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005:再会の日

 その日は唐突にやって来た。

 サラ・ロビンは朝から湯を沸かし始めた。雑用係と言っても、メイベルは火もおこせないし、重いものも持てない。まさに“一体全体、何が出来る”のか。自分でも分からない。

 たっぷりのお湯を大きな盥に満たすと、サラ・ロビンはメイベルの身ぐるみを剥いで、そこに入って身体を洗うように命じた。


「扉には閂をかけてあげるから、髪も身体もすっかり綺麗にするんだよ。……それくらい、自分でも出来るだろう?」


 そう言って、これまで着た服を持って行ってしまった。「あとで新しい服を持ってくるからね」

 この頃になるとメイベルも、サラ・ロビンの話し方や態度にも慣れてきた。

 言われるままに、お湯に浸かり、髪と身体を洗う。

 すぐにお湯が黒くなって、メイベルも驚いた。汚れの下から、白い肌と傷跡が現れる。彼女の身体には、父親と”母親”の手でつけられた傷がたくさん残っていたのだ。あの嵐の夜についた傷も新たに加わって、一層、自分がみすぼらしく見えた。『これじゃあね』そう呟いてから、メイベルは首を傾げた。何が『これじゃあね』なのだろうか。

 それから特に醜くく目立つ右腕にある”傷跡”に触れた。


『マティアス……あの話は本当なのかしら?』


(待って――誰かいる?)


 メイベルは生き物の気配を感じた。

 サラ・ロビンの家は、母屋のすぐ隣に厩があった。“宵闇”たちの気配をいつも感じられるようにだ。だが、その“いつも”とは、違う。

 身を守るようにして、出来るだけ深く、たらいに入る。


(サラ・ロビンはどこに行ったのかしら……)


 お湯はどんどん冷めていき、メイベルの不安が募る。服がなければ、外に出られない。それを知って、サラ・ロビンは自分の服を持って行ってしまったのではないか。


(新しい服を持ってきてくれると言っていたはず……)


 メイベルの疑惑が頂点に達しようとした時、サラ・ロビンが扉を叩き、「入るよ!」と声を掛けてくれた。手には新しい服がある。


「どうしたんだい? まさか身体の洗い方も知らなかった訳じゃないだろうね?」


 そうではないことはすぐに分かった。傷は消せないが、メイベルの薄汚れた肌はすっかり綺麗になり、髪の毛は日に輝いている。新しい服を着せれば、どこかの貴族の若さまだ。


「あら、立派なもんだ。

これなら公爵閣下にご挨拶しても失礼にはならないだろう」


『――!?』


「チェレグド公爵閣下に、ご挨拶するんだよ」


 理解できなかったと思ったのだろう、サラ・ロビンがゆっくりと念を押した。

 

 ここはチェレグド公爵家の厩で、“宵闇”がいるのだから、当然、彼はやって来るであろう。しかし、雑用係からわざわざ挨拶を受けることは、当たり前ではない。

 そこまで考えて、彼女は唇を噛む。そうだ、ここはオルタンシア公爵家ではない。今まで常識だと思っていたことは通じないようだ。


 あの嵐の夜からしばらくぶりに会ったフェリックスの視線が、鋭くメイベルの姿を捉えた。俄かに緊張が襲う。


「君がサラ・ロビンの見つけてきたと言う雑用係か?」


 まるではじめて会うような口ぶりだった。あのならず者のように、自分だと気づいていないのかもしれない。

 メイベルは安堵したような、残念なような複雑な気持ちになった。


(なぜ、覚えていて欲しいなんて思ってしまったのかしら……そうじゃない方が余程、いいのに)


「――名前は? 君の名前を教えてくれる?」


 眉間に深い皺を寄せて、フェリックスはメイベルに尋ねた。 

 今更ながらメイベルは、サラ・ロビンが名前も知らない自分を雇ってくれていたことを不思議に思った。ありがたいが、彼女は独り身として警戒心は高い。それなのに、こんな身元の怪しい人間を家に入れるなんて。


「口が利けないのならば、字は書けるか?」


 フェリックスの問いに、メイベルは深く考えずに頷いた。字には訛りが出ないと思ったのだ。彼女は庶民の識字率を知らない。

 拾った枝で、地面に“マティアス”と書く。


「マティアス!?」


 フェリックスは怒ったように地面に書かれた名を読んだ。「それは君の名前じゃないだろう」小さく吐き捨てる。


 メイベルは殴られると思い、身を竦めたかけたが、すぐに、フェリックスを真っ直ぐに見つめた。

 自分は嘘など付いていない。少なくとも、人生の大半をマティアスとして生きてきた。むしろメイベルという娘こそ存在しない人間で、誰かに名乗ったこともない。本当のマティアスが見つかるまでは、自分がマティアスとして生きると決めていた。


(殴りたいなら、殴ればいいんだわ)


 確かに、自分は”強情な娘”のようだ。だから、いつも父親は自分を殴っていた。


「……分かった、君はマティアスだ」


 静かに、フェリックスは認めてくれた。

 それから、メイベルの顔を、しばらくもの言いたげに見つめると、「これからよろしく」と言い残し、“宵闇”の方へ向かった。


「ただいま“宵闇”。

……そう怒るな。俺もお前を置いていくつもりはなかったのだが、マイラ夫人がどうしても、今回は馬車で行けとうるさくてな。泣かれてしまっては、断れない。

用事を済ませて、やっとここに戻ってこられたんだ」


 “宵闇”はひと月近くもご主人さまと離れ離れになって拗ねていた。

 詫び代わりにフェリックスが直々に“宵闇”の世話をすることになり、サラ・ロビンに促され、メイベルはその補佐をすることになった。

 馬体を熱い布で拭き、鬣を梳く。


「……せっかく、綺麗になったのに、すぐ汚してしまったな」


 なんのことかと思ったら、“宵闇”ではなくメイベルのことらしい。先ほどの湯あみが台無しだ。

 頭に藁が乗っている。それをフェリックスがそっと外してくれた。

 それなのに、メイベルは男の手が自分の方に上げられた瞬間、歯を食いしばっていた。

 フェリックスは、ちょっと首を傾げ、その態度を不審そうに見る。


「すまない。私が驚かせてしまったのだね」


 勝手に誤解しただけなのに、謝られた。

 メイベルは申し訳ない気持ちになった。殴られると思うなんて、この公爵に対しては失礼なことのようだ。


 それから、フェリックスは馬に乗って視察に出かけてしまった。それがいつもの習慣なのだと、サラ・ロビンは教えてくれた。「いつも領地や領民のことを考えて下さっている」

 ――そして、城館で働く人々にもさまざまな便宜を図ってくれている。



 ***



 週に一度の休日。

 メイベルは街に出かける準備をして、厩の側で座っていた。

 城館の人も、街の人も、この時間はお祈りに出かけている。サラ・ロビンも一張羅を着て行く。「あんたにもその内、用意してあげる。だけど、そのままで参加したって、誰も怒ったりはしないよ。こういうのは気持ちなんだから」

 サラ・ロビンは誘いを断ったメイベルに、気を悪くする様子を見せなかった。むしろ「これまでは他の人間に留守を頼んでいたけど、あんたがいればその必要もないし、ベルと同じ時間に行けるのがいいわね」と館で仲の良い使用人と連れ立って行った。

 そんな訳で、メイベルは留守番をしつつ、一人、心の中で祈りを捧げる。


(マティアスとお母さまが無事に再会出来る日がきますように)


 けれども、どうやらマティアスは”海の未亡人たち”と呼ばれる海賊……エンブレア王国からすると私掠船の一員のようだ。”花麗国”で捕まれば即、絞首刑の身の上である。エンブレア王国内でだって、そう大っぴらに身元を明かしているとは思えない。捜索は難航しそうだ。


(それに私掠船なんて、海賊と何が違うの!)


 メイベルは自分の肩を抱いた。オルタンシア公爵家に海賊たちが入り込んだのはいつ頃だったろうか。彼らはオルタンシア公爵に取り入り、館と港を自分たちの根城にしてしまった。その軍事力を借りて、オルタンシア公爵はエンブレア王国にちょっかいを掛けているのだが、勿論、無償のはずはない。領民たちはその無法に耐えなければならなかったし、”マティアス”の正体が知られてからは、メイベルと言う娘が、その俗悪な標的になる。領民たちを守るどころか、自分の身も危うい。口惜しく情けなかった。彼女の中で、海賊たちに対して、よい印象などあるはずがない。その海賊と、探し求めて来た”マティアス”がよりにももよって同類なのだ。

 ”海の未亡人たち”は、船を襲い、物を奪っても、人は極力殺さないと聞いたが、メイベルにはとても信じられなかった。大体、”海の未亡人たち”なんて名前、海で働く夫たちを殺して、未亡人たちを生み出す、という意味にしか聞こえない。


(噂ほど、あてにならないものなどないわ。

チェレグド公爵は血と女に飢えた野獣じゃなかった)


 そもそもその話はオルタンシア公爵家を乗っ取った海賊の連中がしていたのだ。


(そう評するのも、当たり前のことだったんだわ)


 だってチェレグド公爵閣下は海賊たちの敵なのだから!――メイベルは顔を上げ、辺りを見回した。思わず口に出て、誰かに聞かれていないか恐れたのだ。

 するとフェリックスがこちらに向かって歩いて来るのが見えた。

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