006:領主の鑑
幸いにも声は出ていなかったようだ。メイベルが“使用人らしく”姿を隠さなければとまごまごしている内に、彼は既に、目の前に立っていた。
「……もしかして、あの男を見ていたのか?」
なんのことかと思えば、メイベルが考え事をしている間中、視線の先に誰かいたらしい。今はフェリックスに遮られて見えない。メイベルが誰か確かめようと首を伸ばしたが、フェリックスが微妙に身体を動かし、隠してしまった。
「ジェームズのことが気になるのか?」
“誰か”はジェームズと言う人らしい。オルタンシア公爵家ではよほど身近に世話をしてくれる使用人以外は姿を見せてはいけないことになっていた。そうでなくとも、メイベルの秘密を守る為、オルタンシア公爵夫人は、彼女の世話をする人間を制限していた。
メイベルは公爵家の城館では多くの種類の仕事があり、たくさんの人間が働いていて、彼らがいなければ自分たちの生活は何も立ちいかなかったことを、知識ではなく実感した。そして、それがどんなに大変なことなのか、ただ知っている素振りをしていた。自分の名前すら憶えていないメイベルからの気まぐれの労りの言葉を、オルタンシア公爵家の使用人たちはどんな気持ちで聞いていたのかと思うと、恥ずかしくなった。
フェリックスからは息を吸うように使用人たちの名前が出てくる。メイベルの視線に熱が帯びた。
するとフェリクスは眉間の皺を深くした。
「彼のことを知りたいのか?」
それから奴はやめておけ。愛想の良い男で、皆に親切だが、婚約者がいる。この秋に結婚する予定だ。相手はこの館の侍女で、よく気が付く、裁縫が得意な娘らしい。夏至祭の時に仲良くなって、もう二年の付き合いらしい。ほら、今から一緒にお祈りに行くのだろう。待ち合わせをしているのだ――などと必要以上の情報を滔々と語った。
「ジェームズに仕事でも手伝ってもらって、ちょっと優しい言葉でも掛けられたの……か?」
(本当によくご存じだわ。こんな方から認められたら、きっと嬉しいでしょう)
フェリックスの発音はエンブレア語のお手本のような明瞭で美しいものだったが、一度にたくさん話されると、全て正確に聞き取るのは難しかった。
その為、メイベルの耳には、フェリックスは使用人の働きぶりを讃え、お似合いの二人の結婚を祝福しているように伝わる。
サラ・ロビンのこともあった。メイベルはならず者の言葉を思い出していた。「サラ・ロビンかよ。公爵の愛人だからって、偉そうに――」
そういう話は他でも耳にしたが、ただの言いがかりだ。
あの時のサラ・ロビンの憤り。何よりも、若くして夫を亡くした女性は、生活の為に再婚を勧められ、それに従うのが専らな中で、彼女は夫が残した思い出と馬と共に生きることを選び、フェリックスはその意を汲んだ。
それが、面白くないのだ。サラ・ロビンを公爵の愛人と貶めることで、彼女の自立を否定している。ほら、やっぱり男がいないと生きていけないのだろう――と。そういう考え方は、”花麗国”もエンブレア王国も同じようだ。そのせいもあって、サラ・ロビンは故郷である公爵家の本領を捨て、この新しい地へ移って来た。
(でも公爵閣下は違う)
憐みでも、下心でもなく、一人の優秀な馬丁として雇っている。
そのような考え方をする人間を、メイベルはこれまで見たことがなかった。
少し屈んで雑用係と目を合わせて話してくれるのも、信じられないことだ。こんな自分ですら、一人の人間として接してくれているのだと思わてくれた。
頻繁に眉間に皺を寄せるが、怒っている訳ではなく、癖のようなものらしい。そうと分かれば、次第に恐ろしさは薄れていく。
(父のように、使用人たちを理由もなく折檻したりはしない)
メイベルは感心した気持ちでフェリックスを見上げたが、当の本人は片手を額にやって、難しい顔だ。どこか苦しそうにも見える。
“ご気分が悪いのですか?”
先だって、メイベルはフェリックスに小さな帳面と鉛筆を与えられていた。サラ・ロビンは「私にはさっぱりだね」と苦笑し、城館の使用人たちとはそもそもやり取りが少なかったこともあって、字で会話しているのはほぼフェリックスとだけだった。
「……いいや、何でもない。
ところで、今日は休日だろう。どこかに遊びに行くのか?」
フェリックスが使用人のこともよく気にかけていると思っているメイベルは、その少々、踏み込みすぎの問いかけを素直に受け取る。
“サラ・ロビンが戻ってきたら、街へ出かけます”
「そうか、何か美味しいものでも買うといい。給金の他に休日用の小遣いはきちんと貰っているか?
サラ・ロビンの料理はひどいだろう」
メイベルは驚いた。そんなことまで知っているのかという意味ではなく、やっぱりサラ・ロビンの料理はひどいのだということに。自分が贅沢な生活をしてきたせいだと思っていたので、ほんのちょっぴり心が楽になる。
「サラ・ロビンは食べ物に興味がないらしい。生きている頃は、旦那が作っていた。馬の方がいい物を食べていると」
面白い話題のような語り口でありながら、フェリックスの眉間の皺は深いままだ。
”サラ・ロビンは自分より馬の方が大事なんです”
「そうだな」
僅かに表情が和らいだので、メイベルは嬉しくなる。しかし、すぐに元に戻ってしまった。
沈黙が落ち、フェリックスは明後日の方を向いて「”宵闇”の様子を見に来たのだった」と呟いて、厩へ向かった。メイベルが付いてこようとしたので、止める。
「君は今日、休みだろう」
それに対して、返答しようとしたメイベルだったが、手に痛みが走り、鉛筆を持てなかった。
彼女の柔らかだった手は、短期間で荒れてしまい、何かの拍子でぱっくりと割れてしまうのだ。
フェリックスの手が差し伸べられ、メイベルは一瞬、自分の手が取られると思った。けれども、その手は途中で止まる。
指が長くて大きい。そして優しくて暖かいことを、知っている。あの夜、自分を助けてくれた手。
途端に頬が赤らむ。
ふりなのか、本当に知らないかは分からないが、フェリックスの態度は彼女にあの夜のことをあまり思い出さなくて済む効果があった。もっとも、何かのきっかけでこのように記憶を呼び出され、その度に自分が彼の手で衣服を脱がされた事実に突き当たるのだ。それから二人、裸で抱き合って寝たことも。
でも、何も起きなかった――。
メイベルが俯いていると、視界の中で、フェリックスの手が空で握られた。強い力がこめられているのか、関節が白くなっている。それを見ると、どうしても殴られるかもしれないと身構えてしまう。
勿論、そうではないのだ。
「薬は塗っていないのか? 必要ならば用意しよう。その手では仕事にも支障が出るだろう」
その言葉に、メイベルはもう何度目かも分からない恥ずかしさを感じた。チェレグド公爵は真摯に使用人を心配し、自身の至らなさにこそ、怒りを向けるような人だった。
急いで腰に付けた布袋から軟膏の容器を見せる。
きちんと薬は塗っていることを知ってもらいたかった。もっとも、その購入の経緯となると別だ。
メイベルは行商人に騙されていた。行商人の弁舌は巧みだった。この薬はとても手荒れに効く逸品で、同じように手を酷使するサラ・ロビンにもお礼の品として渡しても喜ばれるだろうと思わされてしまったのだ。サラ・ロビンはその軟膏の効能は認めたが、値段については散々に言われた。「これは特別珍しいものじゃないよ。しかもなんか匂いがおかしいね。古いものかもしれない。もっと安く買い叩けるのに、そんな大枚を払ったのかい? もうちょっと考えてお金を使うんだね。今のあんたじゃ子どもにだって、金を騙し取られるよ……え? 街で子どもに金をやった? お使いに必要な金を落として困っていたからって……あんた本当に馬鹿な娘だねぇ。そんなの詐欺の常套句だよ。まったく無駄遣いするんじゃないよ」
彼女はお金の使い方も、物の価値も分からないことばかりだ。今日も街へ行くのはマティアスを探しにいくよりも、市場調査だった。いつか自分がマティアスの居場所を見つけ、会い行くのに、どんな方法があって、どのくらいのお金がかかるのか調べ、貯めないと。フェリックスからもらった帳面は、会話よりも、様々な情報で埋まっていた。
サラ・ロビンの言う通り、無駄遣いしている場合ではなかった。しかし、街に行くだけで、何くれとなくお金がかかる。サラ・ロビンは街道を一人で歩くのは危ないから、必ず城館の人間に少し包んで、荷馬車か何かに乗せてもらうように口酸っぱく言う。街に行けば、粗末だが、普段の食事よりは口に合う食べ物がある。その誘惑に、メイベルは勝てなかった。街の広場で何もしないで佇んでいるのは怪しまれる。あのならず者にまた会うかもしれない。食事処なら滞在する理由もあるし、出される料理は美味しい上に、たくさんの人が集まって、様々な噂話に触れられる場所だ。無駄遣いかもしれないが、必要だと考えた。
その中では、”海の未亡人たち”の話だけでなく、チェレグド公爵の話題もよく上がった。
(女の人との話もたくさん聞いたけど……)
目の前のフェリックスは一向に”宵闇”の様子を見に行こうとしない。
先ほどの拳はもう解かれ、所在なさげにメイベルから受け取った軟膏の容器を弄んでいる。
(立派で心優しい公爵さまだもの)
王都では数々の浮名を流しているらしいが、それも最もだと頷くしかない。
街の人々は、フェリックスを揶揄している口ぶりではなく、うちの公爵閣下は男前だからもてるのだと誇らしい気持ちで、あたりを憚らず噂するのだ。
実際、王都から何通も手紙が届く。その中には騎馬で運ばれてくるものもあって、国政に関する重要なものに加え、お金がある貴族の令嬢や未亡人たちからのものも多かった。
フェリックスは貴族の令嬢からの手紙には興味がなさそうだが、未亡人たちのものは待ちわびているらしい。「サラ・ロビンといい、公爵閣下は未亡人好きのようだ」「未婚の若い娘では、父親たちが黙っていないからだろう。すぐに、ならば我が娘を公爵夫人に! と騒ぎ立てられるのが煩わしいのさ」などと囁かれていた。
だから休みの日だと言うのに、街道から騎馬がやって来た時も、メイベルは至急の報か、たくさんお金を包んだご令嬢か、その父親からの手紙かと思ったのだ。