003:異国の朝
『お母さま、私はここに残ります。オルタンシア公爵家のマティアスが領地と領民を見捨てて逃げることなど出来ません』
『そうね、メイベル。そう、あなたはメイベル。あなたはオルタンシア公爵家の人間ではないわ。私の息子ではないし、娘でもない。公爵が外に作った、ただの庶子に過ぎないわ。このオルタンシア公爵家のいかなる権利も、義務もありはしない。
私が憎むあの女が生んだ、忌まわしい子。ここから出ていきなさい』
厳しい口調と内容だったが、メイベルは”母親”の言葉をそのまま受け取ることをしなかった。”母親”は自分の命の恩人だ。あの恐ろしい事件があったにもかかわらず、彼女を慈しみ育ててくれた。自身も”母親”を慕い、その恩に報いるために、この十七年間、共に苦難の道を歩んできたのだ。
だからこそ、今、”母親”があえて厳しい言葉で突き放そうとしていることが分かったし、その事情も理解出来た。
『あなたの正体が彼らに知られた以上、とても危険な状態にあるのよ。
あなたの身だけではなく、オルタンシア公爵家にとっても。
秘密は決して、外に漏らしてはいけない。だから、ここから出て行くの。
分かるでしょう?』
『……ですが、一体、どこへ?』
『私の叔父のところへ。手はずは整えてあります』
そうして、メイベルは船に乗ることになった。
『お母さま、私、マティアスを見つけてきます。そして、お母さまの元に連れて帰ります。
だから、その時まで、きっとご無事に』
『ええ、ありがとう、メイベル。でも無理はしないで』
もし、本物のマティアスを探し出すことが出来れば、オルタンシア公爵家を救えるかもしれない。
オルタンシア公爵夫人もメイベルも、それは不可能なことだと知っていた。今まで懸命に探して、見つからなかったのだから。それでも、それを希望としなければ、二人は別れることが出来ないだろう。
『この指輪を持っていきなさい。同じ意匠で、花の色が赤いものをマティアスが持っているはずよ』
メイベルは赤ん坊のころに実の母親に捨てられ、父親であるオルタンシア公爵に殺されそうになったが、自分を不運な娘と思ったことはなかった。
たが、どうやら幸運は赤ん坊の時に尽きてしまったようだ。
船は嵐と海賊に襲われた。
混乱の中、追い詰められたメイベルは、索具にしがみ付き、マストの上に逃げようとしたが、強風と激しい揺れで昇ることが出来ないでいた。渦巻く海面が眼下に広がる。
海賊の一人が、メイベルの姿を見つけ、捕まえようとフード付の外套の裾を掴んだ。
メイベルはその手から逃れる為に、深く被っていたそれを脱ぐ。
露わになった姿を見て海賊は「あ!」と声を上げた。それは男だと思ったら女かもしれない――と言った簡単な驚きではなかった。まるで幽霊か何かを見た時のような顔だ。「坊ちゃん!?」
海賊が叫んだ。メイベルがその単語の意味を理解する前に、もう一人の海賊がやって来た。
「お頭と呼べと言っているだろうが!」
「――坊ちゃん!?」
メイベルは“坊ちゃん”と呼ばれた人物を見た。
そして『あっ!』と言って、後ずさった。
後ろには何もなかった。彼女は手すりの上に立っていたからだ。
足を滑らせ、そのまま海に落ちて行く。
『マティアス! マティアスなの!?』
***
嵐はすでに止み、外がうっすらと明るくなりはじめた頃、メイベルは目を覚ました。そのまま、もう一度、眠ってしまいそうなほどの心地良い暖かさに包まれている。
うっとりと目を閉じようとした瞬間、自分の置かれた状況を思い出す。彼女は昨日、出会ったばかりの男の胸に抱かれて寝ているのだ。恐る恐る様子を伺うと、男……フェリックスは寝息を立てている。少し、身じろぎしてみるが、起きる気配はない。熟睡しているようだ。
さらに大胆になったメイベルは、スルリと男の腕から抜け出してみた。肌寒い。見れば素肌にシャツを一枚、羽織っているだけではないか。羞恥に頬染め、まだ眠りについている男の様子を覗えば、彼もまた、ほぼ全裸だったので、慌てて、背を向けた。それから視線だけ動かして、ちらりと見る。
小山のように大きい。引き締まった身体は温かかった――。
その小山が身動きしたので、メイベルは驚いて身を離した。動くたびに身体のあちこちが痛むが、そのどれも、彼が自分に与えたものではないはずだ。彼は約束を守ってくれたに違いない。
しかし、周りに自分の衣服が脱ぎ捨てられている光景は、誰かが見たら誤解されてしまいそうだ。
昨日、彼女を乗せてくれた馬が、身じろぎしたので、人差し指を口に当てる。
(お願い……静かにして。起きちゃうわ。
その前に、とにかくなんとかしないと……)
メイベルが、とても着られるような状態ではない、濡れてボロ布のようになった服を拾い上げると、その下から、昨日の短剣が抜身で出てきた。さらにその近くには鞘に納まった長剣も転がっている。意匠を凝らした短剣とは異なり、こちらは武骨でいかにも実用的なものだ。
彼の大きな体に相応しく長大で重そうで、メイベルには扱えそうにない。それを昨夜、彼は軽々と振るい、ならず者を切り殺した――自分の頬にかかった生暖かい血の感触を思い出し、また背筋が寒くなる。
昨晩のように短剣を鏡の代わりにして確かめると、額の傷はひどいが、頬には雨の跡も、血の跡も残っていない。誰かが綺麗に拭ってくれたようだ。その誰かとは、勿論、彼なのだろうが。
(恐ろしいけれども、優しい方。
フェリックスと言ったわね。一体、どういう方なのかしら?)
どこかで聞いたことのあるような名前でもある。
頭が割れるように痛くて、考えがまとまらない。
メイベルがもう一度、短剣の中を見ると、もう一人の自分が、彼女を見つめていた。
あの嵐の中の船の上で自分が見た顔、夢で見た顔と、同じ。
『そうだわ、マティアス……!』
彼女は自身の動揺が伝わって、フェリックスが起きないように、必死で自制したが、心臓が早鐘のように鳴る。
自分はマティアスを見つけたかもしれない。
すぐに探しに行きたい――が、着られるような服がない。
”母親”から預かった指輪もなかった。これは昨晩の段階で無かったような気がする。海か浜に落としたのだろう。
(どうしたらいいの……)
途方に暮れるメイベルを、まさしく導くかのように、板を打ち付けた窓の隙間から差し込んだ朝日が、部屋の隅に置かれている漁網の山を指示した。
メイベルは音を立てないようにゆっくりと動き、漁網をどかしてみれば、そこには箱があり、中にはなんと、乾いた衣服が一式入っているではないか!
おそらく漁師たちが着替えの為に隠し置いていたのだろう。メイベルは深く感謝した。勝手に拝借することに躊躇はあったが、背に腹は代えられない。痛む身体に顔を顰めながら、なんとか着替えると、震える足で立ち上がる。
身体はすっかり温まっていた。いっそ熱いくらいだ。この震えと熱さは期待と希望からくるものだろうと考える。
メイベルが乾いたシャツを持ち主の元に戻すと、フェリックスはそれを掴み、身を丸めた。起きる様子はないので心配になるが、ここで愚図愚図することは出来ない。
『ありがとう……私、行かないと。マティアスが待っているから』
外に飛び出た彼女を、フェリクスの愛馬が追っていく。
***
普段のフェリックスならば、腕の中から人一人いなくなったのに気が付かず眠り続けるような人間ではなかった。だからこそ、助けたはずの娘がいなくなっていることに、愕然とせずにはいられない。
もしかしてあの娘は夢か幻だったのか。
「いや、ならなんで“宵闇”までいないんだ!? 認めろ、俺はとんだ間抜けだ!」
立ち上がると、何かを蹴とばした。
「あっぶな……」
彼の長剣だ。昨夜、メイベルを寝かしつけた時、フェリクスはそれを身から遠ざけていた。少しでも寝心地を良くしてあげたいと思ったからだ。
「あっぶねぇ」
フェリックスの心音が高まる。
自分はエンブレア王国の筆頭公爵。もしかすると、寝首をかかれたかもしれないのだ。自分で自分が信じられない。これは大変な失態だ。こんな愚かな真似をするなんて、信じられない。
背後ですっかり炭化した薪が崩れた。
彼は長剣の柄で窓の板を破る。太陽が小屋中を照らす。
昨晩の娘が着ていた服があった。間違いなく彼女がいた証拠だ。
「中身はどこに行った? まさか何も身に着けずに外に出て行くはずがない」
あの暗闇の中でも、あれだけ恥じらっていたのに?
白い裸体が脳裏に浮かび、慌てて頭を振って追い出す。
今はそんなことを考えている場合ではない。
夜半過ぎにはひどい熱を出していたのだ。長く動けるほど、体力が回復しているとは思えない。どこかで倒れているかもしれない。すぐに探しに行かないと――。
『マティアス……どこなの? 探しに行くから……マティアス!』
うなされながら、彼女は必死でその名を呼び続けていた。
「マティアスとは誰だ? そいつを探しに行ったのか?」
誰とも知らぬ男の名前を口にすると、苦い味が広がる。
服を着なおし、剣を佩くと、フェリックスは苛立ちと焦燥を引き連れて、外に飛び出した。