10.生きるも死ぬも、一緒にしたい
慧への怒りを原動力に、おれは来る日も来る日も、ひとり勉強に明け暮れた。
予備校の夏期講習とやらがどんなものかは知らないが、受験対策と銘打つ以上、根っこはすべて教科書にある。夏休みの課題をとっとと片付けたおれは、とりあえず苦手な数学をなんとかするため、ひたすら教科書と問題集を行き来した。
(慧の馬鹿野郎! 休み明けにびっくりさせてやる)
おれは飛び抜けて成績がいい方ではないが、別に勉強自体は嫌いじゃない。
こんなものは頭の筋トレだ。やり方さえ間違えなければ、やればやるだけ成果が出る。いるものなんか気合いと忍耐、そして習慣だけである。そう慧が言っていた。
とはいえ、ずっとやっていると頭が焦げそうになる。
『いぬかいの小屋』の犬たちとの触れ合いは、おれの数少ない癒しだった。
刈られたばかりの芝が、日差しのもとでキラキラ光る。風に揺られる花子の毛並みは小麦畑みたいにきれいで、ふさっ、ふさっと揺れる尻尾を見ていると、それだけで自然と疲れが吹っ飛んでいく気がした。
花子の尻尾は、日に透かすとまるで天使の羽みたいだ。思わず慧にも見せたくなって、なんでここにいないのかと悔しくなった。
「花子ー! 聞いてよ。おれ、すげえ頑張ってるんだよ!」
泣きつくように、花子の体にひしと抱きつく。すると花子は、おれがじゃれているとでも思ったのか、レトリバー特有の大きな垂れ耳をパタパタと揺らしながら、熱心に頬を舐めてくれた。
「わはっ、チューはやめて、チューは」
花子に癒しをもらっていると、遠くでドッグランの芝刈りをしていた犬養さんが、タオルで汗を拭いながら近づいてきた。今日の犬養さんは、トレードマークのツナギはそのまま、麦わら帽子にタオルを巻いた全身農家スタイルだ。
「やあ、こんにちは。光太くん。今日は暑いねえ」
「お疲れ様です、犬養さん。芝の手入れですか? おれも手伝いますよ!」
「ありがとう。でももう終わりかけだから、よければシェルターの掃除の方を手伝ってもらってもいいかな?」
でもその前にちょっと休憩、と言って、犬養さんは日陰に腰を下ろす。
おれが隣に座ると、犬養さんは小分けになったせんべいを分けてくれた。ばあちゃんの家に行くと出てくる、白い砂糖蜜のかかったせんべいだ。相変わらず犬養さんは菓子のチョイスが渋い。
「モクレンちゃんの具合、どうですか」
バリ、とせんべいをかじりつつ、おれは犬養さんに聞いてみた。
三者面談があった日、動物病院に運ばれたモクレンちゃんは、てんかんの疑いで一通りの検査を受けたと聞いた。診断がはっきりとつくまではシェルターで経過観察中ということだったが、進展はあっただろうか。
「元気だよ。散歩も少しずつ怖がらずにできるようになってきたみたいだ」
でも、と犬養さんはしょんぼり眉尻を下げる。
「あの後も一度、大きなけいれんが起きてしまってね。体自体には異常がないから、特発性てんかんの可能性が高いだろうって先生は言っていたよ」
すぐに命に関わるものでなかったのは良かったけれど、今後もこの頻度で発作が続くなら、モクレンちゃんは毎日薬を飲まないといけないらしい。
持病を持っている子は、そうでない子と比べると里親が見つかりにくい。モクレンちゃんの今後を思うと、おれも犬養さんも難しい顔をせざるを得なかった。
「……優しい里親さんを見つけてあげたいね」
「おれ、モクレンちゃんの写真、もっと撮ってホームページに上げておきますよ。あんなにかわいい良い子ですもん。きっとすぐ引き取り先が見つかりますって」
頷き合って、おれは二枚目のせんべいに口をつける。隣でボタボタとよだれを垂らしている花子の視線が痛かったが、努めて見ないフリをした。
「慧くんは名古屋に行ってるんだよね。光太くんは今年はどこも行かないのかい」
「盆はじいちゃんばあちゃんの家に行きますよ。でも、それだけですね。今年の夏はおれ、勉強するって決めてるんで!」
狙うは休み明けの課題テストだ。慧に目に物見せてくれる。
「燃えてるねえ」
犬養さんは微笑ましそうに目を細め、タオルで首元の汗を拭った。
動いた拍子に、犬養さんのツナギの、やたらとデカいファスナーの金具がきらりと煌めく。胸元で眩しく輝くそれを見た瞬間、おれは熱を出しているときに見た夢を、ふと思い出した。
「あの……ちょっと変なこと、聞いてもいいですか」
「なんだい?」
犬養さんが首を傾げる。犬養さんの真似をするように、花子まで一緒になって首を傾げるものだから、真面目な話をしたいのに、うっかり吹き出しそうになる。
ごほんと咳払いをして、おれは表情を引き締めた。
「最近、昔の夢をよく見るんです」
裏山で慧と遊んでいたころの夢だ。おれは慧とじゃれ合っていたはずなのに、いつも気づけば崖下で痛みに呻いて、意識をもうろうとさせている。痛みも恐怖もあまりに生々しいから、夢というより多分、おれが失くした記憶の一部なのだろうな、とは思っている。
「五年前、おれは裏山で崖から落ちて、大怪我をしました。その時って、たまたま近くを散歩していた犬養さんと花子が、崖下に落ちていたおれを見つけて、救急車を呼んでくれた……んですよね?」
少し前までおれは、他人から聞かされたその経緯を、疑いなく信じていた。
それが間違っているとは思っていない。でも、全部でもないのではないかと思うようになったのは、つい最近のことだ。
三者面談の日、慧の肩にあった古い傷跡を見た時から、まるで何かを思い出せとでもいうように、何度も何度も昔の夢を見る。
慧はあの時、おれと一緒にいたはずだ。直前に何があったのかのまでは思い出せないけれど、一緒に崖から落ちたはずだ。おれが知りたいのは、そのあとのことだ。
でも、慧は五年前のことを話したがらない。慧が教えてくれないなら、ほかに話を聞けるのなんて、犬養さんだけだった。
「もう大丈夫だよって、おれの手を握って声を掛けてくれたのは、犬養さんでしたよね?」
おれが尋ねると、犬養さんは分かりやすく困った顔をした。
「……意識のない光太くんを見つけたのは花子で、救急車を呼んだのは私だね」
含みのある言い方だ。おれの質問に対して、イエスともノーとも答えていない。
犬養さんは何かを隠している。
「じゃあ、おれにずっと声を掛けていてくれたのは?」
問いを重ねると、犬養さんはあからさまに目を逸らした。
犬養さんは優しい人だ。誰かに強く頼まれたら断らないし、口止めをされたら周りの人には漏らなさい。おれの尊敬する人がどういう人かは、よく知っている。
「もしかしてなんですけど、『言わないで』って、誰かに言われてますか」
「ううっ」
犬養さんは罪悪感たっぷりの顔をして、大袈裟に胸を押さえた。その反応だけで、おれには十分だった。
――慧だ。
何を隠そうとしているのか知らないが、犬養さんに何かの口裏合わせをしてもらえるよう、あいつが頼んだに違いない。
「言えることだけでいいですから、あの時のこと、教えてくれませんか? 思い出せそうで思い出せなくて、モヤモヤするんです」
「うう、そうだよねえ……。でも、私が知っていることなんて、本当に少しだけだよ」
「それでもいいですから」
お願いします、と懇願すると、犬養さんは根負けしたように、言葉を選びながら話してくれた。
「花子はね、遠くにある匂いを目指して何かを探すということはできないんだ。でも、短い距離の匂いを辿ることはできる。たとえば一メートル感覚でお菓子を置いておいたら、きちんとゴールまで辿り着ける。賢い子だからね」
いきなり何の話をするのかと目を瞬かせるおれの隣で、花子は自分の話だと気づいたのか、嬉しそうに尻尾を振った。
そんな花子の首元を撫でながら、犬養さんは何かを伝えようとするかのようにおれを見る。
「だから、その……五年前、花子が光太くんの倒れていた位置までたどり着けたのは、血の匂いを辿ったから、ということになる」
まわりくどい言葉の意味を、おれは一生懸命考えた。
崖から落ちて大怪我をしていたおれは、大量の血を流していただろう。でも、犬養さんの言葉通りなら、花子がその匂いを遠くから辿ってくることはできない。
花子は一定の間隔で置かれた何かの匂いしか辿れないから。
「……っ!」
ハッとして、おれは唇に人差し指の節を押し当てた。
逆に言えば、あの時花子がおれを見つけてくれたのは、裏山の入り口からおれのいた場所まで、血痕が絶え間なく落ちていたからということではないのか。
つまり五年前に起きたのは、多分、こういうことだ。
おれと慧はいつものように裏山で遊んでいた。何かがあって、ふたり揃って崖から落ちた。おれは意識を失くしたけれど、慧は動くことができて、血を流しながら裏山の外まで助けを求めに行った。そして花子の道案内のもと、倒れたおれを犬養さんが見つけてくれた。
そうだとすれば――。
「……ありがとうございます。やっぱり花子はおれの恩犬で、犬養さんはおれの恩人です。でも、おれにはもうひとり恩人がいたんですね」
そいつは自分だって怪我をしていたはずなのに、花子と犬養さんを呼んできてくれた。おれの意識がない間もおれの手を握って、ずっと声を掛け続けてくれた。死んでしまうのではないかと怖くてたまらなかった時に、おれの心を救ってくれた。
――大丈夫。もう大丈夫だから。
記憶の中の優しい声が、つい数週間前に慧が掛けてくれた「大丈夫」という声に、ぴたりと重なる。
「……落ちた時のこと、思い出したのかい?」
犬養さんが優しく目を細める。おれは「いえ、まだです」と肩をすくめた。
「でも、あとちょっとのところまで出てきてる気がします」
「そうかい。もし思い出したら――ああいや、思い出さなくても。もうひとりの恩人くんにも、私たちにしてくれたみたいに、ぜひ『好き』って伝えるといいと思うよ」
「す、好き? いや、そんな! おれとあいつは、そういうあれじゃないですから」
不意を突かれたせいで、言葉を噛んだ。好きという言葉から連想して、夏休みに入る直前の、風呂場で見た慧の挙動不審っぷりを思い出し、いたたまれない気持ちになる。
慧が好きなのはおれかもしれない。
あれから何度もその可能性を考えては、「そんなはずがない」と「そうだったら」を行き来した。
今も分からないまま、ぐるぐると考え続けている。
本当にそうだったら、おれはあの時、愛の鼻チューなんて言って、最低のごまかし方をした。だから慧は怒っておれに愛想をつかして、おれと顔を合わせたくないから、黙って夏期講習に行ったのかもしれない。
そう思う反面で、慧に限っておれに恋するなんてそんな馬鹿なことがあるもんかとも思う。
もし本当にそうだったら嬉しいけれど、本人に聞いてみないことにははっきりとは分からない。
(いや。嬉しいってなんだ……!)
あわあわと慌てるおれを見つめて、不思議そうに犬養さんは首を傾げた。
「ふたりはいつも仲良しじゃないか。光太くんはいつも『私みたいになりたい』って言ってくれたり、『大恩人』って言ってくれたりしただろう? 身近にいる相手だと、なかなか面と向かって好意を伝えてもらう機会なんてないからね。改めて言葉にして伝えてもらうと嬉しいものだよ」
「あ、ああ、そういう意味ですか……」
犬養さんが言ったのは、好意という意味での『好き』らしい。紛らわしい。
――紛らわしい?
そわりと心が波立った。
「……あの、もうひとつだけ変なこと聞いてもいいですか」
「もちろん」
「前におれが犬養さんに好きって言ったとき、犬養さんはおれの『好き』は違う『好き』だって言いましたよね」
「うん。誰かに惹かれる『好き』とは違うと言ったね」
「その……誰かに惹かれるって、どういう感じですか。具体的に」
一応聞いておくだけだ。別におれには関わりのないことだけれど、後学のために。
犬養さんは嫌な顔ひとつせずに答えてくれた。
「人によって違うと思うけど、私にとっては、世界がきらきら色づくような、胸がいっぱいになる気持ちかな。一緒に居たらどこにだって行けそうな気持ちになるんだ」
慧とふたりでいればなんでもできる。ずっと昔からそうだった。
「――考えまいとしてもその人のことを考えてしまう。目の前にいなくても、離れていても、その人のことを考えるだけで心の支えになって、頑張ろうと思える」
いないと何をしているのか気になって仕方がない。負けたくない。隣にいたい。だから勉強だって頑張れる。
「――きれいなものやおいしいものを見つけたら、一番にその人に見せたくなる」
マンドラゴラみたいな不思議なきゅうり。天使みたいな花子の尻尾。見せたかったのに慧がいない。
「――生きるも死ぬも、一緒にできたらいいなと思う」
学年が上がっても大学に行っても、ずっと慧と一緒にいたい。
「そういう、強くてどうにもならない気持ちだよ」
思い当たることばかりだが、きっと何かの間違いだ。慧がらしくもないことばっかりするから、おれもつられているだけだろう。
そう思うのに、犬養さんの言葉を聞いているうちに、おれはひとつ、困ったことに気づいてしまった。
五年前、おれが怖かったのは死ぬことじゃない。
慧の背中が遠ざかっていくことだった。
あの時、慧がおれと一緒に血だまりにいてくれたなら、恐怖なんて感じやしなかっただろう。何度も夢を見たから確信できる。
(いや。いやいやいや……!)
だからと言って、別におれは慧をそういう意味で好きなわけではないはずだ。
「……む、難しいですね」
苦しまぎれにそう言って、おれはぎゅう、と強く自分の腕を抱いた。
「そうだねえ。ふふ、なんだか照れちゃうね。若い子に教えられることがあると、年を取って良かったなあって思うよ」
いつもと変わらず、犬養さんはにこやかに笑う。構えとばかりに頭突きをしてくる花子を撫でつつ、「そうですね」と、おれは上の空で返事をした。




