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【短短短編作品】震える

作者: 路地之塔

今日も私は、真っ白な原稿用紙に線を描いていく。


歪むことなく、無機的に伸びていく線。

ペンを握る私の手に、『魂』はない。


私という作品、すなわち漫画は、厳密な幾何学による『美しさ』で成り立っている。


ただひたすら、精密機械のように理論による技術の結晶を、紙の上に転写していく。


線のひとすじ、コマの配置、吹き出しの強弱、そして登場人物の息遣いまで、すべてが私の創造を具現化し、神の啓示のような方程式によって計算され尽くされているのだ。


私の『美しさ』の根源は、ある映画との出会いである。


当時、美大生だった私は、週末に町の片隅にある古びた名画座にふらりと立ち寄った。


館内に入ると、湿った絨毯の匂い、古ぼけた木の椅子の軋む音、そしてスクリーンが放つ、淡く白い光だけが、その場所の存在を主張していた。


私は、誰一人としていない薄暗い、最後列の席に身を沈めた。


上映が始まり、スクリーンには、静かに雪が降り積もる映像が映し出された。


映画に流れる静謐な時間、そして完璧なまでに計算された左右対称の構図は、私の未熟さを根底から揺さぶった。


画面の空間を単なる背景としてではなく、登場人物の心理状態や内面の葛藤を映し出す役割として用いていたのだ。


観る者に特定の意味を押し付けるのではなく、各々が主観的に現実を解釈する余地を与えるための手法で構成されており、私にとって、この世で最も理路整然とした、理想の『美しさ』だった。


私が、なぜ映画監督ではなく、漫画家という道を選んだのか。


それは、映画が持つ制御しきれない不確かな要素が相容れなかったからだ。


映像は、物理的な時間と音に支配される。風の音、人の声、それらすべてが現実の時間の流れの中にあり、私がどれほど計算し尽くそうとも、わずかな偶然が入り込む余地があると考えたからだ。


しかし、漫画は違う。


静止画であるコマ、そして言葉を閉じ込めた吹き出しに、不確かな時間の流れなど存在しない。


コマとコマの間に生まれる空白、すなわち読者の想像力という純粋な時間だけが流れている。


私は、その空白を完璧にコントロールすることで、読者が能動的に物語に参加し、私が意図する『美しさ』を、より深く解釈するだろうと考えたのだ。


だからこそ、私は漫画という表現手段を選んだのである。


読者諸君の、言葉にならぬ願いさえも数式に変換し、それを完璧な『美しさ』として出力する。


私の創作は、閃きや情熱といった不確かなものではなく、論理による技術である。


こうして、何の疑いもなく、私が思う『美しさ』に支配されていたのだ。


原稿用紙に向かう私の手は、まるで精密機械のようだ。


キャラクターの行動原理からセリフの文字数、物語の起承転結まで、すべては頭の中で理論的に導き出される、最も効率的な方程式の賜物のようだった。


私は定規とコンパスを使い、コンマ数ミリの狂いもなくコマを配置していく。


登場人物たちの感情の起伏は、吹き出しの形や大きさに変換され、セリフの文字数まで厳密に調整される。そこには、私の個人的な感情や、不確かなひらめきの入り込む余地は一切なかった。


ただ、読者の心を完璧に揺さぶるための、無機質なロジックだけが存在していた。


物理的に感じる、この部屋の窓から差し込む一筋の光も、川のせせらぎも、登下校する少年少女の笑い声も、そのすべてが私が思う『美しさ』に吸い込まれ、澱みなく流れていく。


何ひとつ、乱すものなどありはしない。


そう、信じていた。


しかし、ある日、突如として不可解な一本の線が、原稿用紙を走り抜けた。


それは、私のくしゃみにより招いた、勢いのある悪手の『一線』であった。


偶然によるこの『一線』は、私が今まで描いた、どの線よりも生き生きとしていた。


私の『美しさ』の理論をもって解明しようとするも、どうにも埒があかなかった。


それどころか、私が創造した登場人物たちは、私の制御を離れて、勝手に言葉を紡ぎ始めた。彼らは私の『美しさ』を嘲笑うかのように、裏切り、結末を無情にも破壊していく。


私は崩壊していく原稿用紙の前で、なぜか心を奪われるような、抗いがたい何かを孕んでいた。


私が思う『美しさ』が不可解な線に飲み込まれ、私は混沌と化していく。


その時、私は、今になってようやくあの日の映画の本質に気づいたのだ。


あの映画は、欠点なき世界を構築するための論理ではなく、むしろ、そこから零れ落ちる不完全さこそを、最も美しいものとして掬い上げるための手法だった。


静止した湖面に落ちる雨粒。左右対称の空間を不規則に横切る人物。計算され尽くした中に、偶然という名の『魂』を宿らせていたのだ。


私はずっと間違っていた。


この『一線』が織りなす混迷こそ、私が求めていた真の『美しさ』だと認めなければならない。


計算された『美しさ』ではなく、偶然がもたらす真の『美しさ』。


理屈では決して生み出せない、まさしく『魂』の『一線』である。


私は再びペンを握り、原稿用紙に線を描いていく。


有機的に描きだした私の手が、今初めて『魂』に熱く震えている。

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