表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

百合短編集・ショートストーリー集

【高齢現役女医百合カップル短編小説】「88歳の献杯 ~私たちの、幸福な隠し味~」

作者: 霧崎薫

第1章:「朝まで待てない」


 東京の空が紫色に染まり始めた頃、清瀬市立病院の手術室から一人の外科医が姿を現した。まだ暗い廊下を白衣の裾を翻して歩く様は、まるで夜明けの精のようだった。


 高坂夕菜、88歳。現役の外科医としては日本最高齢だが、その歩みには凛とした威厳があった。すらりとした背筋、しなやかな手指、そして何より目の輝きは、年齢を感じさせない。


「高坂先生、お疲れ様でした」


 看護師たちが深々と頭を下げる。夕方から始まった緊急手術は、夜を越えて明け方まで続いた。


「みなさんこそお疲れ様。私はこれから一杯やって寝るわ」


 夕菜は笑顔で答えると、さっさとロッカールームに向かった。白衣を脱ぎ、スーツに着替える。鏡に映る自分の姿を確認しながら、口紅を引き直す。年を重ねても、この仕草だけは変わらない。


 病院を出ると、まだ肌寒い春の空気が頬を撫でた。夕菜は深く息を吸い込む。手術後の充実感と、これから待っている楽しみが、全身に心地よい疲れを行き渡らせていた。


「ただいま」


 マンションの玄関を開けると、懐かしい香りが迎えてくれた。玉ねぎとバターを炒めた甘い匂い。リビングからは、クラシック音楽が静かに流れている。


「おかえりなさい。今日は随分遅かったわね」


 台所から顔を覗かせたのは、パートナーの志村朝子だった。64歳の朝子は、同じ病院で内科医として働いている。白髪まじりの短い髪、優しい笑顔。夕菜とは24歳も年が離れているが、10年前から暮らしを共にしている。


「緊急手術が長引いちゃって。でも成功したわ」


 夕菜はソファに身を沈めながら、靴を脱ぎ捨てた。朝子が温かいおしぼりを持ってくる。


「朝食の支度ができてるわ。シャワーは?」


「後でいいわ。今は早く飲みたい」


 朝子は笑いながら冷蔵庫からビールを取り出した。


「案の定ね。でも今朝のテレビで、『健康長寿の秘訣は節酒にあり』って言ってたわよ」


「あら、また変なこと言ってるじゃない」


 夕菜は中ジョッキに注がれた生ビールを一気に喉に流し込んだ。


「ぷはぁ……! これよ、これ。手術後のビールに勝る美味しさはないわ」


 朝子は台所から豆腐と納豆、焼き魚を運んできた。夕菜の定番の朝食メニューだ。


「でも、高血圧と痛風が気になるわ。薬はちゃんと飲んでるの?」


「ええ、ちゃんと飲んでるわよ。だからこそ好きなものが食べられるのよ」


 夕菜は箸を手に取りながら、にっこりと微笑んだ。


「私ね、若い頃から『いつかは医者を辞めなきゃ』って言われ続けてきたの。でも、ここまで来られたのは、好きなように生きてきたからだと思うの。お酒も仕事も、楽しみながらね」


 朝子は黙ってワイングラスを手に取った。


「私もそう思うわ。健康のために我慢する人生なんて、つまらないもの」


 二人は軽く杯を合わせる。春の朝日が窓から差し込み始め、グラスの中で光がきらめいた。


「ねえ、今週末はどう? お台場の新しい寿司屋に行ってみない?」


 夕菜が二杯目のビールを注ぎながら言う。


「いいわね。でも、その前に教えて欲しいんだけど……」


 朝子は少し表情を曇らせた。


「今朝の手術、どんな患者さんだったの?」


「ああ、26歳の女の子。虫垂炎の緊急手術よ。でも、ちょっと複雑な症例でね」


 夕菜は箸を置いて、手術の詳細を説明し始めた。朝子は真剣な表情で聞き入る。二人の会話は自然と専門的な医学用語が飛び交うようになった。


「……そういうわけで、腹腔鏡では難しいと判断して、開腹手術に切り替えたの」


「そうね、その判断は正しかったわ。若い先生だったら、腹腔鏡にこだわって時間を無駄にしていたかもしれない」


「経験って大事よね。私の場合は、年齢のおかげで思い切った判断ができるのよ」


 夕菜はそう言って、またビールを一口飲んだ。


「でも、さすがに疲れたわ。そろそろ寝ようかしら」


「そうね。私も今日は午後から当直だから、少し休んでおきたいわ」


 朝子が食器を下げ始めると、夕菜も立ち上がって手伝おうとした。しかし、朝子は優しく制した。


「いいから、先にシャワーを浴びて休んで。今日はあなたが主役だったんだから」


 夕菜は素直に従った。シャワーを浴びている間も、手術のことを考えていた。メスを入れる瞬間の緊張感、術野を開いたときの発見、そして何より、無事に終えられた安堵感。88歳になった今でも、その興奮は少しも色褪せていない。


 ベッドに横たわると、すぐ側で朝子の寝息が聞こえた。夕菜は天井を見上げながら、静かに目を閉じる。


「おやすみなさい」


 囁くような声に、かすかな返事が返ってきた。窓の外では、新しい一日が始まろうとしていた。


第2章:「昆布だしのチェイサー」


 その日の夕方、夕菜は病院の医局で一通の手紙を受け取った。差出人は日本外科学会。開封すると、講演依頼が入っていた。


「来月、札幌で『高齢医師と医療の未来』についての特別講演を……」


 夕菜は少し考え込んだ。確かに、医師の高齢化は深刻な問題だ。特に地方では、高齢の医師が第一線で働き続けているケースも少なくない。


「行ってらっしゃいよ」


 医局長の三島が声をかけてきた。50代半ばの彼は、夕菜の教え子の一人だ。


「あなたみたいな先生がいるから、私たちも年を取るのが怖くないのよ」


「まあね。でも私は特別なことはしていないのよ。好きなことを、好きなようにしているだけ」


 夕菜は手紙を鞄にしまいながら答えた。


「今夜は飲み会があるんでしょう? 私も参加していいかしら」


「え? 先生、いいんですか?」


 三島は目を丸くした。若手医師たちの飲み会に、大先輩が参加するなんて異例のことだ。


「私も昔は若かったのよ。たまには若い人たちの話を聞いてみたいわ」


 その言葉に、三島は思わず笑みがこぼれた。


 その夜、居酒屋の個室には20人ほどの医師が集まっていた。全員が40代以下。夕菜が入ってくると、一瞬静まり返ったが、すぐに和やかな空気が戻った。


「高坂先生、お好みは?」


 研修医の一人が、緊張した面持ちでメニューを差し出す。


「ありがとう。まずはビールを中ジョッキで。それと、湯豆腐と刺身の盛り合わせをお願いするわ」


 夕菜の隣には、腎臓内科の山下という女医が座っていた。30代後半で、既に主任医長を務める実力者だ。


「先生、昨日の緊急手術、すごかったです。あんな複雑な症例を、あれだけスムーズに……」


「あら、見学していたの?」


「はい。研修医たちと一緒に。みんな感動していました」


 夕菜は嬉しそうに頷いた。若い医師たちの目が、自分に向けられているのを感じる。


「私の手術に特別なものはないわ。ただ、患者さんの命を預かっているという意識だけは、いつも持っているつもり」


 ビールが運ばれてきた。夕菜は一気に半分ほど飲み干す。若手医師たちから驚きの声が上がった。


「実は、私にも秘密の習慣があるの」


 夕菜はそう言って、ウェイターを呼び止めた。


「昆布だしを持ってきてもらえるかしら?」


 しばらくして、小さな徳利に入った昆布だしが運ばれてきた。夕菜はそれをチェイサーとして、ビールの後に一口飲んだ。


「これ、血管を丈夫にするのよ。私の発明なの」


 周りから笑い声が起こる。しかし、その笑いには温かみがあった。


「先生は、健康診断の数値とか気にならないんですか?」


 若い女医の一人が、恐る恐る質問した。


「ええ、結果なんて見てないわ。だって、私の体は私が一番よく知っているもの」


 夕菜は二杯目のビールを注ぎながら続けた。


「若い人たちは、数値に振り回されすぎよ。確かに、健康は大切。でも、それは人生の目的じゃない。私は好きな仕事を続けられること、美味しいお酒が飲めること、そして……」


 夕菜は少し言葉を切った。


「大切な人と過ごせることが、何より嬉しいの」


 その言葉に、部屋の空気が少し和らいだ。


「でも、高坂先生。私たちの世代は、生活習慣病の予防とか、健康管理とか、そういうことばかり言われて育ってきたんです。なんだか、息苦しいときがあって……」


 山下が、少し俯きながら言った。


「そうね。でも、考えてみて。医学の進歩とともに、『正しい生活』の基準も変わってきたでしょう? 私が若い頃は、卵を食べ過ぎると良くないって言われたけど、今は違うでしょう?」


 夕菜は刺身を箸で摘みながら続けた。


「結局、大切なのは自分の体と対話することよ。それに、ストレスって最大の病因でしょう? 好きなものを我慢して、かえって体調を崩す人だっているわ」


 その時、夕菜のスマートフォンが鳴った。朝子からのメッセージだ。


『今夜は遅くなるの?』


 夕菜は笑みを浮かべながら返信する。


『もう少しだけ。若い先生たちと楽しい話をしているの』


 すぐに返事が来た。


『あなたこそ、一番若いんじゃない?』


 夕菜は思わず声を出して笑った。確かに、年齢は数字に過ぎない。心の若さは、きっと違うところにある。


「先生、次は焼酎をお持ちしましょうか?」


 三島が声をかけてきた。


「ええ、お願い。ロックでお願いするわ」


 氷のグラスに琥珀色の液体が注がれる。夕菜は満足げに香りを楽しんだ。


「みなさん、聞いて。私が外科医を目指したのは、実は恩師の影響なの。その先生も、お酒が大好きだった。手術の後はいつも『疲れを取るには適度な飲酒が一番』って言ってね」


 若い医師たちは、夕菜の話に聞き入っていた。普段は厳しい表情の大先輩が、こんなにリラックスした表情を見せるのは珍しい。


「その先生は、80歳まで現役で手術を続けたの。私も、その背中を追いかけているつもり」


 夕菜は焼酎を一口飲んで、しみじみと言った。


「だから、若い先生たちにも伝えたいの。医師である前に、一人の人間として豊かな人生を送ってほしいって」


 時計は既に夜の10時を回っていた。夕菜は立ち上がる。


「そろそろ帰るわ。朝子が待ってるもの」


 三島が会計を済ませようとしたが、夕菜は静かに制した。


「今日は私が払うわ。若い先生たちと飲めて、とても楽しかったから」


 外に出ると、春の夜風が心地よく頬を撫でた。夕菜は深く息を吸い込む。アルコールの心地よい熱が体の芯まで染み渡っていた。


 マンションに戻ると、リビングには小さな明かりが灯っていた。朝子は本を読みながら、グラスワインを傾けている。


「ただいま。まだ起きてたの?」


「ええ、あなたを待っていたのよ。楽しかった?」


 夕菜はソファに腰掛けながら、若手医師たちとの会話を話し始めた。朝子は静かに頷きながら聞いている。


「私たちの頃と違って、今の若い人たちは色んなプレッシャーを感じているみたいね」


「そうね。でも、それは時代が変わったからじゃないかしら。私たちの若い頃は、もっと自由だった気がする」


 朝子はワインを一口飲んで言った。


「でも、あなたは今でも自由よ」


「そうかしら?」


「ええ。だって、88歳になっても現役の外科医を続けて、好きなように飲んで、好きなように生きている。それって、すごく素敵なことだと思うわ」


 夕菜は朝子の言葉に、少し照れたように微笑んだ。


「朝子ね、実は明日、ちょっと相談があるの」


「なあに?」


「札幌で講演依頼があってね。来月よ」


「あら、素敵じゃない。私も休みを取って一緒に行きましょう」


 夕菜は嬉しそうに頷いた。


「札幌といえば、カニよね。美味しいお店を探しておくわ」


「ふふ、あなたったら。仕事の話より先に、お酒と食事の計画を立てるのね」


「当たり前よ。人生の楽しみを、順番通りにしないと」


 二人は顔を見合わせて笑った。窓の外では、東京の夜景が静かに輝いていた。


第3章:「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」


 週末の午後、夕菜と朝子はお台場の新しい寿司屋に来ていた。店内は落ち着いた雰囲気で、カウンター越しに板前の手さばきが見える。


「いらっしゃいませ。お好みは?」


 板前は50代半ばといったところか。夕菜と朝子を見て、少し驚いたような表情を見せた。


「おまかせで」


 朝子が答えると、板前は丁寧に頭を下げた。


「ビールをください」


 夕菜が言うと、板前は少し躊躇するような素振りを見せた。


「申し訳ございません。お昼のお酒は……」


「あら、私たちがお年寄りだから心配?」


 夕菜は冗談めかして言ったが、その声には少し皮肉が混じっていた。


「いいえ、そういうわけでは……」


「私は現役の外科医よ。この方も内科医。二人とも毎日働いているの。お酒くらい、自分で判断できるわ」


 板前は困惑した表情を浮かべたが、すぐにビールを用意した。


「申し訳ございませんでした」


「気にしないで。でも、年齢で人を判断するのは良くないわよ」


 朝子が、場を和ませるように声をかけた。


「実は、私たち付き合って10年になるの。お祝いの席なのよ」


 板前の表情が和らいだ。


「おめでとうございます。では、特別なネタをご用意させていただきます」


 カウンターには、次々と新鮮な握りが並べられていく。夕菜は美しい酢飯の艶を見つめながら、ビールを一口飲んだ。


「最近ね、『高齢者は塩分控えめに』って言われるでしょう? でも、寿司に薄味なんてありえないわ」


 朝子は苦笑いを浮かべた。


「あなたったら、またその話?」


「だって本当よ。私の患者さんで、塩分制限しすぎて体調を崩した人がいるの。高齢になると、かえって適度な塩分が必要なのよ」


 その時、隣の席から小さな物音が聞こえた。振り向くと、30代くらいのカップルが座っていた。女性の方が、何か言いたげな表情を浮かべている。


「何かしら?」


 夕菜が声をかけると、女性は少し躊躇いながら口を開いた。


「すみません。私、栄養士なんです。先ほどのお話、興味深く聞いていました」


「あら、そう。でも、私の意見には反対?」


「いいえ……実は最近、高齢者の低栄養が問題になっているんです。厳格な制限より、その人に合った食生活の方が大切だって」


 女性は少し緊張した様子で続けた。


「でも、なかなかそういう意見は受け入れられなくて。『栄養指導は教科書通りに』って言われるんです」


 夕菜は静かに頷いた。


「分かるわ。私も若い頃は、教科書通りにしなきゃって思っていた。でも、患者さん一人一人の生活や習慣を無視した医療なんて、本当の意味での治療じゃないわ」


 朝子も会話に加わった。


「私も内科医として、よく感じることよ。特に高齢の患者さんは、長年の習慣を急に変えることで、かえってストレスになることが多いわ」


 女性の表情が明るくなった。


「その通りです! 私も、もっと柔軟な栄養指導ができたらって思っています」


 板前も興味深そうに話を聞いている。


「実は私も、高齢のお客様への対応で悩むことが多くて。さっきは申し訳ありませんでした」


 夕菜は握りを一つ摘みながら答えた。


「謝らないで。むしろ、こういう会話ができて良かったわ。世の中には、言いたいことも言えない人が多すぎる。特に、専門職の人たちはね」


 朝子はビールのグラスを掲げた。


「乾杯しましょう。自由な意見が言える、そんな世の中になりますように」


 グラスが優しく触れ合う音が、店内に響いた。


 その日の夕方、二人は海辺を散歩していた。春の陽は柔らかく、波のさざめきが心地よい。


「あの栄養士さん、嬉しそうだったわね」


 朝子が言うと、夕菜は遠くを見つめながら答えた。


「ええ。きっと、普段は言えない思いを抱えているのよ。私たちの世代は、まだ良かった。今の若い人たちは、何もかもが規格化されていて……」


「でも、あなたは違うわ。いつも自分の信念を貫いている」


「それは、朝子がいてくれるからよ」


 夕菜は朝子の手を取った。


「10年前、あなたと出会えて本当に良かった」


 朝子は優しく微笑んだ。


「私もよ。あなたみたいな人に出会えるなんて、思ってもみなかった」


 二人は肩を寄せ合いながら、夕暮れの海を見つめ続けた。波が寄せては返す音が、静かな時の流れを刻んでいた。


第4章:「最後の手術」


 札幌での講演を一週間後に控えたある日、夕菜は緊急の連絡を受けた。


「先生、大変です!」


 三島が医局に駆け込んできた。


「どうしたの?」


「重症の虫垂炎の患者です。でも、特殊なケースで……」


 三島は言葉を詰まらせた。


「患者さんは、先生の恩師の奥様です」


 夕菜の表情が一瞬こわばった。高山清子、92歳。夕菜の恩師である故・高山教授の妻だ。


「すぐに診察室に案内して」


 診察室では、清子が苦痛の表情で横たわっていた。


「夕菜先生……」


「清子先生、私です。どうされました?」


「昨日から、お腹が痛くて……」


 診察の結果、重症の虫垂炎であることが判明した。しかし、清子は心臓にも問題があり、手術のリスクは決して低くない。


「手術が必要です。でも、リスクは……」


「分かっています」


 清子は静かに微笑んだ。


「あなたの手術なら、安心できます。主人も、きっとそう言うはずです」


 夕菜は深く息を吸い込んだ。


「分かりました。準備を始めましょう」


 手術室に向かう前、夕菜は朝子に電話をかけた。


「朝子、今日は帰りが遅くなるわ」


「大丈夫? 何かあったの?」


「高山先生の奥様の手術よ。虫垂炎だけど、かなりリスクが高いの」


 電話の向こうで、朝子が小さく息を呑む音が聞こえた。


「私も手伝えることがあれば……」


「ありがとう。でも大丈夫。これは、私がやらなければならない手術なの」


 手術室に入る前、夕菜は深く息を吸い込んだ。88歳の手に、メスを握る重みを感じる。


「メス」


 夕菜の声が、静かに手術室に響いた。


(高山先生、見ていてください)


 手術は予想以上に難しかった。虫垂は既に穿孔しており、腹腔内は炎症で一面が赤く染まっていた。しかし、夕菜の手は少しも震えない。


「血圧が下がってきています」


 麻酔科医から声が上がった。


「大丈夫。もう少しよ」


 夕菜の額には汗が光っていた。しかし、その目は冷静そのものだ。


 手術開始から2時間。ようやく最後の縫合が終わった。


「手術終了」


 夕菜の声が、静かに響く。


 手を洗っていると、三島が近づいてきた。


「先生、素晴らしい手術でした」


「ありがとう。でも、これが私の最後の手術になるかもしれないわ」


「え?」


「来月から、少し働き方を変えようと思うの」


 夕菜は穏やかな表情で続けた。


「もう、緊急手術は受けないことにするわ。外来と、予定手術だけにしようと思うの」


 三島は言葉を失った。


「でも、どうしてですか? 先生なら、まだまだ……」


「そうね。でも、いつかは決断しなければならない時が来るの。今日の手術で、それを感じたわ」


 夕菜は手を拭きながら、静かに言葉を続けた。


「高山先生は、80歳で引退を決意したの。その時、私は『まだできるはずなのに』って思った。でも今なら分かるわ。先生の決断の意味が」


「それは……どういう意味でしょうか?」


「全てを完璧にできるうちに、次の世代に道を譲ること。それも、私たち医師の責任なのよ」


 三島の目に、涙が光った。


 その夜、夕菜は珍しく一人で飲んでいた。行きつけの小さな居酒屋で、いつものように中ジョッキのビールを前に。


「先生、今日は朝子先生は?」


 店主が声をかけてきた。


「ええ、今日は当直なの。でも、これも良いわ。たまには一人で考え事をする時間も必要でしょう?」


 ビールを一口飲んで、夕菜は続けた。


「私ね、今日大切な決断をしたの」


「へえ、どんな?」


「少し、仕事を減らすことにしたの。年齢のことじゃないのよ。ただ、次の世代にもっと機会を与えたいって思って」


 店主は静かに頷いた。


「でも、完全には辞めないんでしょう?」


「ええ、それはできないわ。医師であることは、私の人生そのものだもの」


 その時、スマートフォンが鳴った。朝子からのメッセージだ。


『手術、お疲れ様。今日は特別な日になったみたいね』


 夕菜は少し驚いた。


『どうして分かったの?』


『あなたの声を聞いただけよ。電話の時から、何か決心したような声だったもの』


 夕菜は思わず微笑んだ。


『さすがね。でも、私の決断は覆せないわよ?』


『ふふ。あなたの決断なら、きっと正しいわ。私が保証する』


 夕菜はスマートフォンを胸に抱きしめるように持った。


 マンションに戻ると、見慣れない靴が玄関に置いてあった。リビングには、朝子が待っていた。


「えっ、当直は?」


「代わってもらったの。今日は、あなたと一緒にいたかったから」


 テーブルには、夕菜の好きな焼酎と、湯豆腐が用意されていた。


「座って。今日のこと、全部聞かせて」


 夕菜は深いため息をつきながら、ソファに身を沈めた。


「私ね、高山先生の最期の手術を思い出したの。その時、先生は『完璧な手術だった』って、笑顔で言ったのよ。そして次の日、引退を表明した」


 朝子は黙って聞いている。


「今日、清子先生の手術をしながら、その意味が分かった気がしたの。医師として、自分の限界を知ることも大切なのね」


「でも、あなたはまだまだ現役よ」


「ええ。だからこそ、少しずつ形を変えていきたいの。予定手術だけなら、もっと丁寧に、もっと確実にできるはず」


 朝子はワイングラスを手に取った。


「そうね。あなたの技術は、若い医師たちにとって大切な財産だもの。それを、もっとゆっくり伝えられるようになるわ」


 夕菜も焼酎を一口飲んだ。


「札幌での講演、良いタイミングだったわ。『高齢医師と医療の未来』……私の経験が、何かの参考になればいいんだけど」


「きっとなるわ。あなたは、ただ長く働いているだけじゃない。自分の生き方に、誇りを持って生きてきたもの」


 窓の外では、雪が静かに降り始めていた。


第5章:「降り積もる雪の夜に」


 札幌の街は、まだ春の雪に覆われていた。講演会場のホテルの一室で、夕菜は原稿に目を通していた。


「緊張する?」


 朝子がコーヒーを差し出しながら聞いた。


「ええ、少しね。でも、良い緊張感よ」


 夕菜は窓の外を見やった。雪が舞い落ちる様子が、どこか懐かしい。


「私が研修医だった頃、札幌で働いていたことがあるの。その時も、こんな風に雪が降っていたわ」


 朝子は夕菜の横に座った。


「どんな研修医だったの?」


「そうねえ……必死だったわ。でも、楽しかった。毎日が新しい発見の連続で」


 夕菜は少し考え込むように言葉を続けた。


「当時は、女性の外科医なんてまだ珍しかったの。『女性に手術は無理』って、よく言われたわ。でも、私は諦めなかった」


「今でも、その強さは変わっていないわね」


「そうかしら? 私はただ、自分の道を歩いてきただけよ。それが、たまたま人と違っていただけ」


 その時、ホテルの従業員がノックをしてきた。


「高坂先生、そろそろお時間です」


 講演会場には、200人以上の医師が集まっていた。若手から、夕菜と同世代のベテランまで、様々な年齢層が見える。


 夕菜は壇上に立ち、深く息を吸い込んだ。


「皆様、本日は『高齢医師と医療の未来』というテーマで、お話をさせていただきます」


 会場が静まり返る。


「私は先日、一つの決断をしました。88歳になる外科医として、少し働き方を変えることにしたのです」


 聴衆から、小さなざわめきが起こった。


「でも、これは引退ではありません。むしろ、新しい挑戦の始まりだと考えています」


 夕菜は、ゆっくりと言葉を紡いでいく。


「医療の現場で、高齢化は避けられない問題です。でも、それは本当に『問題』なのでしょうか?」


 会場の空気が、少し変わった。


「確かに、体力は衰えます。反応速度も、若い頃には及びません。でも、経験という財産は、年と共に増えていくのです」


 夕菜は、自分の手を見つめた。


「この手で、何千という手術をしてきました。その一つ一つが、私の財産です。そして、その財産は次の世代に受け継がれていくべきものです」


 前列には、若い医師たちの真剣な表情が見える。


「私たち高齢医師に必要なのは、自分の限界を知ることです。そして、その限界の中で、最大限の力を発揮すること」


 夕菜は、会場の後ろに座っている朝子と目が合った。朝子は静かに頷いている。


「そして若い医師の皆さんに伝えたいのは、年齢は決して障壁ではないということです。大切なのは、自分らしく生きること」


 講演は1時間以上続いた。質疑応答では、多くの質問が飛び交った。若手医師からベテランまで、それぞれの立場での悩みや期待が語られる。


 最後に、一人の女性医師が立ち上がった。


「先生、一つだけ教えてください。先生はどうやって、これほど長く現役を続けられたんですか?」


 夕菜は少し考えてから、微笑んだ。


「それはね、二つの秘訣があるの。一つは、好きなことを諦めないこと。私の場合は、お酒と手術ね」


 会場から笑いが起こった。


「もう一つは、自分の人生を、誰かと分かち合うこと」


 夕菜は、また朝子と目が合った。


「人生には、色んな困難があります。でも、分かち合える人がいれば、それは困難ではなく、むしろ豊かな経験になるのです」


 講演が終わると、多くの医師が夕菜の元に集まってきた。質問や感想、そして励ましの言葉が次々と寄せられる。


 その夜、夕菜と朝子は予約しておいたすすきののカニ料理店で、ゆっくりと食事を楽しんでいた。


「素晴らしい講演だったわ」


 朝子がビールを注ぎながら言った。


「本当? 私としては、まだ言い足りないことが山ほどあったんだけど」


「それは、また次の機会に取っておけばいいじゃない」


 夕菜は蟹の身を箸でほぐしながら、窓の外を見やった。雪は、まだ静かに降り続いている。


「ねえ朝子、明日は観光する? 札幌時計台とか、行ってみない?」


「いいわね。その前に、朝市で海鮮丼を食べましょう」


「もう食べる約束? 今、カニを食べてるのよ?」


 二人は顔を見合わせて笑った。窓の外では、雪が街を優しく包み込んでいった。


第6章:「それぞれの幸福論」


 春の陽気が心地よい日曜日の午後、夕菜と朝子は自宅のベランダでくつろいでいた。札幌から戻って一週間が経ち、夕菜の新しい生活リズムも少しずつ形になってきていた。


「今日の天気は最高ね」


 夕菜はビールを一口飲みながら、青空を見上げた。


「そうね。こんな日は、やっぱりベランダが一番よ」


 朝子は小さなテーブルに、枝豆と湯豆腐を並べていく。


「私ね、この前の検査結果を見たのよ」


 朝子が静かに言った。夕菜は驚いたように朝子を見た。


「あら、珍しいわね。あなたも健康診断なんか受けるようになったの?」


「ええ。そろそろ私も、自分の体と向き合わなきゃって思って」


 朝子は少し言葉を切った。


「実は、少し気になる数値があって……」


 夕菜は静かにビールを置いた。


「大丈夫? 深刻なの?」


「いいえ、そんなことないわ。ただ、コレステロールが少し高めで。でも、私なりの対処法を考えたの」


「どんな?」


「毎日少しずつ、ベランダで体操することにしたの。そして、大好きな赤ワインは諦めないで、かわりに魚を多めに食べることにしたわ」


 夕菜は安心したように笑った。


「さすが医者同士のカップルね。自分なりの対処法を見つけるなんて」


「あなたから学んだのよ。健康のために何もかも我慢するんじゃなくて、自分らしく生きながら、できることをする」


 夕菜は朝子の手を取った。


「私たち、お互いから学び合ってるのね」


「そうね。私はあなたから、自由な生き方を学んだわ。あなたは私から、少しだけ慎重になることを学んで」


 二人は顔を見合わせて笑った。春の風が、ベランダの風鈴を揺らす。


「そういえば、高山先生の奥様、退院されたわよ」


「ええ、順調に回復してるって聞いたわ。来週、お見舞いに行こうと思ってるの」


 夕菜は湯豆腐を箸で掬いながら言った。


「私の最後の緊急手術の患者様だものね」


「でも、あなたの新しい人生は、まだ始まったばかりよ」


 朝子はワインを一口飲んで続けた。


「予定手術も、若い先生たちの指導も、きっとやりがいがあるはず」


「そうね。実は昨日、三島が相談に来たの。『高齢者外科のスペシャリストとして、若手の育成プログラムを作りませんか』って」


「素敵じゃない。あなたの経験を、次の世代に伝えていけるわ」


 夕菜は空を見上げた。春の雲が、ゆっくりと流れている。


「私たちって、幸せよね」


「ええ、とても」


「世間で言う『理想の老後』からは、かけ離れてるかもしれないけど」


 朝子は静かに微笑んだ。


「それがいいのよ。私たちには、私たちの幸せがある」


 夕菜はまたビールを手に取った。


「ねえ朝子、今夜は何を作るの?」


「あら、もう夕食の話? まだお昼も終わってないのよ」


「だって、楽しみなんだもの。あなたの料理と、美味しいお酒と、穏やかな時間と」


 朝子は少し考えてから答えた。


「今夜は、鯖の味噌煮にしようかしら。あなたの好きな大根おろしをたっぷり添えて」


「それに焼酎のロック?」


「もちろんよ。でも、その前に昆布だしも用意しておくわ」


 二人は顔を見合わせて笑った。ベランダに置かれた小さな草花が、風に揺れている。


「朝子」


「なあに?」


「これからも、一緒に年を重ねていこうね」


「ええ、もちろんよ」


 朝子は夕菜の肩に頭を寄せた。


「私たちには、私たちの生き方がある。それで十分よ」


 春の陽が二人を包み、風鈴が静かな音を響かせていた。時が緩やかに流れ、それは限りなく愛おしいものだった。


                    (完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ