッグランの中だけにしろよ、梅吉」
慧が梅吉に話しかけると、くぅんと梅吉は甘え鳴きをした。言葉を分かっているわけではないだろうが、嬉しそうに慧にじゃれつく様子を見ていると、だんだん頬が引きつってくる。
「こいつ、全然反省してねえな……」
ぼそりとおれが呟くと、くすくすとスタッフたちの間に朗らかな笑いが広がった。
その後、梅吉をシェルターに送り届けたおれたちは、並んでふたりで帰路につく。
「あー! 梅吉のせいでまたうやむやにされちまった」
「犬養さんのことか? いい加減諦めたらいいのに」
「軽く言うなよな。おれにとっては初恋なんだから!」
「恋じゃないって言われたばっかりだろ」
「そうだけど、なんでもいいだろ! 好きには違いないんだから」
日の落ちた道を歩いていると、コオロギなんだか鈴虫なんだかも分からない夏虫たちの声がどこからともなく聞こえてくる。やや季節外れに田んぼの上を飛ぶ蛍を、おれはじっと目で追いかけた。
「犬養さんには怒られちゃったけど、やっぱりああいう大人なところがたまらないんだよな」
さすがは山で迷子になったおれを、救急隊を引き連れて迎えにきてくれるだけのことはある。
おれがひとりでうんうん頷いていると、慧はつまらなさそうに口をへの字に曲げた。
「……そんなに好きか」
「当然だろ! だって犬養さんは、おれの命の恩人だぞ」
反射的に言い返したところで、はたとおれは立ち止まる。
「そういえばさ、五年前の事故の時、慧も一緒にいたんだよな? 落ちた時のこと、覚えてるか?」
おれが問いかけると、慧は嫌そうに顔を顰めた。
「なんだよその顔」
「なんでもいいだろ」
吐き捨てるように言って、慧はぷいと顔を背けた。
どうやら慧は、よほどあの事故の話をしたくないらしい。普段スマートな慧にしては珍しく、あからさまな話題の変え方をしてきた。
「進路希望のプリント、ちゃんとおばさんに渡しておけよ」
「分かってるよ」
「……犬養さん犬養さんって、毎日聞かされる方の身にもなれよな。光太と一緒にいるのは俺なのに」
聞き間違いかと思うほど小さな声で、慧はぽつりと呟いた。
気づけばおれたちは、おれの家の前に着いていた。門の前にぽつんと立って、慧はいつも通りに手を上げる。
「じゃあな。おやすみ、光太」
「ああ、うん。おやすみ、慧。また明日」
なんだったんだ。
釈然としないまま帰宅したおれは、気が進まないながらも、仕方がないので慧に釘を差された通り、進路調査の紙を母さんに渡した。
「三者面談⁉」
母さんが悲痛な声を上げる。
「光太! 日程調整のいる紙はちゃんと出しなさいって言ってるでしょう! これ、明日提出しなきゃって書いてあるよ!?」
くしゃくしゃになった紙を確認するなり顔を引きつらせた母親は、恐るべき瞬発力で怒りを顔に浮かべてそう言った。
こうなるから出したくなかったのだ。
「おれだってわざと出さなかったわけじゃねえし。慧に言われるまで忘れてたの!」
「堂々と言うことじゃないでしょう! 慧くんにはいっつも光太のお世話させちゃって、ほんと頭が上がらないわあ……。同い年なのに、光太とはえらい違い」
「お世話なんてされてねえもん。……おれ、先に風呂入ってくるから!」
それ以上嫌味を言われる前に、おれは風呂場に退散する。
そもそも、スマホがあるのにわざわざ紙で日程希望なんて取る山本先生が悪いのだ。心の中で担任に八つ当たりをしつつ、おれは熱いシャワーを頭から被る。
風呂場の鏡に映った傷跡を見るともなしに眺めつつ、ふんとおれは鼻を鳴らした。
(みんなして慧をおれの保護者だのなんだのって……!)
ニコイチとやらのレトロな響きでセット扱いされるならともかく、おれが一方的に慧に世話されているかのような言われ方は納得がいかない。
たしかに慧は見た目も中身も基本的にはイケメンではあるものの、みんなが思うほどあいつは大人じゃない。現に、おれがちょっとばかし犬養さんの話をしていたというだけで、やきもちを焼いて拗ねていたくらいだ。
そこまで考えたところで、はたとおれはシャンプーをする手を止めた。
(……ん? やきもち?)
そうだ。やきもちだ。
すっきりとして、おれはぽんと手を打った。
保護犬を長期間預かっていると、うっかりよその犬に気を取られたとき、その預かっている犬がやきもちを焼いて怒り出すことがたまにある。おれたち家族を好きになってくれたからこそ、犬はおれたちの関心がよそに向くことが嫌なのだ。
慧が見せた反応は、まるきりそれと同じに見えた。
(なるほどなあ。あいつ、おれに構ってほしかったのか)
慧も何か話したいことがあったのかもしれないし、単純におれが犬養さんばかりを褒めるものだから面白くなかったのかもしれない。
「ガキだなー、あいつ……」
じわじわと勝手に口角が上がっていく。
慧がおれの保護者みたいだと周りは言うが、とんでもない。たしかにおれにも抜けているところがあるにはあるが、実際のところ面倒くさいのはあいつの方だ。
(慧の言ってた見込みのない恋っていうのも、聞き出さないとな)
おれに隠しごとをするなんて許さない。
キュッと蛇口を捻って止めて、おれはいそいそと風呂場を出た。




