3.見込みのない恋ならずっとしてる
家に寄り、荷物を置いたら準備は万端。家の前で慧と合流して、おれたちは通い慣れた保護犬シェルター『いぬかいの小屋』へとまっすぐ向かう。
「こんにちはー!」
「こんにちは。あら、光太くん、慧くん。いらっしゃい」
にこやかに受付で出迎えてくれたのは、保護犬シェルターで働いている榊のおばちゃんだ。おっとりと辺りを見渡した榊のおばちゃんは、ややあってお目当ての人物が近くにいないことに気づいたのか、残念そうに眉尻を下げた。
「ごめんねえ、犬養さんたら、またドッグランの方に行ってるみたい。暇があるとすぐ犬たちのところに行っちゃうんだから。またスマホも置きっぱなしだし」
「届けてきますよ。おれたち今日は夕方の散歩当番なので、ドッグランから直で行きますね!」
「いつもありがとうね」
榊のおばちゃんに会釈をしつつ、おれと慧は勝手知ったるシェルターの中を歩いていく。
裏口から外に出て少し行くと、犬たちが自由に走れるドッグランが見えてきた。
ふかふかの芝生に、ところどころに作られた丘。飼い犬ならば毎日散歩に連れて行けるけれど、二十匹近くの犬が暮らすシェルターではそうもいかない。こうしたドッグランで駆け回ってもらうのは、犬たちの健康維持とストレス発散には欠かせないのだ。
ドッグランの中心には、ひとりのツナギ姿の男が立っていた。
クセの強い猫っ毛に、狐のように細い糸目。年はたしか今年で三十五になると言っていた。
このいかにも優しそうな男性こそ、保護犬シェルター『いぬかいの小屋』の所長・犬養和真さんだ。
大型犬をひょいと抱き上げられるくらいに鍛えられた体をオレンジ色のつなぎですっぽりと覆った犬養さんは、にこにこと微笑みながら犬たちと戯れている。動くたびにきらめく胸元のファスナーが目に眩しい。
おれたちが門に近づいていくと、いち早く気づいた犬たちがパッとこちらに顔を向ける。中でもおれたちと付き合いの長いゴールデンレトリバーの花子は、尻尾を振りながら門まで迎えに来てくれた。
「こんにちは、花子」
中に入るなりおれと慧の周りをぐるぐると回り出した花子の背中を、おれたちはふたり揃ってわしわしと撫で回す。
花子は『いぬかいの小屋』で飼われている犬だ。元は警察犬になる訓練を受けていたらしいが、難病を患って衰弱した状態でこのシェルターにやってきた。犬養さんは看取るつもりで飼うことにしたそうだが、その後めきめきと回復した花子は、五年経った今もこうして元気に生きている。
「光太くん、慧くん。もう学校は終わったのかい。早いねえ」
花子に続くように、犬養さんが門の方へとやってきた。
「こんにちは、犬養さん!」
「はい、こんにちは。ええと、今日は何をお願いするんだったかな」
犬養さんはごそごそとポケットを探り出す。多分、ボランティアの割り振りを書いたスマホを見ようとしたのだろう。しかし、残念ながらお探しのスマホはおれたちの手の中にある。
「今日は夕方の散歩当番に当たっています」
慧はさらりとそう告げて、「忘れてましたよ」とスマホを犬養さんに手渡した。
「ないと思ってたんだ。ありがとう」
恥ずかしそうに笑って、犬養さんはうんうんと頷いた。
「そうか、散歩当番か。もう散歩も任せられる年になったんだねえ。ふたりとも本当に大きくなったねえ」
「毎回言ってますよ、それ。もう高校に入学して三ヶ月も経ちました」
慧は呆れたように苦笑する。歳だけで見ればおれたちよりかなり年上のはずなのに、良くも悪くも犬養さんには威厳というか、近づきがたさというものがまったくない。
(そんなところも素敵だ……!)
知り合ったときからずっと、犬養さんはおれの憧れの人だ。
この人の穏やかな雰囲気に触れると、子どもも大人も、野犬も傷ついた犬も、いつの間にやら表情が緩んでしまう。おっとりしすぎた性格は時々心配になるが、とにかくすごい人なのだ。
「今日は小型犬の散歩からお願いできるかな」
おれと慧、そしてもう二人の散歩ボランティアを集めた犬養さんは、散歩に連れていく犬をそれぞれ丁寧に割り振っていく。
一回の散歩で連れていくのは、『いぬかいの小屋』ではひとり一匹。多頭散歩は人間側にも負担があるし、犬たちに何かあったときに対応が難しくなるから、兄弟犬などの例外を除いて、このシェルターではひとりのボランティアが複数の犬のリードを持つことは基本的にない。
「今日はここで初めてお散歩デビューする子がいるから、ちょっと気をつけて見てあげてくださいね」
モクレンちゃんといいます、と言いながら、犬養さんが一匹の小さな犬を抱き上げた。ぷるぷると震える小さなチワワは、シェルターに保護されたばかりなのか、落ち着かない様子で尻尾を丸めていた。
おれはミニチュアダックスフンドのマロン、慧は豆柴のモモの散歩担当になった。
初夏の風は爽やかでいい。気温の下がる日暮れ時は特に、歩くだけでも気分が上がる。
「……っ、こら、引っ張るな。モモ」
人懐っこくて散歩が大好きなモモは、高齢だった飼い主さんが亡くなったあと、引き取り手が見つからずにこのシェルターへとやってきた。走ることが好きらしく、ああして散歩のたびにリードを持つボランティアを引っ張っていく。
モモに連れられるがまま、小走りでひとり先へと行ってしまった慧を眺めていると、不意に近くのボランティアさんと目が合った。つぶらな瞳に、サイズのちょっと合っていない丸メガネが印象的なおじさんは、多分おれの父親と同年代くらいだろう。何度か散歩ボランティアで見かけたおぼえのある人だ。
「豆柴ちゃんは元気ですね」
はにかみながら話しかけてくれたおじさんの名前は、朝倉さんというらしい。へらりと笑って、おれは朝倉さんの連れるチワワのモクレンちゃんに目を向けた。
「モモは走るのが大好きですから。モクレンちゃんも、初めての散歩なのにちゃんと歩けてよかった」
「本当に。お散歩が好きなんですかね。うちの犬は散歩慣れするまで一ヶ月掛かったのに」
「犬、飼ってるんですか」
おれが尋ねると、朝倉さんは懐かしそうに目を細めた。寂しそうな、愛おしそうな、優しい笑い方だった。
「昔、一緒に住んでいました。一年前に病気で死んでしまって、今はもういないんですけどね。ちょうどモクレンちゃんと同じ、真っ白なチワワだったなあ……」
「また飼いたいですか?」
「そうですね。ご縁があったら、また一緒に暮らしたいですね。でも、なかなか踏ん切りがつかなくて」
てくてく歩く犬を見ながら、おれと朝倉さんはぽんぽん言葉をやりとりする。
年が離れていようが、共通する話題がなかろうが、ここに来ているのはほぼ間違いなく犬好きだ。犬のために何かをしたいものどうし、何はなくとも犬がすべてを繋いでくれる。
「春日井くんと秋月くんとは、ずっと話してみたいなあと思ってたんです。高校生で毎日のようにボランティア活動をしている子なんて、珍しいですから。春日井くんくらいの年代だと、部活やバイトをしている子の方が多いでしょう? それとも、ボランティア部の活動ですか?」
なるほどボランティア部という部活動にしてしまえば、周りに説明しやすくなるのか。ボランティアなんて、暇なときになんとなくでやっていいものだとおれは思うけど、やたらと高尚なもののように言われて返しに困ることが多いのだ。便利な言葉を頭の中に書き留めつつ、おれは「や、違います」と苦笑いを返した。
「本当にただのボランティアです。つーか、個人的な恩返しみたいなもんですよ」
「恩返し? 犬たちに?」
「犬にっていうか、犬養さんにというか、その両方ですかね」
うんちがしたくなったのか、モクレンちゃんがくるくると道端で回り出す。その儀式のような動きを見るともなしに見守りながら、おれは曖昧な記憶をたどって、五年前の話を朝倉さんにぽつぽつと語って聞かせた。
「小学五年生の時、おれ、裏山で崖から落ちたんです。あ、崖って言ってもそこまで大きい崖じゃないっすよ」
入ってはいけないと言われていた裏山を、当時のおれと慧はひそかに放課後の遊び場にしていた。崖際の危ない位置を攻めつつ隠れ鬼をするのが、当時のおれたちの間のブームだったのだ。多分、遊んでいる最中に足を踏み外して落ちたのだろう。落ちた拍子に頭を打ったせいか、あの日の記憶はとても曖昧だ。
「あちこち怪我しちゃって、自力じゃ動けなかったことだけは覚えてます。頭からも肩からも血がどくどく流れてましたし、もしかしておれ、ここでひとりで死ぬのかなあって思って、とにかく怖かったですよ」
落ちた経緯も落ちる最中のこともろくに覚えていない。ただ、おれの肩には岩で抉られたひどい傷跡が残っているから、ひどい落ち方をしたことだけはたしかだろう。
「そんな! 大丈夫だったんですか……?」
ごくりと朝倉さんが唾を飲み込む。
おれは今ここに元気に立っているのだから大丈夫だったに決まっているのだが、なかなかノリのいい人だ。
朝倉さんに合わせて真面目ぶった顔を作ったおれは、内緒話をするように声を落とした。
「それがですね、なんと救いの女神がいたんですよ」
「女神?」
「もうだめだと思ったその時、『ワン!』って声が聞こえたんです!」
その時おれを見つけてくれた犬こそ、当時はまだ保護犬だったゴールデンレトリバーの花子である。意識が朦朧とする中、ワンワン鳴いて駆けつけてくれた花子は、おれの頬を優しく舐めてくれた。
「花子がワンワン鳴いて、そのあと大人の足音がして、誰かがおれを助けに下まで降りてきてくれたんです。隣で手を握って、『もう大丈夫』って、ずっと優しく声を掛け続けてくれました」
救急車に乗せられたおれが眠りに落ちるまでずっと、その人は手を握ってくれていた。痛くて怖くてたまらなかったけれど、その声と手の感触のおかげで、泣きたいくらいにほっとしたのだ。
思い出すだけで胸がほっこりとあたたかくなる。花子がおれの恩犬なら、あのときおれを助けてくれた彼は、まさしくおれの恩人だった。
物理的にという意味以上に、精神的な恩人だ。痛くて怖くて、真っ暗闇で震えることしかできなかった、おれの心を救ってくれた。
ははあ、と朝倉さんは息を吐いた。
「なるほどねえ。それが犬養さんだったってことですか」
「はい! 多分!」
おれが元気いっぱいに頷くと、朝倉さんは不思議そうに首を傾げた。
「『多分』? どういうことですか?」
「意識がもうろうとしてたんで、顔も声も、ほとんど覚えてないんですよ。花子と一緒にいたってことは、まず間違いなく犬養さんだとは思うんですけど……。胸元にこう、キラッとするものがあったのは間違いないので」
「ああ、犬養さんのツナギ、ファスナーの持ち手がやたら大きいですもんね。ライトが当たれば目立ちそうだ」
納得したとばかりに朝倉さんは頷いた。
当時のおれは、退院したあとで親と一緒に『いぬかいの小屋』に礼を言いに行った。助けてくれてありがとうと頭を下げるおれたちに、「いつも光太くんが花子と遊んでくれていたおかげですよ」と犬養さんはにこやかに笑うばかりで、自分の善行を詳しく語ろうとはしなかった。
そういうわけで真偽のほどはたしかではないのだが、状況的におれの恩人は犬養さんに違いないと確信している。
「そういうわけで、ここに通ってるのはおれの恩返し半分、趣味半分なんです」
「なるほど。素敵なご縁ですね」
モクレンちゃんのうんちを袋に入れつつ、朝倉さんはにこりと微笑んだ。力強く頷き返して、おれはぐっと拳を握り込む。
「犬たちの役にも立てるし、いい運動にもなるし、良いこと尽くめですよね! ついでおれの頑張りに犬養さんが惚れてくれたら完璧です!」
「うんうん、そうですね。惚れてくれたら――えっ? 惚れる?」
かぱりと朝倉さんが口を開ける。振り返った拍子に、ぽろりとモクレンちゃんのうんちが落ちた。丸メガネが今にも落ちてしまいそうで、見ていて少し心配になる。
「大丈夫っすか?」
「あ、ああああ、うん、大丈夫!」
大丈夫と口では言っているが、見た感じどうも大丈夫そうではない。動揺しすぎてふらついている朝倉さんに、そこうんち落ちてるので気をつけて、と声を掛けようとしたその時、背後からぬっと慧が顔を出した。
「朝倉さんをびっくりさせるなよ、光太」
「「うわあああ!」」
びっくりさせているのはそっちの方だ。
前に行ったはずなのになんで後ろから来るのかと思えば、なんと慧とモモは、おれたちが話している間に裏道を一周してきたらしい。視線を落とせば、 へっへっと息を荒くしたモモが、つぶらな瞳でおれを見上げていた。
「朝倉さん。そこ、うんち落ちてるので気をつけてくださいね」
「あっ、ありがとう」
おれが言おうと思っていたことと一言一句違わぬ言葉をを朝倉さんに投げかけつつ、慧はやれやれとでも言いたげに片眉を上げる。
「惚れたのなんだのって、何でもかんでも喋るのはやめた方がいいって前にも言ったじゃないか」
「好きで何が悪いんだよ」
「色々悪い。見込みもないのにずっと片思いしてるのもどうかと思う。相手にだって迷惑だ」
突き放すような言い方に、おれは思わずむっと唇を尖らせる。
「慧に何が分かるんだよ。恋なんてしたことないくせに」
物心つくより前からそばにいるけれど、慧が誰かを好きだと言うところなんて聞いたこともないし、誰かを目で追いかけているところだって見たことがない。
そう思ったのに、慧は真面目な顔で「あるよ」と言った。
「見込みのない恋なら、ずっとしてる」
大人びた苦みを滲ませながら吐き捨てて、慧は束の間、もの言いたげにおれの顔をじっと見つめた。言い方自体も気になったけれど、それ以上におれは、慧の言葉に衝撃を受けた。
「……なんだよそれ。聞いてないぞ。いつからだ。相手は?」
「光太には関係ない」
胸が異様にモヤついた。幼馴染だからといって、たしかにお互い全部を伝える必要はない。分かっているけれど、おれが知らぬ間に慧がどこかの誰かに恋をして、しかもそれをちらりとも匂わせなかったのだと思うと、なんだかとても気に入らない。
無言で見つめ合うおれたちの間に、困りきった顔で朝倉さんが入ってきた。
「ま、まあまあ。とりあえず、散歩を終わらせましょう。まだまだシェルターで待っている子たちもいるでしょうから」
「あ……、すみません」
すっかり周りが見えなくなっていた。慌てておれは、足元に座る犬たちへと視線を戻す。
待ちくたびれてしまったらしい犬たちは、思い思いの体勢で地面に座り込み、後ろ足で首をかいていた。
顔を見合わせたおれと慧は、ひとつ頷き前を向く。
歩き始めた拍子に、慧のポケットから覗くロボット型のキーホルダーが、きらりと夕焼けを映して輝いていた。




