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002:人魚の浜

 メイベルには、新たに現れた男が敵か味方か判別出来なかった。

 人魚の言い伝えを利用して、あるいは故意に言いふらして浜の人間を出し抜き、悪事を働いていた男たちの方も、招かざる客に慌てて弁解と懐柔をはじめる。


「旦那、ちょっとお楽しみってことですよ」


「なかなかの上玉だ」


「それに活きがいい。旦那の相手まで十分出来そうですぜ」


 まるで人間の男を嘲笑うかのように、馬の嘶きが響いた。


「――その者から手を離せ」


 フェリックスの声が、怜悧な刃物のように空気を裂く。

 男たちの手が緩んだ機を逃さず、メイベルは走り出したが、すぐに足がもつれて倒れ伏してしまった。近くにあった大きな木に抱き着くようにして立ち上がるのがやっとだ。あとは己の運命の行く末を祈るしかない。


「旦那、そりゃあないですぜ」


「まさか独り占めしようとしているんじゃないですよね」


「ここは仲良く分け合いましょうよ」


 男たちは次第に焦りはじめたが、しつこく粘った。久々の獲物、それも滅多にない極上品を手に入れかけている。そのせいで、彼らは引き際を誤ったのだ。


 剣が抜かれる音に、不満の声が止む――「恥を知れ」


 ドサリと大きなものが地面に落ちる音がした。メイベルの頬に、生暖かい血しぶきがかかった。さらにもう一人……。暗闇の中にもかかわらず、男は正確無慈悲に剣を振るっていく。残された一人は声にならない悲鳴を上げて、逃げていった。

 フェリックスは彼を追うことはせず、血と脂を拭うと、剣を納め、動けないでいるメイベルに、まっすぐに歩み寄る。


「大丈夫か?」


 その声を合図にしたかのように、再び、雨が一粒ぽつりと落ち、あれよあれよと雨脚が強くなった。

 決断が速い公爵は有無を言わせず、メイベルを抱き上げると、馬に乗せた。

 心も身体も疲れ果て、冷え切っていた彼女に、もはや抵抗出来る力はない。


 そんな彼女を安心させようと、フェリックスは丁寧に名乗った。


「怖がらなくてもいい。私はフェリックス。君は?」


 尋ねたものの、返事は諦める。腕の中の娘は、怯えと寒さで、歯の根が合わないほど震えているではないか。馬上で密着した身体は氷のようだ。一刻も早く、手当てが必要だろう。


 フェリックスは館へ急いだが、嵐のせいで、小規模な土砂崩れが起きており、道が塞がれていた。「まずいな」


 この雨と闇をついて道を迂回するよりも、彼は近くに建てられた漁師たちの休憩兼密漁の監視小屋に避難することにした。そこなら小さいながらもきちんとした造りで、室内は粗末だったが常に手入れされ、火をおこす道具も揃っている。馬も一緒に小屋の中に入れた。メイベルを下ろし、彼は防水外套と上着を脱ぎ、シャツを腕まくりすると、素早く火を起こす。それから、水瓶の中に残されていた飲み水を汲み、彼の愛馬の側で震えながら立ちすくんでいるメイベルに渡した。


「喉が渇いているだろう。さぁ」


 やや生臭い水だったが、それを見た瞬間にメイベルは我を忘れたように彼の手から受け取り飲み干した。

 フェリックスはその間にようやく彼女を観察する機会を得た。

 硬質で美しい顔立ちをしている。瞳は緑色で、豊作の麦畑のような金色の髪の毛は短い。華奢な体を包むずぶ濡れの男物の服はところどころ破けて、血が滲んていた。波に揉まれた時、あるいはならず者に抵抗した時についたのだろう、額にはひときわ大きな傷があった。


 水を飲み終えたメイベルも彼を見返す。

 彼女もまた、自分を助けてくれた人の姿を視認した。髪も瞳もはしばみ色で、鋭い目つきをしているため、どこか猛獣めいている。夜目も効くようだ。頬に手をやれば、雨では洗い流しきれなかった誰とも知らぬ男の血がべったりとついた。

 男たちから救うためにそうしたのだと分かっていても、恐ろしかった。彼が自分を見続けているのもそうだ。

 それなのに、魅入られたように目が離せないでいる。

 火が爆ぜる音がして、フェリックスの視線がようやく外れので、メイベルはほっとした。

 いつの間にか、顔が熱くなっていた。もっともそれで全身が温まるはずもなく、身体の震えは止まらない。


「服を脱いだ方がいいな」


 フェリックスは淡々と言ったが、メイベルはその意味を取り違え、目の前が真っ暗になる。

 助けてくれたのではなかった。先ほどの男たちと同じなのだ、と。

 外は嵐。今度こそ、逃げられないだろう。だったらいっそ――。


「何を考えている、凍え死ぬつもりか」


 明らかに誤解している彼女に、フェリックスが否定を込めた強い口調を投げかける。大きなため息をつくと、床に落としてあった上着の懐から短剣を取り出す。優雅な意匠を凝らした鞘から引き抜けば、一点の曇りもない刀身が光った。


「それを見てみろ」


 メイベルは男に武器を渡されて驚き、訝しんだが、磨かれた短剣に映った自分の姿を認めると、はじめて額に大きな傷があることに気が付いた。すると同時に襲ってきた痛みに顔を顰める。その痛みが、彼女を冷静にさせた。


「どうだ、死にたいのか?」


 彼女は、はっきりと首を横に振った。

 緑色の瞳に、フェリックスが熾した炎が映る。 

 フェリックスの口元が緩み、自分の服を脱ぎだしたので、メイベルはまたもや身構えた。

 彼から渡された短剣を向けてはみたものの、それで怯む相手とは思えなかった。肉体は鍛え上げられ、鋼のようだ。それでも最後まで、メイベルは諦めないと決めたのだ。

 ……そう思わせたのは、目の前の男ではないか。なぜか、絶望よりも、失望が勝った。

 その短剣の先に、フェリックスは脱いだばかりの自分のシャツをかけた。


「脱ぎ終わったら、これを羽織っておけばいい。少しは気が休まるだろう」それから背を向けて、暖炉の火をせっせとおこしはじめた。「濡らさないよいに気を付けてくれ。ここで完全に乾いている服はそれだけだ」


 本当に自分の身を案じてくれているらしい。

 メイベルは己の誤解を恥じ、同時に安心して気が抜けてしまった。


 この状況下で最大限の配慮をしたと言うのに、動く様子のない娘に、フェリックスは苦笑して、横目で様子を伺った。するとふらつく彼女を彼の馬が鼻づらで支えている。

 慌てて駆け寄り、愛馬から彼女を受け取れば、ヒヒンと、勝ち誇ったように嘶かれた。


「……ありがとう、“宵闇”。

おい! しっかりするんだ」


 朦朧としながらも、メイベルはフェリックスの胸を押しやろうとしている。


「やれやれ」


 フェリックスはそんな彼女に微笑むと、シャツが濡れないように片手に掲げ、もう片方の腕で軽々とメイベルを担ぎ上げると、火の側まで運んだ。

 炎は燃え盛っていたが、彼女の濡れた服を乾かし、身体を温めるほどではない。

 フェリックスがメイベルの濡れた服に手をかけたので、彼女の身はまたも強張った。


「私を信じて欲しい。こんな嵐の中、困っている娘に無体を働くような人間ではない」


 フェリックスは心外なのか眉間に深く皺を寄せている。

 メイベルにしてみれば、たとえ生きるためとは言え、異国の地で、はじめて会った異性に肌を晒すことに対する恐怖と羞恥で、反射的にそうなってしまうのだ。分かって欲しい。


「……恥ずかしいのならば、目を閉じていればどうかな?」


 メイベルは自分の気持ちを訴えたいあまり、フェリックスを凝視していたようだ。

 それはそれで恥ずかしい、と首を横に振るが、傍目にはただ震えているだけのようにも見える。


「君は強情な娘だな」


 フェリックスの眉間の皺がますます深くなる。

 メイベルの身体の震えが大きくなる。

 親切を無下にされて、怒っているに違いない。彼女がこれまでいた世界では、”強情な娘”は男に殴られても仕方がないとされていた。この世界では殺されるのだろうか。

 『あ……あの』誤解を解こうにも、上手く声が出なかった。メイベルのか細い声は外の嵐にかき消されてしまう。けれども、自分が”花麗国”語で話そうとしたことに気づき、これまで、彼に対し、一言も言葉を発していなかったことに感謝した。

 この地の人間が話す言葉はエンブレア語だ。つまり敵地に流れついてしまったのだから、自分が”花麗国”出身だと言うことを、知られない方がいいと考えたのだ。

 その代わりに、彼女は意を決して、目を瞑った。


「……ありがとう」


『――!?』

 

 フェリックスが礼を言うので、驚いたメイベルはまた目を開けてしまう。その瞳に映ったのは、「私を信用してくれたのだろう?」と言う、思いもかけず優しそうな微笑だった。数度、瞬きする間に、また難しい顔に戻ってしまったのが、とても残念だと思った。

 今度こそ、メイベルは本当に彼を信じようという気持ちになった。

 再び目を閉じたのを確認したフェリックスの手がゆっくりと、彼女の濡れた衣類が身から剥がしていく。

 あんまり丁寧な手つきがもどかしくて、逆に恥ずかしさが倍増される気がする。たまらず片目をうっすらと開けて様子を覗うと、フェリックスはやっぱり眉間に皺を寄せていて、どことなく不本意そうだ。赤々と燃える炎が、彼の顔を赤く照らしている。その炎と、フェリックスから伝わる熱が、メイベルの身体を温め、耐えがたい睡魔が襲ってくる。


「――安心して眠るといい。もう、頑張らなくても大丈夫だよ」


 炎が燃える音とフェリックスの低い声と言葉が心地よく響く。

 朦朧とする意識の中、メイベルはフェリックスが囁いた言葉が自分の国のもののように聞こえた。


『ここまでよく頑張ったよ。君はとても立派だった。私は君を尊敬している』


 それを最後に、ついに瞼がくっつき、彼女の長い一日が終わった。

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