004:海賊の名
異国の地で、二度目に目覚めたメイベルの前にいたのは、齢三十頃の女性だった。
サラ・ロビンと名乗った彼女は、チェレグド公爵家の馬丁だと言うので、メイベルは驚いた。
それをサラ・ロビンは、自分が女だてらに馬丁をしていることに対してのものと解釈したようだ。
「もともとは夫がチェレグド公爵家の馬丁だったのさ。あたしはその手伝いをしていた。手伝いと言っても、やっていることはほとんど同じだよ。だから、あの人が死んじまった後、公爵閣下にお願いしたんだ。このまま私を雇って下さいって。十分、お役に立ちますからって。
一か八かの頼みだったけど、公爵閣下は許して下さった」
彼女のエンブレア語はメイベルが習ったものよりも、ずっと荒く、癖が強くて、聞き取るのにかなり苦労した。
「あたしが言っていることが聞こえるかい? 分かるかい?」
ゆっくりとした口調で問われたので、頷いてみせる。
サラ・ロビンはメイベルが口を利こうとしないことについては触れないまま、怪我が癒えるまで看病してくれ、行く当てがないと察すると、しばらくここで働くようにメイベルを諭しはじめた。
「家族や身を寄せる親戚は?
……え? いない?
それでこれからどうするつもりだい?
……どこに行こうっていうんだ! 待ちな!
公爵閣下のご威光で随分、この辺りの治安も良くなったが、いくら男のふりをしていても、そんな可愛い顔をしてちゃあ、攫われて売り飛ばされるのがおちだよ」
サラ・ロビンはともすれば、すぐに雑な言葉遣いになってしまうが、メイベルの表情ですぐに察し、子どもに言い聞かせるような口調に直してくれるようになった。
「あんたお足は持っているのか? お足ってのはね、お金だよ、お・か・ね。
あたしへの礼はどうするんだ? 食い物代に薬代、働いて返しな」
荷物は船と共に海に沈んだはずだ。大事な青い花の指輪さえなくしてしまった。
(ここに留まるしかないのだろうけれども……私がオルタンシア公爵家に縁の人間だとチェレグド公爵に知られたら、どうなるのかしら)
チェレグド公爵の名前がフェリックスであることに、メイベルはようやく思い至った。そして、サラ・ロビンが”宵闇”のご主人はチェレグド公爵だと教えてくれた。
つまり嵐の夜に彼女を助けてくれたのは、チェレグド公爵フェリックス・シャルル・ルラローザだったという訳だ。
そして、チェレグド公爵は彼女の父のオルタンシア公爵と激しい敵対関係にあった。
メイベルは周りが、チェレグド公爵は血と女に飢えた野獣のような男だと噂しているのを、ずっと聞いてきた。けれども、あの夜に会った彼は、話とは全く違って、親切で丁寧な人だった。
もっとも、エンブレアの王都で高貴な女性たちを相手にしてきたばかりの公爵にとって、ずぶ濡れで男の格好をしている小娘など、魅力的な相手とは思えなかったという方が正しいのかもしれない。
「公爵閣下は、つい先日、王都から帰ってきたばかりだと言うのに、陛下の呼び出しで、また行ってしまったよ。あの我儘娘の気まぐれで、行ったり来たり。ご苦労なこった。
移動を馬車にしたのは、”宵闇”には可哀想かもしれないが、いい判断さ。マイラ夫人はよく分かっている。あの状態じゃ、いくら”宵闇”だって落馬させかねない」
フェリックスはメイベルが臥せっている間に、再び王都へ向かったようだった。
(今は、決して正体を知られないように、ここで働きながら、マティアスを探す方法とお金を手に入れなければ)
チェレグド公爵とは、しばらくは顔を合わせずに済む。それに彼の目に触れる機会などそもそもないはずだ。自分も”花麗国”で公爵家の”嫡男”として馬に乗っていたが、厩の雑用係の顔も名前も覚えていないのだから。
***
サラ・ロビンの厩で働くこと数日で、メイベルは音を上げそうになった。
父親に軽んじられていたとはいえ、公爵家で育てられた身は、労働には不慣れで無知。いつもサラ・ロビンに怒鳴られるか呆れられるかだ。おまけに、寝床は固く、食事は質素……と言うか、口に合わない。ドロドロの味のない何かを必死に口に押し込む毎日だった。
「何が不満なんだ。美味しいじゃないか。
大体、屋根があって、食べる物があるだけでもありがたいんだよ。
感謝して食べな」
黙々と朝食を咀嚼しながら、メイベルはオルタンシア公爵領の様子を思い出す。
職も家も失った人々が、道で座り込んでいた。市場は活気がなく、農村は荒廃するばかりだ。
そんな有様なのに、領主である父親は、エンブレア王国にいらぬ争いを仕掛け、領地と領民に無用な疲弊を強いていた。
それなのに、”オルタンシア公爵家の嫡男・マティアス”であるはずのメイベルはただ、父親に口答えをする”強情な娘”として殴られることしか出来なかった。
対して、チェレグド公爵とその領地は……と、メイベルはサラ・ロビンに連れられて出た街の様子に目を見張った。
道は綺麗に整備され、店には品物が豊富に並び、それを選び買う人々の財布は重く、顔は明るい。畑には麦が青々としている。
領民たちの話からも、フェリックスが立派な領主であることが伺い知れた。
「今度はあっちに水路を通してくれるらしい」
「女子どもに勉強させろってうるさいのは、かなわねぇ」
「公爵さまが別の領地から連れてきた牛、いい乳が出るらしい。来年はこっちの牛と交配させて増やしていくんだってさ」
「――それから、この間、嵐と海賊に襲われた船があっただろう」
二度目の街。鍛冶屋で“宵闇”が装蹄している間に聞こえてきた話に、メイベルは耳をそばだてた。
「ああ、公爵閣下は助けた者たち全員に金と物をやって”花麗国”に帰したらしい」
「そりゃあ、あんまり親切だな。オルタンシアの人間はいなかったか? もしいたら、俺なら、ただじゃ済まさねぇ」
「それは知らないが、船にはとんでもなく素晴らしいお宝が積んであったらしい」
お宝と言う単語に、人々が集まって来る。
「あの船を襲った海賊、海賊じゃなくって、”海の未亡人たち”だったらしいんだが……」
「”海の未亡人たち”と言えば、”花麗国”の船しか狙わないエンブレアの海賊……いや王家の私掠船か?」
「そうだ。あの”未亡人たち”が、いくら”花麗国”の船相手だからって、あんな嵐の中でわざわざ襲うなんてよっぽどのことがあったんじゃないかって」
メイベルの額に汗が浮かんだのは、鍛冶屋の暑さのせいだけではない。サラ・ロビンは用事を済ませてくると、どこかに行っていた。決して“宵闇”から離れるんじゃないよ、と言いつけられている。
「……ここだけの話、どこかの浜の人間が海に落ちた”未亡人たち”の一味を、こっそり匿ったらしい」
「本当か? そりゃあ良かった」
「”未亡人たち”にエンブレアの船は助けられているからな」
次第に声が小さく聞きづらくなっていく。
「どうした小僧、顔色が悪いぞ」
少し、風にあたりに――と手振りで示すと、メイベルは往来に出た。
そこで佇んでいると、後ろから人がぶつかってきた。相手は自分からぶつかってきたくせに、大げさに痛がった。
「いたたたた! おい、どうしてくれるんだ! 腕がいてぇなぁ!!」
すみません――と咄嗟に出そうになり、口を噤んだ。
「なんだよ、謝罪もないのかよ――っと、見ない顔だな、坊主。いや、お嬢ちゃんか?
うん、お前どこかで――」
あの嵐の夜、フェリックスから逃れることが出来た唯一のならず者だ。
目は落ちくぼみ、頬は痩せ、息は酒臭い。仲間を失った際の恐怖で、精神の均衡を崩しかけている。
男は見たことがあると言ったくせに、あの日の娘だと気づくほど頭が回っていない。それでもなお、欲望だけは健在なのが厄介だった。
「よく見たら別嬪じゃないか。なんだってそんな汚い格好をして働いているんだ。それだけの玉なら、もっと楽な方法で稼げるぜ」
俺が教えてやるからさ、とまたもや彼女を捕まえようとする。
「うちの雑用係に何の用だい!!」
鞭を打つような声が響き、男が嫌な顔をする。
「サラ・ロビンかよ。
公爵の愛人だからって、偉そうに――うわぁ」
今度は本当に乗馬鞭が飛んだ。
地面の石が跳ね、メイベルの身体も震えた。
「馬鹿にすんなよ。この下種野郎!」
男はやり返そうとするが、場所が悪い。すぐに善良で勇敢な人々が集まり、非難の目を向ける。
先ほどまで噂話をしていた鍛冶屋の男たちも、装蹄鎚や火鉗を持って、男を追い払ってくれた。
「“宵闇”から目を離すんじゃないよ!
あんたって子は、本当に何にも出来ない子だけど、馬に関してだけは、ちょっとは見どころがあると思ったのに、それすら出来ないなんて、一体全体、何が出来るって言うんだい!」
顔を強張らせたままの雑用係を見て、サラ・ロビンがバツの悪そうな顔をした。
「なんて顔をしてるんだい。あんたを鞭で打ったりはしないさ。
……それにしても、確かに汚い顔をしているね。
近いうちに、お湯を用意してあげる」
サラ・ロビンはメイベルにそう、約束した。