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2.『いぬかいの小屋』の犬養さん

 窓から吹き込む柔らかな風が、ぱたぱたと控えめにカーテンを揺らす。古びた教室に飛び込んできた風は、学生たちの髪をさらりと撫でては、プールの名残を感じる塩素の香りを広げていった。

 ド田舎にある県立高校こと穂波(ほなみ)高校、一年B組。

 五限目・現代文の授業が進む教室の中では、今まさに何人もの生徒がうつらうつらと舟をこいでいる最中だった。

 それもそのはず。なにしろこれは、午後一番の水泳の授業でほどよく疲れた直後の授業である。眠くならない方が難しい。


「――よし、じゃあ次の段落を音読してもらおうか。今日は七月二日だから、九番の……春日井(かすがい)!」


 おれの耳にそんな言葉が飛び込んできたのは、うっかりうたた寝をしている最中のことだった。

 誰かが焦ったようにおれの腕をシャーペンでつつく。


「……光太(こうた)。光太ってば。当てられてる」


 当てられてる……?

 何の話かと理解するより早く、からかうように山本先生が声を張り上げる。


「春日井。春日井(かすがい)光太(こうた)くーん。起きろー。昼寝の時間じゃないぞー」

「……はっ!」


 慌てて頭を上げると、くすくすと周りから忍び笑いが聞こえてきた。

 慌てて教科書をめくるおれに、隣に座る秋月(あきづき)(けい)が、「三十七、三段落目」と囁き声で教えてくれる。

 目だけで慧に感謝しつつ、おれは読みにくい文をえっちらおっちら読み上げる。


「……『一旦いいそびれた私は、また(むこ)うから働き掛けられる時機を待つより(ほか)に仕方がなかったのです』」


 今やっているのは夏目漱石の『こころ』だが、何やら幼なじみの恋愛相談を受けたら想い人が同じだったという話らしい。腹を割って話せばいいだけの話なのに、たったそれだけのことの何がそんなにも難しいというのだろう。釈然としない気持ちで、おれは担当の部分を読み上げた。

 おれが音読を終えると、山本先生は満足そうに頷いた。解説を始める山本先生の声に紛れるように、ぽそりと苦笑まじりの声が隣から聞こえてくる。


「バカだなあ、光太」

「しょうがないだろ!」


 いつでもそつのない幼馴染をじとりと横目で睨みつつ、おれは恥ずかしさをごまかすように、黒板に書かれた単語を無駄に丁寧にノートへと書き写していった。



 

 ちょっとしたやらかしこそあったものの、無事に授業が終わったあとは、待ちに待った放課後だ。

 うちの高校は自由の校風が売りということもあって、課外活動にはかなり力を入れている。

 というより、それくらいしかやることがないのだ。

 都会ならば塾にバイト、はたまた買い食いと、色々な選択肢があるのだろうが、ここではそんなものは夢のまた夢。新しいドラッグストアひとつやってくるだけでも町中が喜ぶ田舎町では、高校生の娯楽といえば部活か趣味か、せいぜいが友達の家でゲームをするくらいだ。

 いそいそと荷物をまとめていると、前の席に座っていた女子ふたりが、くるりと振り返って話しかけてきた。


「ずいぶん気持ちよさそうに寝てたね、春日井」

「本当だよぉ。春日井くんたら、後ろですうすう寝息立てて寝てるんだもん。うっかりあたしも寝ちゃいそうだった~」


 私服校だというのになぜか制服風な服を着ている中野(なかの)(なぎさ)坂上(さかがみ)咲菜(さな)は、片や黒髪ロングのクール系、片や茶髪パーマのふわふわ系と、見た目は正反対な二人組だ。聞けばどこぞに中野坂上という駅があるらしく、お互いの苗字がきっかけで仲良くなったらしい。

 授業中のやらかしを笑うふたりに、おれはムッと唇を尖らせる。


「あれはしょうがいないだろ? プールのあとに山本先生の声なんて子守唄みたいなもんだって」

「まあね~。あたし、苗字が『さ』行で良かったよぉ。当てられてたらヤバかった~」


 けらけらと笑いながら、ちらりと坂上はおれの脇へと視線を送る。隣では、おれの幼馴染こと慧が帰り支度を整えていた。

 柔らかそうな黒髪に、すっと通った鼻筋。クラスメイトより頭ひとつ高い身長に、均整の取れた体格はもちろんのこと、つり目がちながら澄んだ瞳。年を重ねるごとに増すそのイケメンっぷりといったら、幼馴染のおれですら惚れ惚れする。

 毎日カーゴパンツにシンプルなシャツを合わせているだけだというのに、どれだけ適当な服だろうが、慧が着ると様になるのだから不思議なものだ。こいつが愛用しているキーホルダーは謎のロボットのゆるキャラだというのに、それさえ不思議とおしゃれに見える。

 童顔の上にどこもかしこも平々凡々なおれでは、似たような格好をしたところで小学生と間違われるのが関の山だろう。世の中というものは本当に不公平だ。


「今日もふたりでボランティアに行くの?」


 中野がちらりと慧を見る。おれをだしにして慧に話しかけようとしているのがバレバレだ。


「保護犬ボランティア……だっけ? 春日井たち、四月からずっと行ってるよね。大変じゃない?」

「そうでもない。保護犬シェルター、おれたちの家のすぐそばにあるし」

「ふたりはご近所さんだもんねぇ」


 にやにやしながら坂上が口を挟んできた。同じ中学だったせいか、坂上は時々話した覚えのないことまで知っている。


「中学の時もずーっと一緒に行ってたもんねぇ。仲良しだよね~」

「まあ、元々親がやってたから、その流れだよ」


 昔からおれの親は、保健所から処分寸前の捨て犬を一時的に引き出して里親を探す『預かりボランティア』をやっていた。物心ついたときには、家で入れ替わり立ち替わり知らぬ犬が一緒に暮らしているのが当たり前だったし、二軒隣の家で暮らす慧もまた、おれの家へ遊びにくるうちに、自然と犬と触れ合うようになっていた。

 元々そうやって親が保護犬ボランティア活動をしていたものだから、その繋がりで、おれたちは当たり前のように保護犬シェルターに通うようになった。

 散歩にシャンプー、ブラシにエサやり。もちろん未成年の身では制限も多いけれど、大好きな犬のためにしてあげられることはたくさんある。

 保護犬シェルターに通うのは、ボランティアというより、もはや生活の一環だ。おれにとって何より熱い課外活動と言ってもいい。


(それに――)


 おれはちらりと自分の腕に視線を落とす。Tシャツで隠された肩の近くには、幼いころについた深い傷跡が、今も消えないまま残っている。

――大丈夫。もう大丈夫だから

 記憶の中に残る優しい声を思い出し、ふ、と息をつく。

 おれにとって保護シェルターでのボランティア活動は、命の恩人への下心と感謝を込めた、せめてもの()()()でもあるのだ。


「中学の時は大人の手伝いしかさせてもらえなかったけど、高校に入ってからは犬の世話も任せてもらえるようになったから、楽しいんだよ。最近は犬の散歩も任せてもらえるようになったし。――な、慧!」


 ぐいと慧の肩を掴んで引き寄せる。苦笑しながらも、慧は「そうだな」と穏やかに笑ってくれた。


「休みの日も参加できるようになったし、やりがいがある」

「だよな!」


 うんうん頷くおれたちを、中野と坂上は呆気にとられたように見つめてくる。


「朝も一緒に来て、昼も一緒で、放課後もずっと一緒なのに、この上休みの日まで一緒にいるの……? べったりすぎない?」

「中学の時からこの二人、ずっとこうなんだよぉ。距離感おかしいよね~?」


 ひそひそ囁く女子たちをよそに、慧は手慣れた様子でおれの机を覗くと、くしゃくしゃになったプリントを取り出し、苦笑した。


「……今日ふたつめのやらかしだ、光太。ちゃんと見せないと、おばさんたちがまた怒るぞ」


 進路希望調査の紙だ。そろそろ文理希望を取ると山本先生が言っていた。

 律儀にしわを伸ばしてよこされたそれを、おれは決まり悪く慧から受け取る。


「やべー。忘れてた……。いつのだろ」


 忘れたままでいたかった。しぶしぶと進路希望調査の紙をしまっていると、中野が面白がるように聞いてくる。


「それ、文理調査の紙だよね。文系と理系、もう決めた?」


 げ、と内心でおれは舌打ちした。正直なところ、あんまり聞かれたくない質問だ。それが決まっているなら、こんなところに進路調査の紙など押し込みはしない。


「あたしは理系だよ~! 理学療法士になりたいんだぁ」


 はいはい、と手を上げ、真っ先に坂上が答える。聞き覚えのない職業に、おれは眉をぎゅっと寄せた。


「理学療法士って?」

「リハビリの専門家。おばあちゃんが手術のあとにお世話になったんだけどね、かっこいいなあって思ったんだぁ」


 照れくさそうに、けれどはっきりと坂上は答えた。

 こんなにふわふわして見える坂上でさえ、なりたい職業がしっかりと決まっているのかと思うと、失礼な話、おれはかなりショックを受けた。


「私も理系」


 嬉しそうに中野が続く。


「まだどこの大学とか学部とか、そういうのは全然決めてないんだけど、医療系に行きたいなって」

「お揃いだねぇ、渚ちゃん」


 来年もよろしく、と気の早いことを言いながら、手を合わせて女子二人は喜んだ。


「春日井たちは?」


 当然のように水を向けられ、おれはぐっと言葉に詰まる。


「えー……、数学苦手だし、文系かな……?」

「ダメの代表みたいな決め方するよねぇ。得意苦手じゃなくて将来やりたいことで決めなよ~って、山ちゃん先生も言ってたじゃん」

「いいだろ、別に。……慧は? もう決まってるのか?」


 縋るように幼馴染を見上げると、慧はちらりとおれを見たあとで、ほんのりと口角を上げた。


「秘密」


 妙に色っぽい言い方だ。きゃあ、とはしゃぐ女子たちの横で、おれはひくりと頬を引きつらせた。


「なんだ秘密って」

「俺が言ったら光太もつられて同じにしそうだから。光太が決めたら教えてやるよ」


 否定はできない。が、正直に認めるのも癪だった。

 じとりと睨むおれをよそに、慧はひょいとおれの机を顎で指す。


「光太、まだ机の中にプリント入ってる」

「え? 何入れてたっけ……ああ!」


 ごそごそと机の奥を探ると、二つ折りになった紙が出てきた。保護犬ボランティアの募集のちらしだ。


「なになに、『いぬかいの小屋』?」


 ポップなフォントで書かれたそれを、中野が思わずといったように読み上げる。おれは胸を張って、ここぞとばかりに宣伝した。


「そう。おれたちがいつも行ってる保護犬シェルター。興味があったら、中野と坂上も来てみてよ。人手はあればあるほど助かるって犬養(いぬかい)さんも言ってたし」

「誰、犬養さんって」

「保護犬シェルターの所長さん。()()()()()()()()()()!」


 好きな人は誰かと言われたら、おれは真っ先に犬養さんの名を挙げる。ボランティアに来てくれる人が増えれば、きっと犬養さんも喜ぶだろう。


(「光太くんは頼りになるね」なんて言ってくれたりして……!)


 うっかり幸せな妄想に耽りそうになったその時、慧が拗ねたように「光太」と声を掛けてきた。


「犬養さんの話ばっかりしてないで、そろそろ行こう。電車が来る」

「やべっ、もうそんな時間?」


 慌てておれは荷物を背負う。

 田舎町では、電車は一時間に一本しか来ないのだ。この電車を逃すわけにはいかない。


「幼馴染っていうか、秋月くんは春日井くんの保護者ポジだよね~」


 聞き捨てならない言葉が聞こえてきたが、あいにくこれ以上構っている余裕はない。


「じゃあ、おれたち帰るから。また明日!」


 中野と坂上に背を向けて、おれは慧と並び立って教室を飛び出した。

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