021:喫水の差
その日の朝は、妙に静かだった。
「おはよう。”マティアス”殿。
よく眠れたようで、良かったわね」
目覚めたメイベルは、マイラ夫人の冷ややかな視線に晒されていた。
窓から差し込む日は高い。
厩の雑用係としては、あまりにも寝坊だ。
そもそも、ここは彼女が居てよい場所ではない。
チェレグド公爵の寝台を、一晩どころか、昼過ぎまで占領していた。
これはある意味、快挙だ。
「あ……あの……申し訳ありません。
つい、寝てしまったようです……公爵閣下は?」
マイラ夫人はメイベルの声をはじめて聞いた。
なるほど、耳に心地よい。おまけにエンブレア語の発音の美しさよ。生粋のエンブレア人と言ってもおかしくない。ただし、厩の雑用係ではなく、貴族の生まれだ。
「あなた、エンブレア語が、とてもお上手ね。どこで習ったのかしら?」
フェリックスからは好きに寝かせて、起きたら帰すように命じられていた。サラ・ロビンは夜中に乗り込んできた。メイベルが熟睡しているのを見て、「本当は毎晩、こんな立派な寝台で寝ていたんだろうよ」と哀れんだ後、「でも今は、私の雑用係だ。この一大事に! 叩き起こしてやる!」と無理やり揺り動かそうとした。
それを押しとどめて、一旦、帰らせる。「明日、起きたら連れて行くから、今夜は寝かせておきなさい」
マイラ夫人はネイサンとマーゴットにしてやられて自尊心が傷ついていた。それもこれもこの得体の知れない娘を野放しにしていたせいだ。
一度、メイベルとキチンと話さなければならないと思ったのだ。話が出来るのは好都合だ。
もっともメイベルは、マイラ夫人の口ぶりに警戒してしまった。もう話さない。
「困った娘だね。
フェリックスさまは早朝に攻め込んできたオルタンシアの海賊たちと戦っている。そんな状況で、身元の知れない娘を囲っているなんて――」
「なんですって!」
メイベルは堪らず部屋から飛び出した。
***
向かったのはあの対岸が観える崖の草地だ。
今はもう、そこが自分の故郷であることを知っている。
海ではオルタンシア公爵が雇った海賊の船と、チェレグド公爵が新造したばかりの軍艦が戦っていた。
メイベルはやはり海を前に怖気づいたが、必死に艦影を追った。
あのオルタンシアの海賊の船に、領民たちが徴用されていないことを祈り、そして、フェリックスたちが無事に戻ってくることも願う。
見たところ、オルタンシアの海賊の方が優勢に見えた。もともと内陸部で生まれ育ったフェリックスに海戦は不得手なのだ。陸に上げてしまえばいいのだが、そうなれば、損害は大きくなってしまう。
海賊の船を海で仕留めたいはずだろうが、意に反してどんどんと陸地の方に追い込まれているようだ。
「いけない!」
あのままでは浅瀬で座礁してしまう。
けれども、身動きが取れなくなったのは海賊船の方だった。
チェレグド公爵の軍艦は、海賊船よりも喫水がやや浅く、その差を利用して、浅瀬へと誘導し、自身は離脱したのだ。
そこへ陸上からの大砲が一斉に狙い撃ちにする。
「なかなかいい作戦ですな」
突然、話し掛けられたメイベルは驚いて振り向く。
「あなたは……!」
トレバーだった。
「なぜここに?」
「私には私めの役割がございますので」
その後ろには、”海の未亡人たち”とおぼしき数十人の男たちがいた。
皆、一斉にメイベルに視線を向ける。「本当にお頭にそっくりだ」「同じ顔だ」「こりゃあ、驚いた」
好意的なものではあったが、メイベルにしてみれば、オルタンシア公爵家で海賊たちに囲まれ、値踏みされた記憶が蘇ってしまう。
彼女は知らないが、メイベルの身が無事だったのは、その頃にはすでに老資産家からの打診があったからだ。海賊たちの内情は、厳しくなっていた。エンブレア王国からの反撃は激しく、オルタンシア公爵からは無心する金も尽きかけていたからだ。ならばオルタンシア公爵家から貴重なお宝を持ち出して、売り払ってしまえばいい。それが絵画でも装身具でも、娘であろうと構わなかった。
「こら! お前ら! お嬢さんに無礼な真似はするなよ」
メイベルの怯えを察したトレバーが叱ると、皆、照れくさそうに笑って、礼儀正しく挨拶をしたが、すぐにその顔が厳しいものに変わった。
オルタンシアの海賊が巧みな操船で浅瀬から脱出し、射程範囲から抜け出そうとしているが見えたからだ。
トレバーはメイベルを安心させるように解説してくれた。
「引きつけ方が甘かったようですね。
ですが、大丈夫ですよ」
島影から一隻、滑るように船が出てきた。
「あの船は……」
あの嵐の海で出会った”海の未亡人たち”の船が、オルタンシアの海賊の船に回り込み、正確無慈悲な砲撃を加え、再度、浅瀬へと追いやれば、陸からの攻撃も復活し、もはや為す術もない。「やぁ、我らが坊ちゃんは見事な腕前だ」
オルタンシアの海賊船が航行不能となったのを見計らって、エンブレア王国の私掠船も素早く海の向こうに消えた。
その頃、メイベルの立つ崖地は交戦状態にあった。
「お嬢さん、危ないから私の側から離れないように」
海での交戦に注目が集まっている隙をついて、海賊たちの一部が上陸していたのだ。
トレバーたちはそれを予見し、ここに陣を張っていた。急襲を予見された海賊たちは、崖を登り切ってすぐに討ち取られていく。
「あ……!」
一人、奮闘する男を見て、メイベルは声を上げた。オルタンシア公爵家に入り浸っていた海賊たちの首領格の一人だ。
「お前は……マティアス!!
いやぁ、メイベルちゃん、だったかなぁ?」
下卑た笑みに、心が怯んだ。
メイベルはあのならず者を思い出す。あの男と同じように、目が異様な輝きをしている。この男もまた、追い詰められていた。
「こんな所にいたのか、探したよ。
――お前のお陰で、こっちは大損でね!!」
襲いかかってきた男に、メイベルは落ちていた剣を拾って応戦した。一、二度、打ち合う。技量はあったが力が足りない上に、剣は血で濡れている。もう一撃、持つかどうか。彼女は覚悟したが、周囲にいた”海の未亡人たち”は一対一の戦いをするような行儀のよい人間たちではなかった。
「俺たちが相手だ!」
「女子どもに剣を向けるなよ!」
「ばーか、ばーか」
あっという間に、後ろから襲いかかる。
「殺すなよ。捕まえろ」
トレバーは手下に言ったが、思いの外、手練れだった男に手加減出来ず、結果、殺してしまった。
「まぁ、仕方が無い。
……お嬢さんは帰った方がいい。途中まで送りましょう。
大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」
「海が……海も海賊も……」
怖い。
メイベルは海と海賊を前にして、その言葉を呑みこんだ。
波音が彼女を引きずり込むように、耳に響く。
“海の未亡人たち“は、若い娘ならば死体が怖いのだろうと、口々に謝りながら、早々に後始末をはじめる。メイベルはトレバーに連れられてサラ・ロビンの元へ戻った。
***
「やっと帰ってきた!
――大丈夫かい? 何か……あったのか?」
そう聞いたサラ・ロビンだったが、フェリックスに何か出来た時間があったとは思えない。
「ああ、心配なんだね。
大丈夫さ。閣下はお強い。
戦場では”血に飢えた野獣”と言われているくらいだ」
メイベルは小さく頷いた。
「もうさっさと働いておくれ。
あんたは昼まで寝ていたんだろう。すっかり元気なはずだよ」
動いていた方が余計なことを考えずに済む。
しかし、今度ばかりは、メイベルの心は様々な思いが去来した。
このままではいけない。
なんとかしてオルタンシア公爵領から海賊たちを引き離し、エンブレア王国との和平を取り付けなければ。今回のことで、彼女の大事なものが二つ、争い、傷つけ合っている現実を、はっきりと視認した。
そして、“海の未亡人たち“が他の海賊たちとは違うと思うようにもなった。
いいや、同じ部分の方が多いかも知れない。だが、少なからず差異がある。それがあるかないかで、浅瀬が乗り越えられるか、座礁するかが決まるのならば、その差は大きいだろう。
メイベルは去り際のトレバーに「テオに会わせて欲しい」とお願いしたが、返事は芳しくなかった。「少しお待ちください」と言うのだ。グウェンダリンを経由して頼んだはすの”テオの母親”からも動きがなく、彼女は焦燥を募らせた。




