【高齢現役女医百合カップル短編小説】「88歳の献杯 ~私たちの、幸福な隠し味~」
第1章:「朝まで待てない」
東京の空が紫色に染まり始めた頃、清瀬市立病院の手術室から一人の外科医が姿を現した。まだ暗い廊下を白衣の裾を翻して歩く様は、まるで夜明けの精のようだった。
高坂夕菜、88歳。現役の外科医としては日本最高齢だが、その歩みには凛とした威厳があった。すらりとした背筋、しなやかな手指、そして何より目の輝きは、年齢を感じさせない。
「高坂先生、お疲れ様でした」
看護師たちが深々と頭を下げる。夕方から始まった緊急手術は、夜を越えて明け方まで続いた。
「みなさんこそお疲れ様。私はこれから一杯やって寝るわ」
夕菜は笑顔で答えると、さっさとロッカールームに向かった。白衣を脱ぎ、スーツに着替える。鏡に映る自分の姿を確認しながら、口紅を引き直す。年を重ねても、この仕草だけは変わらない。
病院を出ると、まだ肌寒い春の空気が頬を撫でた。夕菜は深く息を吸い込む。手術後の充実感と、これから待っている楽しみが、全身に心地よい疲れを行き渡らせていた。
「ただいま」
マンションの玄関を開けると、懐かしい香りが迎えてくれた。玉ねぎとバターを炒めた甘い匂い。リビングからは、クラシック音楽が静かに流れている。
「おかえりなさい。今日は随分遅かったわね」
台所から顔を覗かせたのは、パートナーの志村朝子だった。64歳の朝子は、同じ病院で内科医として働いている。白髪まじりの短い髪、優しい笑顔。夕菜とは24歳も年が離れているが、10年前から暮らしを共にしている。
「緊急手術が長引いちゃって。でも成功したわ」
夕菜はソファに身を沈めながら、靴を脱ぎ捨てた。朝子が温かいおしぼりを持ってくる。
「朝食の支度ができてるわ。シャワーは?」
「後でいいわ。今は早く飲みたい」
朝子は笑いながら冷蔵庫からビールを取り出した。
「案の定ね。でも今朝のテレビで、『健康長寿の秘訣は節酒にあり』って言ってたわよ」
「あら、また変なこと言ってるじゃない」
夕菜は中ジョッキに注がれた生ビールを一気に喉に流し込んだ。
「ぷはぁ……! これよ、これ。手術後のビールに勝る美味しさはないわ」
朝子は台所から豆腐と納豆、焼き魚を運んできた。夕菜の定番の朝食メニューだ。
「でも、高血圧と痛風が気になるわ。薬はちゃんと飲んでるの?」
「ええ、ちゃんと飲んでるわよ。だからこそ好きなものが食べられるのよ」
夕菜は箸を手に取りながら、にっこりと微笑んだ。
「私ね、若い頃から『いつかは医者を辞めなきゃ』って言われ続けてきたの。でも、ここまで来られたのは、好きなように生きてきたからだと思うの。お酒も仕事も、楽しみながらね」
朝子は黙ってワイングラスを手に取った。
「私もそう思うわ。健康のために我慢する人生なんて、つまらないもの」
二人は軽く杯を合わせる。春の朝日が窓から差し込み始め、グラスの中で光がきらめいた。
「ねえ、今週末はどう? お台場の新しい寿司屋に行ってみない?」
夕菜が二杯目のビールを注ぎながら言う。
「いいわね。でも、その前に教えて欲しいんだけど……」
朝子は少し表情を曇らせた。
「今朝の手術、どんな患者さんだったの?」
「ああ、26歳の女の子。虫垂炎の緊急手術よ。でも、ちょっと複雑な症例でね」
夕菜は箸を置いて、手術の詳細を説明し始めた。朝子は真剣な表情で聞き入る。二人の会話は自然と専門的な医学用語が飛び交うようになった。
「……そういうわけで、腹腔鏡では難しいと判断して、開腹手術に切り替えたの」
「そうね、その判断は正しかったわ。若い先生だったら、腹腔鏡にこだわって時間を無駄にしていたかもしれない」
「経験って大事よね。私の場合は、年齢のおかげで思い切った判断ができるのよ」
夕菜はそう言って、またビールを一口飲んだ。
「でも、さすがに疲れたわ。そろそろ寝ようかしら」
「そうね。私も今日は午後から当直だから、少し休んでおきたいわ」
朝子が食器を下げ始めると、夕菜も立ち上がって手伝おうとした。しかし、朝子は優しく制した。
「いいから、先にシャワーを浴びて休んで。今日はあなたが主役だったんだから」
夕菜は素直に従った。シャワーを浴びている間も、手術のことを考えていた。メスを入れる瞬間の緊張感、術野を開いたときの発見、そして何より、無事に終えられた安堵感。88歳になった今でも、その興奮は少しも色褪せていない。
ベッドに横たわると、すぐ側で朝子の寝息が聞こえた。夕菜は天井を見上げながら、静かに目を閉じる。
「おやすみなさい」
囁くような声に、かすかな返事が返ってきた。窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。
第2章:「昆布だしのチェイサー」
その日の夕方、夕菜は病院の医局で一通の手紙を受け取った。差出人は日本外科学会。開封すると、講演依頼が入っていた。
「来月、札幌で『高齢医師と医療の未来』についての特別講演を……」
夕菜は少し考え込んだ。確かに、医師の高齢化は深刻な問題だ。特に地方では、高齢の医師が第一線で働き続けているケースも少なくない。
「行ってらっしゃいよ」
医局長の三島が声をかけてきた。50代半ばの彼は、夕菜の教え子の一人だ。
「あなたみたいな先生がいるから、私たちも年を取るのが怖くないのよ」
「まあね。でも私は特別なことはしていないのよ。好きなことを、好きなようにしているだけ」
夕菜は手紙を鞄にしまいながら答えた。
「今夜は飲み会があるんでしょう? 私も参加していいかしら」
「え? 先生、いいんですか?」
三島は目を丸くした。若手医師たちの飲み会に、大先輩が参加するなんて異例のことだ。
「私も昔は若かったのよ。たまには若い人たちの話を聞いてみたいわ」
その言葉に、三島は思わず笑みがこぼれた。
その夜、居酒屋の個室には20人ほどの医師が集まっていた。全員が40代以下。夕菜が入ってくると、一瞬静まり返ったが、すぐに和やかな空気が戻った。
「高坂先生、お好みは?」
研修医の一人が、緊張した面持ちでメニューを差し出す。
「ありがとう。まずはビールを中ジョッキで。それと、湯豆腐と刺身の盛り合わせをお願いするわ」
夕菜の隣には、腎臓内科の山下という女医が座っていた。30代後半で、既に主任医長を務める実力者だ。
「先生、昨日の緊急手術、すごかったです。あんな複雑な症例を、あれだけスムーズに……」
「あら、見学していたの?」
「はい。研修医たちと一緒に。みんな感動していました」
夕菜は嬉しそうに頷いた。若い医師たちの目が、自分に向けられているのを感じる。
「私の手術に特別なものはないわ。ただ、患者さんの命を預かっているという意識だけは、いつも持っているつもり」
ビールが運ばれてきた。夕菜は一気に半分ほど飲み干す。若手医師たちから驚きの声が上がった。
「実は、私にも秘密の習慣があるの」
夕菜はそう言って、ウェイターを呼び止めた。
「昆布だしを持ってきてもらえるかしら?」
しばらくして、小さな徳利に入った昆布だしが運ばれてきた。夕菜はそれをチェイサーとして、ビールの後に一口飲んだ。
「これ、血管を丈夫にするのよ。私の発明なの」
周りから笑い声が起こる。しかし、その笑いには温かみがあった。
「先生は、健康診断の数値とか気にならないんですか?」
若い女医の一人が、恐る恐る質問した。
「ええ、結果なんて見てないわ。だって、私の体は私が一番よく知っているもの」
夕菜は二杯目のビールを注ぎながら続けた。
「若い人たちは、数値に振り回されすぎよ。確かに、健康は大切。でも、それは人生の目的じゃない。私は好きな仕事を続けられること、美味しいお酒が飲めること、そして……」
夕菜は少し言葉を切った。
「大切な人と過ごせることが、何より嬉しいの」
その言葉に、部屋の空気が少し和らいだ。
「でも、高坂先生。私たちの世代は、生活習慣病の予防とか、健康管理とか、そういうことばかり言われて育ってきたんです。なんだか、息苦しいときがあって……」
山下が、少し俯きながら言った。
「そうね。でも、考えてみて。医学の進歩とともに、『正しい生活』の基準も変わってきたでしょう? 私が若い頃は、卵を食べ過ぎると良くないって言われたけど、今は違うでしょう?」
夕菜は刺身を箸で摘みながら続けた。
「結局、大切なのは自分の体と対話することよ。それに、ストレスって最大の病因でしょう? 好きなものを我慢して、かえって体調を崩す人だっているわ」
その時、夕菜のスマートフォンが鳴った。朝子からのメッセージだ。
『今夜は遅くなるの?』
夕菜は笑みを浮かべながら返信する。
『もう少しだけ。若い先生たちと楽しい話をしているの』
すぐに返事が来た。
『あなたこそ、一番若いんじゃない?』
夕菜は思わず声を出して笑った。確かに、年齢は数字に過ぎない。心の若さは、きっと違うところにある。
「先生、次は焼酎をお持ちしましょうか?」
三島が声をかけてきた。
「ええ、お願い。ロックでお願いするわ」
氷のグラスに琥珀色の液体が注がれる。夕菜は満足げに香りを楽しんだ。
「みなさん、聞いて。私が外科医を目指したのは、実は恩師の影響なの。その先生も、お酒が大好きだった。手術の後はいつも『疲れを取るには適度な飲酒が一番』って言ってね」
若い医師たちは、夕菜の話に聞き入っていた。普段は厳しい表情の大先輩が、こんなにリラックスした表情を見せるのは珍しい。
「その先生は、80歳まで現役で手術を続けたの。私も、その背中を追いかけているつもり」
夕菜は焼酎を一口飲んで、しみじみと言った。
「だから、若い先生たちにも伝えたいの。医師である前に、一人の人間として豊かな人生を送ってほしいって」
時計は既に夜の10時を回っていた。夕菜は立ち上がる。
「そろそろ帰るわ。朝子が待ってるもの」
三島が会計を済ませようとしたが、夕菜は静かに制した。
「今日は私が払うわ。若い先生たちと飲めて、とても楽しかったから」
外に出ると、春の夜風が心地よく頬を撫でた。夕菜は深く息を吸い込む。アルコールの心地よい熱が体の芯まで染み渡っていた。
マンションに戻ると、リビングには小さな明かりが灯っていた。朝子は本を読みながら、グラスワインを傾けている。
「ただいま。まだ起きてたの?」
「ええ、あなたを待っていたのよ。楽しかった?」
夕菜はソファに腰掛けながら、若手医師たちとの会話を話し始めた。朝子は静かに頷きながら聞いている。
「私たちの頃と違って、今の若い人たちは色んなプレッシャーを感じているみたいね」
「そうね。でも、それは時代が変わったからじゃないかしら。私たちの若い頃は、もっと自由だった気がする」
朝子はワインを一口飲んで言った。
「でも、あなたは今でも自由よ」
「そうかしら?」
「ええ。だって、88歳になっても現役の外科医を続けて、好きなように飲んで、好きなように生きている。それって、すごく素敵なことだと思うわ」
夕菜は朝子の言葉に、少し照れたように微笑んだ。
「朝子ね、実は明日、ちょっと相談があるの」
「なあに?」
「札幌で講演依頼があってね。来月よ」
「あら、素敵じゃない。私も休みを取って一緒に行きましょう」
夕菜は嬉しそうに頷いた。
「札幌といえば、カニよね。美味しいお店を探しておくわ」
「ふふ、あなたったら。仕事の話より先に、お酒と食事の計画を立てるのね」
「当たり前よ。人生の楽しみを、順番通りにしないと」
二人は顔を見合わせて笑った。窓の外では、東京の夜景が静かに輝いていた。
第3章:「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」
週末の午後、夕菜と朝子はお台場の新しい寿司屋に来ていた。店内は落ち着いた雰囲気で、カウンター越しに板前の手さばきが見える。
「いらっしゃいませ。お好みは?」
板前は50代半ばといったところか。夕菜と朝子を見て、少し驚いたような表情を見せた。
「おまかせで」
朝子が答えると、板前は丁寧に頭を下げた。
「ビールをください」
夕菜が言うと、板前は少し躊躇するような素振りを見せた。
「申し訳ございません。お昼のお酒は……」
「あら、私たちがお年寄りだから心配?」
夕菜は冗談めかして言ったが、その声には少し皮肉が混じっていた。
「いいえ、そういうわけでは……」
「私は現役の外科医よ。この方も内科医。二人とも毎日働いているの。お酒くらい、自分で判断できるわ」
板前は困惑した表情を浮かべたが、すぐにビールを用意した。
「申し訳ございませんでした」
「気にしないで。でも、年齢で人を判断するのは良くないわよ」
朝子が、場を和ませるように声をかけた。
「実は、私たち付き合って10年になるの。お祝いの席なのよ」
板前の表情が和らいだ。
「おめでとうございます。では、特別なネタをご用意させていただきます」
カウンターには、次々と新鮮な握りが並べられていく。夕菜は美しい酢飯の艶を見つめながら、ビールを一口飲んだ。
「最近ね、『高齢者は塩分控えめに』って言われるでしょう? でも、寿司に薄味なんてありえないわ」
朝子は苦笑いを浮かべた。
「あなたったら、またその話?」
「だって本当よ。私の患者さんで、塩分制限しすぎて体調を崩した人がいるの。高齢になると、かえって適度な塩分が必要なのよ」
その時、隣の席から小さな物音が聞こえた。振り向くと、30代くらいのカップルが座っていた。女性の方が、何か言いたげな表情を浮かべている。
「何かしら?」
夕菜が声をかけると、女性は少し躊躇いながら口を開いた。
「すみません。私、栄養士なんです。先ほどのお話、興味深く聞いていました」
「あら、そう。でも、私の意見には反対?」
「いいえ……実は最近、高齢者の低栄養が問題になっているんです。厳格な制限より、その人に合った食生活の方が大切だって」
女性は少し緊張した様子で続けた。
「でも、なかなかそういう意見は受け入れられなくて。『栄養指導は教科書通りに』って言われるんです」
夕菜は静かに頷いた。
「分かるわ。私も若い頃は、教科書通りにしなきゃって思っていた。でも、患者さん一人一人の生活や習慣を無視した医療なんて、本当の意味での治療じゃないわ」
朝子も会話に加わった。
「私も内科医として、よく感じることよ。特に高齢の患者さんは、長年の習慣を急に変えることで、かえってストレスになることが多いわ」
女性の表情が明るくなった。
「その通りです! 私も、もっと柔軟な栄養指導ができたらって思っています」
板前も興味深そうに話を聞いている。
「実は私も、高齢のお客様への対応で悩むことが多くて。さっきは申し訳ありませんでした」
夕菜は握りを一つ摘みながら答えた。
「謝らないで。むしろ、こういう会話ができて良かったわ。世の中には、言いたいことも言えない人が多すぎる。特に、専門職の人たちはね」
朝子はビールのグラスを掲げた。
「乾杯しましょう。自由な意見が言える、そんな世の中になりますように」
グラスが優しく触れ合う音が、店内に響いた。
その日の夕方、二人は海辺を散歩していた。春の陽は柔らかく、波のさざめきが心地よい。
「あの栄養士さん、嬉しそうだったわね」
朝子が言うと、夕菜は遠くを見つめながら答えた。
「ええ。きっと、普段は言えない思いを抱えているのよ。私たちの世代は、まだ良かった。今の若い人たちは、何もかもが規格化されていて……」
「でも、あなたは違うわ。いつも自分の信念を貫いている」
「それは、朝子がいてくれるからよ」
夕菜は朝子の手を取った。
「10年前、あなたと出会えて本当に良かった」
朝子は優しく微笑んだ。
「私もよ。あなたみたいな人に出会えるなんて、思ってもみなかった」
二人は肩を寄せ合いながら、夕暮れの海を見つめ続けた。波が寄せては返す音が、静かな時の流れを刻んでいた。
第4章:「最後の手術」
札幌での講演を一週間後に控えたある日、夕菜は緊急の連絡を受けた。
「先生、大変です!」
三島が医局に駆け込んできた。
「どうしたの?」
「重症の虫垂炎の患者です。でも、特殊なケースで……」
三島は言葉を詰まらせた。
「患者さんは、先生の恩師の奥様です」
夕菜の表情が一瞬こわばった。高山清子、92歳。夕菜の恩師である故・高山教授の妻だ。
「すぐに診察室に案内して」
診察室では、清子が苦痛の表情で横たわっていた。
「夕菜先生……」
「清子先生、私です。どうされました?」
「昨日から、お腹が痛くて……」
診察の結果、重症の虫垂炎であることが判明した。しかし、清子は心臓にも問題があり、手術のリスクは決して低くない。
「手術が必要です。でも、リスクは……」
「分かっています」
清子は静かに微笑んだ。
「あなたの手術なら、安心できます。主人も、きっとそう言うはずです」
夕菜は深く息を吸い込んだ。
「分かりました。準備を始めましょう」
手術室に向かう前、夕菜は朝子に電話をかけた。
「朝子、今日は帰りが遅くなるわ」
「大丈夫? 何かあったの?」
「高山先生の奥様の手術よ。虫垂炎だけど、かなりリスクが高いの」
電話の向こうで、朝子が小さく息を呑む音が聞こえた。
「私も手伝えることがあれば……」
「ありがとう。でも大丈夫。これは、私がやらなければならない手術なの」
手術室に入る前、夕菜は深く息を吸い込んだ。88歳の手に、メスを握る重みを感じる。
「メス」
夕菜の声が、静かに手術室に響いた。
(高山先生、見ていてください)
手術は予想以上に難しかった。虫垂は既に穿孔しており、腹腔内は炎症で一面が赤く染まっていた。しかし、夕菜の手は少しも震えない。
「血圧が下がってきています」
麻酔科医から声が上がった。
「大丈夫。もう少しよ」
夕菜の額には汗が光っていた。しかし、その目は冷静そのものだ。
手術開始から2時間。ようやく最後の縫合が終わった。
「手術終了」
夕菜の声が、静かに響く。
手を洗っていると、三島が近づいてきた。
「先生、素晴らしい手術でした」
「ありがとう。でも、これが私の最後の手術になるかもしれないわ」
「え?」
「来月から、少し働き方を変えようと思うの」
夕菜は穏やかな表情で続けた。
「もう、緊急手術は受けないことにするわ。外来と、予定手術だけにしようと思うの」
三島は言葉を失った。
「でも、どうしてですか? 先生なら、まだまだ……」
「そうね。でも、いつかは決断しなければならない時が来るの。今日の手術で、それを感じたわ」
夕菜は手を拭きながら、静かに言葉を続けた。
「高山先生は、80歳で引退を決意したの。その時、私は『まだできるはずなのに』って思った。でも今なら分かるわ。先生の決断の意味が」
「それは……どういう意味でしょうか?」
「全てを完璧にできるうちに、次の世代に道を譲ること。それも、私たち医師の責任なのよ」
三島の目に、涙が光った。
その夜、夕菜は珍しく一人で飲んでいた。行きつけの小さな居酒屋で、いつものように中ジョッキのビールを前に。
「先生、今日は朝子先生は?」
店主が声をかけてきた。
「ええ、今日は当直なの。でも、これも良いわ。たまには一人で考え事をする時間も必要でしょう?」
ビールを一口飲んで、夕菜は続けた。
「私ね、今日大切な決断をしたの」
「へえ、どんな?」
「少し、仕事を減らすことにしたの。年齢のことじゃないのよ。ただ、次の世代にもっと機会を与えたいって思って」
店主は静かに頷いた。
「でも、完全には辞めないんでしょう?」
「ええ、それはできないわ。医師であることは、私の人生そのものだもの」
その時、スマートフォンが鳴った。朝子からのメッセージだ。
『手術、お疲れ様。今日は特別な日になったみたいね』
夕菜は少し驚いた。
『どうして分かったの?』
『あなたの声を聞いただけよ。電話の時から、何か決心したような声だったもの』
夕菜は思わず微笑んだ。
『さすがね。でも、私の決断は覆せないわよ?』
『ふふ。あなたの決断なら、きっと正しいわ。私が保証する』
夕菜はスマートフォンを胸に抱きしめるように持った。
マンションに戻ると、見慣れない靴が玄関に置いてあった。リビングには、朝子が待っていた。
「えっ、当直は?」
「代わってもらったの。今日は、あなたと一緒にいたかったから」
テーブルには、夕菜の好きな焼酎と、湯豆腐が用意されていた。
「座って。今日のこと、全部聞かせて」
夕菜は深いため息をつきながら、ソファに身を沈めた。
「私ね、高山先生の最期の手術を思い出したの。その時、先生は『完璧な手術だった』って、笑顔で言ったのよ。そして次の日、引退を表明した」
朝子は黙って聞いている。
「今日、清子先生の手術をしながら、その意味が分かった気がしたの。医師として、自分の限界を知ることも大切なのね」
「でも、あなたはまだまだ現役よ」
「ええ。だからこそ、少しずつ形を変えていきたいの。予定手術だけなら、もっと丁寧に、もっと確実にできるはず」
朝子はワイングラスを手に取った。
「そうね。あなたの技術は、若い医師たちにとって大切な財産だもの。それを、もっとゆっくり伝えられるようになるわ」
夕菜も焼酎を一口飲んだ。
「札幌での講演、良いタイミングだったわ。『高齢医師と医療の未来』……私の経験が、何かの参考になればいいんだけど」
「きっとなるわ。あなたは、ただ長く働いているだけじゃない。自分の生き方に、誇りを持って生きてきたもの」
窓の外では、雪が静かに降り始めていた。
第5章:「降り積もる雪の夜に」
札幌の街は、まだ春の雪に覆われていた。講演会場のホテルの一室で、夕菜は原稿に目を通していた。
「緊張する?」
朝子がコーヒーを差し出しながら聞いた。
「ええ、少しね。でも、良い緊張感よ」
夕菜は窓の外を見やった。雪が舞い落ちる様子が、どこか懐かしい。
「私が研修医だった頃、札幌で働いていたことがあるの。その時も、こんな風に雪が降っていたわ」
朝子は夕菜の横に座った。
「どんな研修医だったの?」
「そうねえ……必死だったわ。でも、楽しかった。毎日が新しい発見の連続で」
夕菜は少し考え込むように言葉を続けた。
「当時は、女性の外科医なんてまだ珍しかったの。『女性に手術は無理』って、よく言われたわ。でも、私は諦めなかった」
「今でも、その強さは変わっていないわね」
「そうかしら? 私はただ、自分の道を歩いてきただけよ。それが、たまたま人と違っていただけ」
その時、ホテルの従業員がノックをしてきた。
「高坂先生、そろそろお時間です」
講演会場には、200人以上の医師が集まっていた。若手から、夕菜と同世代のベテランまで、様々な年齢層が見える。
夕菜は壇上に立ち、深く息を吸い込んだ。
「皆様、本日は『高齢医師と医療の未来』というテーマで、お話をさせていただきます」
会場が静まり返る。
「私は先日、一つの決断をしました。88歳になる外科医として、少し働き方を変えることにしたのです」
聴衆から、小さなざわめきが起こった。
「でも、これは引退ではありません。むしろ、新しい挑戦の始まりだと考えています」
夕菜は、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「医療の現場で、高齢化は避けられない問題です。でも、それは本当に『問題』なのでしょうか?」
会場の空気が、少し変わった。
「確かに、体力は衰えます。反応速度も、若い頃には及びません。でも、経験という財産は、年と共に増えていくのです」
夕菜は、自分の手を見つめた。
「この手で、何千という手術をしてきました。その一つ一つが、私の財産です。そして、その財産は次の世代に受け継がれていくべきものです」
前列には、若い医師たちの真剣な表情が見える。
「私たち高齢医師に必要なのは、自分の限界を知ることです。そして、その限界の中で、最大限の力を発揮すること」
夕菜は、会場の後ろに座っている朝子と目が合った。朝子は静かに頷いている。
「そして若い医師の皆さんに伝えたいのは、年齢は決して障壁ではないということです。大切なのは、自分らしく生きること」
講演は1時間以上続いた。質疑応答では、多くの質問が飛び交った。若手医師からベテランまで、それぞれの立場での悩みや期待が語られる。
最後に、一人の女性医師が立ち上がった。
「先生、一つだけ教えてください。先生はどうやって、これほど長く現役を続けられたんですか?」
夕菜は少し考えてから、微笑んだ。
「それはね、二つの秘訣があるの。一つは、好きなことを諦めないこと。私の場合は、お酒と手術ね」
会場から笑いが起こった。
「もう一つは、自分の人生を、誰かと分かち合うこと」
夕菜は、また朝子と目が合った。
「人生には、色んな困難があります。でも、分かち合える人がいれば、それは困難ではなく、むしろ豊かな経験になるのです」
講演が終わると、多くの医師が夕菜の元に集まってきた。質問や感想、そして励ましの言葉が次々と寄せられる。
その夜、夕菜と朝子は予約しておいたすすきののカニ料理店で、ゆっくりと食事を楽しんでいた。
「素晴らしい講演だったわ」
朝子がビールを注ぎながら言った。
「本当? 私としては、まだ言い足りないことが山ほどあったんだけど」
「それは、また次の機会に取っておけばいいじゃない」
夕菜は蟹の身を箸でほぐしながら、窓の外を見やった。雪は、まだ静かに降り続いている。
「ねえ朝子、明日は観光する? 札幌時計台とか、行ってみない?」
「いいわね。その前に、朝市で海鮮丼を食べましょう」
「もう食べる約束? 今、カニを食べてるのよ?」
二人は顔を見合わせて笑った。窓の外では、雪が街を優しく包み込んでいった。
第6章:「それぞれの幸福論」
春の陽気が心地よい日曜日の午後、夕菜と朝子は自宅のベランダでくつろいでいた。札幌から戻って一週間が経ち、夕菜の新しい生活リズムも少しずつ形になってきていた。
「今日の天気は最高ね」
夕菜はビールを一口飲みながら、青空を見上げた。
「そうね。こんな日は、やっぱりベランダが一番よ」
朝子は小さなテーブルに、枝豆と湯豆腐を並べていく。
「私ね、この前の検査結果を見たのよ」
朝子が静かに言った。夕菜は驚いたように朝子を見た。
「あら、珍しいわね。あなたも健康診断なんか受けるようになったの?」
「ええ。そろそろ私も、自分の体と向き合わなきゃって思って」
朝子は少し言葉を切った。
「実は、少し気になる数値があって……」
夕菜は静かにビールを置いた。
「大丈夫? 深刻なの?」
「いいえ、そんなことないわ。ただ、コレステロールが少し高めで。でも、私なりの対処法を考えたの」
「どんな?」
「毎日少しずつ、ベランダで体操することにしたの。そして、大好きな赤ワインは諦めないで、かわりに魚を多めに食べることにしたわ」
夕菜は安心したように笑った。
「さすが医者同士のカップルね。自分なりの対処法を見つけるなんて」
「あなたから学んだのよ。健康のために何もかも我慢するんじゃなくて、自分らしく生きながら、できることをする」
夕菜は朝子の手を取った。
「私たち、お互いから学び合ってるのね」
「そうね。私はあなたから、自由な生き方を学んだわ。あなたは私から、少しだけ慎重になることを学んで」
二人は顔を見合わせて笑った。春の風が、ベランダの風鈴を揺らす。
「そういえば、高山先生の奥様、退院されたわよ」
「ええ、順調に回復してるって聞いたわ。来週、お見舞いに行こうと思ってるの」
夕菜は湯豆腐を箸で掬いながら言った。
「私の最後の緊急手術の患者様だものね」
「でも、あなたの新しい人生は、まだ始まったばかりよ」
朝子はワインを一口飲んで続けた。
「予定手術も、若い先生たちの指導も、きっとやりがいがあるはず」
「そうね。実は昨日、三島が相談に来たの。『高齢者外科のスペシャリストとして、若手の育成プログラムを作りませんか』って」
「素敵じゃない。あなたの経験を、次の世代に伝えていけるわ」
夕菜は空を見上げた。春の雲が、ゆっくりと流れている。
「私たちって、幸せよね」
「ええ、とても」
「世間で言う『理想の老後』からは、かけ離れてるかもしれないけど」
朝子は静かに微笑んだ。
「それがいいのよ。私たちには、私たちの幸せがある」
夕菜はまたビールを手に取った。
「ねえ朝子、今夜は何を作るの?」
「あら、もう夕食の話? まだお昼も終わってないのよ」
「だって、楽しみなんだもの。あなたの料理と、美味しいお酒と、穏やかな時間と」
朝子は少し考えてから答えた。
「今夜は、鯖の味噌煮にしようかしら。あなたの好きな大根おろしをたっぷり添えて」
「それに焼酎のロック?」
「もちろんよ。でも、その前に昆布だしも用意しておくわ」
二人は顔を見合わせて笑った。ベランダに置かれた小さな草花が、風に揺れている。
「朝子」
「なあに?」
「これからも、一緒に年を重ねていこうね」
「ええ、もちろんよ」
朝子は夕菜の肩に頭を寄せた。
「私たちには、私たちの生き方がある。それで十分よ」
春の陽が二人を包み、風鈴が静かな音を響かせていた。時が緩やかに流れ、それは限りなく愛おしいものだった。
(完)