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11.一番大好きな友だち

 あれよあれよという間に八月が過ぎていく。

 八月に入ってから一度だけ慧にメッセージを送ってみたが、帰ってきたのは「盆過ぎには帰る」の一言だけだった。腹が立ったので、それ以降は連絡していない。

 盆過ぎってなんだ。夏休み最終日に帰ってきたって盆過ぎだろうが。範囲が広すぎる。

 暇があると慧のことを考えてしまって落ち着かないので、おれはヤケクソのように、ますます勉強へのめり込んだ。高校受験のときでさえこんなに真面目には勉強していなかったと思う。それくらい、何かをしていないと頭が爆発してしまいそうだったのだ。

 嫌な予感はしていたけれど、結局慧は帰ってきたのは、夏休みが終わる直前のことだった。

 本当はもっと前に帰ってきていて、おれが教えてもらえなかっただけかもしれないが、「おれが慧に会えた日」を「慧が帰ってきた日」とするなら、それは夏休み最後の週末のことだった。

 ボランティアを終えて帰る途中で、おれはたまたま慧に出くわしたのだ。


「……慧!」

「げ」


 ――げって言いやがったこいつ!

 肩を掴んで揺さぶりたい気持ちを堪えつつ、即座に慧に詰め寄ったおれは、流れで押し切り、慧の部屋へと上がり込むことに成功した。慧は最後まで部屋が散らかってるだの何だの言ってゴネていたが、慧の母さんを味方につけたおれの粘り勝ちである。

 昔遊びに来ていた時のまま、慧の部屋は変わっていなかった。

 きれいに整えられた勉強机に、参考書と動物漫画が並ぶ本棚。青を基調として整えられた部屋のすみっこには、ゲーム機とゲームモニターが片付けられている。これで散らかっていると言われたらおれは立つ瀬がない。


「慧の部屋、久しぶりだな」

「そうだったかな」

「そうだよ。高校に入ってから、全然入れてくれねえじゃん」

「高校でもボランティアでも会うんだから、わざわざ部屋で遊ばなくたって別にいいだろ」


 慧の口調はそっけない。夏休みも結局一度もおれたちは一緒に遊んでいないというのに、あんまりだ。

 やっぱり慧はおれと会いたくなかったから、予備校を口実にして都会へ逃げていたのだろうか。

 湧き上がってきた怒りと不安をぐっと飲み込み、おれはいそいそと長座布団に座り込みながら、できるだけいつも通りに振る舞った。


「夏期講習、どうだった?」

「ああ、母さんに聞いたのか」


 ――聞いたのか、だって?

 ぐらぐらと煮詰まった熱い感情が、ぐうっと喉元までせり上がってきそうになる。

 おれの気も知らず、慧はぴよりんという名のひよこの菓子を土産代わりに寄越した後で、ほくほくと予備校のテキストを見せてくれた。


「悪くなかったよ。内容はともかく、まわりのモチベが高いから良い刺激になった。ああいう場所が近くにあるのは羨ましいな」

「ふうん? よかったじゃん。おれもすげえ頑張ったから、休み明けのテスト、どっちが勝つか楽しみだな!」


 負かしてやる。

 気合いを込めて指を突きつけると、慧はきょとんとおれを見返してきた。


「頑張ったって、何を?」

「勉強に決まってるだろ! どこかの誰かがひとりで抜け駆けするから、目にもの見せてやろうと思って頑張ったんだよ」

「抜け駆けも何もないだろう。勉強なんて、やればやるだけ成果が出るんだから」


 ハッと慧は鼻で笑う。ムカつく表情だったけれど、逆におれはほっとした。いくらなんでも、好きなやつにこんな態度は取らないはずだ。

 会わなかった間の隙間を埋めるようにひと通り喋り倒したおれたちは、慧の部屋でごろごろしながら、一緒にゲームをした。それに飽きたら、映画を見た。

 映画館なんて洒落たものは、隣の隣のそのまた隣の市にしか存在しない。おれたちが映画を見るといったら、ネット動画配信サービス『ネトシネマ』一択だ。

 ポテチの袋を開いて、ふたりで並んであぐらをかく。

 目の前のゲーム用モニターでは、互いの素性に気づかないまま夫婦になってしまった暗殺者ふたりが、配偶者こそが己の敵と知って、険しい顔でドンパチを繰り広げている。妙にレトロな画質だなあと思えば、どうやら二十年以上前の洋画らしかった。


「なあ、なんでこれよ?」

「アクションが見たいって光太が選んだんじゃないか」

「ラブコメが見たいなんて言ってない」

「自分で選んだんだろ。文句言うな」


 とはいえ、分かりやすくて展開の早い映画は嫌いじゃない。はじめはぐちぐちとツッコミを入れていたおれたちも、ストーリーが進むにつれてじっと画面に見入るようになっていた。

【彼のことを愛してる?】

【まさか。愛してなんていないわ】

 友人の前ではそう言っていたくせに、家中を破壊して殺し合いをした主人公夫妻は、今は画面の向こう側で熱烈なキスを交わしていた。

 なだれ込むようにベッドシーンに移るものだから、おれはなんとなく気まずくなる。隣で慧がポテチをかじる音が、妙に大きく聞こえる気がした。

 意味もなく前髪を直しながら、おれはモニターの中に響くリップ音に被せるように口を開く。


「さっき、愛してなんかいないって言い張ってなかったか」

「自分に言い聞かせてたんだよ。わざわざ否定しないとダメな時点で、本当の気持ちなんて透けて見えてる」

「ふーん……」


 間が持たなくなって、おれはポテチの袋に手を伸ばした。

 とん、と指先が何かにぶつかる。

 横を見たら、慧もまったく同じ体勢をしていた。


 しばし見つめ合ったおれたちは、同時にじっと手元へ視線を落とす。

 パーティーサイズのポテチの袋は、とっくにからっぽになっていた。

 ふ、と小さな笑い声が響く。先に笑ったのはどっちだったのかなんて分からない。カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、気づけばおれたちは昔に戻ったように、けらけらと互いを指さし笑い転げていた。


「食べすぎだろ、光太! どれだけ腹減ってるんだよ」

「パリパリずっと食ってたのは慧だろ! エロいシーン入った途端、あからさまに照れて目ぇ逸らしてたろ。見たぞ!」

「照れてたのはどっちだよ。チラ見するくらいならガン見すればいいだろ。ずーっとそわそわしちゃってさ、こっちが恥ずかしくなるよ」

「何だと!」


 肩を小突く。小突き返される。

 力を強めてもう一度小突くと、少しだけ慧の体が傾いだ。やり返すように寄越された強めの拳を、ふんぬと腹筋に力をこめて耐えしのぐ。

 意味もない肩パンの応酬だ。先に倒れた方が負けだと今決まった。

 にやりと笑ったおれは、慧が拳を引いたタイミングで、がばりと全身を使って慧に飛びつく。


「わっ、バカ! 卑怯者!」

「バカはそっちだ! 勝ったやつが勝ちなんだよ!」


 もみくちゃになりながら、おれたちは床の上で取っ組み合う。

 最終的にマウントを取ったのは慧の方だった。服の背中側を掴まれてしまったのが敗因だ。慧の方が少しだけ背が高い分、手足も長いのだ。


「……っは、俺の勝ち。残念だったな、光太」


 慧がガキみたいな顔で笑う。なんだか昔に戻ったみたいで、懐かしくて、楽しくて、気づけばおれまで笑っていた。

 ほらな、と思う。

 やっぱりおれの勘違いだった。休み前の風呂での出来事なんて、全部おれの気にしすぎだったのだ。

 慧がおれのことを好きだなんて、そんなわけがなかった。おれたちは今まで通りだ。何も変わりやしない。

 会えなかった間の寂しさを埋めるように、おれは上に乗っかる慧の体を引き寄せた。

 火照った体がぴたりと重なる。

 慧の柔らかな髪がおれの頬をさらりと撫でる。慧の制汗剤と思わしき、シトラスの香りが香ってくる。

 見ていない間に映画はクライマックスを迎えたのか、モニターからは感動的なオーケストラの曲が流れ出していた。


「……光太。暑い」

「いいじゃんか。ちょっとだけ」


 身を起こそうとする慧を力づくで繋ぎ止めつつ、おれは内緒話をするように、そっと口を開いた。


「あのな、慧。おれさ、五年前に崖から落ちた時のこと、少しだけ思い出したんだ」

「……何だって?」


 ぎくりと慧の体が強張った。けれどその時のおれはこれから言おうとしていることに気を取られていて、ちっともそれに気づけなかった。

 ――もうひとりの恩人くんにも、私たちにしてくれたみたいに、ぜひ『好き』って伝えるといいと思うよ。

 おれの頭にあったのは、少し前に犬養さんがくれたアドバイスだった。

 特別な『好き』でないのなら、たかだか二音を口にする程度、何でもない。

 慧がおれに隠れて夏期講習に行ったことは気に入らなかったけれど、久しぶりに遊べて気分がすっきりしていた。またこんな風につれなくされたらたまらないし、犬養さんの言う通り、たまにはそういうことを言葉にするのもアリかなあと思ったのだ。


「今まですっかり忘れててごめんな。あの時さ、――もがっ」


 犬養さんを呼んできてくれたのは慧だったんだろう?

 そう言おうとした瞬間、慧はこともあろうにおれの口を手で覆ってしまった。


「むー! ぅ……?」


 いきなり何をするのだと文句を言おうとして、直後におれは目を丸くする。


「……待ってくれ。嫌だ。聞きたくない」


 慧はまたあの顔をしていた。夏休み直前、風呂場で真っ赤になっていた時と同じ、何かを怖がっているような顔だ。叱られる前のガキみたいな強張った顔をして、慧はぎゅうぎゅうとおれの口を封じてきた。


「むうぅっ!」

「何も言わないでくれ、光太。忘れたことにしておいてくれ。大丈夫だから。分かってる」


 おれは何も言っていないではないか。むーむー呻くことしかできないと言うのに、慧はいったい何を分かったと言うのだ。


「むー!」

「俺、ちゃんとうまくできるから。五年間、何も変わらなかっただろ? この間は少し失敗したけど……、うまくやるから」


 何をうまくやると言うのだ。おれが首を傾げると、慧はこほんと咳ばらいをして、じっとおれを見下ろしてきた。


「光太は俺の一番大好きな()()()だよ。だから、何も言わなくて大丈夫。ちゃんと分かってるから」


 言葉とは裏腹に、慧は切なげに目を細めて、指でおれの頬を丁寧に撫でた。

 物欲しげな仕草に、どくりと心臓が音を立てて震える。

 慧がわずかに顔を傾ける。ぱさりと参考書が落ちる音がどこかで聞こえた。

 鼻先と鼻先が一瞬だけ触れ合い、すぐに離れる。じゃれつくような仕草だったけれど、焦点が合わないほど間近で見えた慧の瞳には、ぞくりとするほどの熱がこもっていた。


 くすぐったい感触だけを残して、慧はゆっくりと身を起こす。薄暗い部屋は静かで、まるで夢の中にいるように現実味がなかった。のろのろと膝を立てて座ったおれは、鼻頭を人差し指でそろりと撫でる。


「……なあ、今の、何」


 それまで何を言おうとしたのかさえも、頭から抜けてしまっていた。


「何って……鼻チュー。この間のお返しだよ。犬たちはよくやるんだろ」


 慧はおれの方を見ないまま、ぎこちなく答えた。

 防災無線が午後五時を知らせるドヴォルザークの『帰路』を流す。閉め切ったカーテンの合間から、夕焼けの赤い光が差し込んでくる。


「――光太くーん、今日はご飯食べてくー?」


 防災無線が流す音の最後の一音が町中にこだまする中、一階から慧の母さんの声が聞こえた。廊下に顔を出した慧は、おれに聞くことすらせず、下に向かって声を張り上げる。


「光太、家帰って食べるってー!」

「はーい、分かったー!」


 そうだ。夕飯時だ。帰らないと。空回りする頭で考えながら、おれはうろうろと視線を動かす。

 ふと、落ちて開いた参考書のページが目に入った。

――ただ何事もいえなかったのです。またいう気にもならなかったのです。

 『こころ』だ。おれが授業中に音読させられた場所の直前の、先生が幼なじみのKから恋愛相談を受けている場面。

 授業で読んだとき、この先生というやつはなんて臆病で弱腰なんだとイラついたけれど、今は少しだけ気持ちが分かるような気がした。

 思っていることを正直に言った方がいいも何もあるものか。思いもかけないことが起こると、人間本当に何も言葉が出てこなくなるのだ。


「……帰る」

「うん。また明日な、光太」

「また明日……」


 言葉少なに慧の家を出たおれは、自宅に戻り、顔を伏せたまま自分の部屋へと早足で向かう。


「おかえり、光太。……あらやだ。顔、赤くない? 熱でもあるの?」


 途中、すれ違った母さんから訝しげに声を掛けられた。でもおれは話をするだけの余裕もなくて、返事の代わりに首を横に振るだけで精一杯だった。

 自室に飛び込んで、扉を閉める。そのままずるずると扉に背を押し付けながら、おれは膝を抱えて座り込んだ。


「……一番大好きな友だち、か」


 慧に言われた言葉を口の中で繰り返す。おれだって、同じことをつい数週間前、慧に言ったばかりだ。今日だって言おうとした。

 それなのに、ついさっき、おれは慧の口から出た『友だち』という言葉に、締め出しを喰らったようなショックを受けていた。

 頬を撫でると、まだそこに慧の指の感触が残っている気がする。鼻先が触れ合った瞬間の、心臓が口から飛び出しそうになるような甘い疼きが忘れられない。

 あの時、慧にキスされるのかと思った。

 おれはそれを嫌だと感じるどころか、待っていた。鼻ではなく唇を合わせることを、おれはあの瞬間に期待したのだ。


「うああ!」


 落ち着け。おれはそういう意味で慧が好きなわけじゃなかったはずだ。

 自分に言い聞かせた直後に、『わざわざ否定しないとダメな時点で本当の気持ちなんて透けて見えてる』のだと、得意げに映画のセリフを解説していた慧の声を思い出し、おれは頭を抱えて転がった。

 ひと通りのたうち回った後で、おれはぜえぜえと肩で息をしながら起き上がる。

 ……事ここに至っては仕方がない。

 認めよう。

 慧はおれの一番大事な友だちだけれど、おれは多分、そういう意味でも慧に惹かれている。

 人生で慧以上にきれいな顔をしたやつなんて会ったこともないし、慧以上に気の合うやつにも会ったことがない。ちょっとつれなくされただけで一日中あいつのことを考えてしまう程度には、おれは慧のことが大好きだ。今日だって、久しぶりに会えて嬉しかったものだから、色々と舞い上がっていた自覚はある。

 だからと言って、おれは慧とどうなりたいんだろう。


「……勉強しよう!」


 おれはすべての思考を放棄した。

 こうも悩む羽目になっているのは、そもそもすべて慧のせいだ。ならばとにかく、テストで慧に勝たなくては始まらない。

 おれはペンを取り、そうやって無理やり自分を納得させた。

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