016:黒衣の影
サラ・ロビンからの合図を受け、フェリックスは夜陰に紛れて彼女の家に忍び込んだ。
考えてみれば、この土地もこの城館も、この厩と母屋だって、自分の持ち物じゃないか。
この中で、自分のものと断言出来ないのは、寝台で寝息を立てている彼女くらいだ。今持っている全てを捧げて、この娘を貰えるなら、そうしてしまいたい。
「あたしがいるのことを忘れないでくださいよ。公爵閣下」
マイラ夫人に倣ったのか、箒を片手に立っているサラ・ロビンの目は冷たかった。
「分かっている……」
”時雨”と”あられ”が”ご主人さま”に向かって、唸り声を上げる。勘弁して欲しい。お前らなんて毎晩、彼女と同じ寝台で寝ている幸せもののくせに。
「閣下!」
「分かっている!」
彼はやっとのことで、メイベルの枕の下から帳面を取り上げた。
「あちらで読んでくださいよ。灯りで”マティアス”が起きるかも。そうしたら面倒です」
あたしが疑われるのはまっぴらご免だよ! とサラ・ロビンは目で訴えた。そうでなくとも、公爵の愛人呼ばわりされているのだ。
フェリックスも当然、それは理解している。彼は帳面と灯りを持って、馬房の方に移動しようとした。
「……これは?」
「ああ、今日の夕飯です。”マティアス”が作ったんですよ。
――――――たべますか?」
「そんなに欲しそうな顔をしているか」
「ええ。とても」
今朝、メイベルは魚を手に入れた。女王滞在の為、休みはなく、街へ行くことが出来なかったが、その代わりに、お願いすれば、必要なものは調達出来るようにされていた。そこで、魚を頼んだのだ。
頼まれた方は心得たもので、「ちゃんと鱗を取って、内臓も抜いたやつを納めさせました」とフェリックスに報告した。そこまですれば、後は煮るなり、焼くなり、揚げるなり、どう調理しても、まず、食べられないことはないだろう。
が、メイベルは”花麗国”風に香草蒸しにしていた。
サラ・ロビンが盛ったメイベル作の”海老は手に入らなかったので、魚だけ、近くにあった草で蒸しました”料理を片手に、フェリックスは”宵闇”と”炎陽”の鼻息を聞きながら、帳面を捲った。
明日も早いから、もうそろそろお引き取り願いたいものだ。
持っていた箒は逆さまに立てかけて、サラ・ロビンはイライラしながら、フェリックスが帳面を持って戻ってくるのを待っていた。
メイベルが身動きする度に、身体が跳ね上がるほどだ。「あたしはこういうのは得手じゃないよ」
ついにウトウトし、少し眠ったようだ。
気が付くとフェリックスは帳面を戻し終わっていた。
「すまなかったな」
公爵相手だって、文句の一つは言う権利がある! と意気込んでいたサラ・ロビンだったが、フェリックスを見て、言葉を呑んだ。意気消沈している。
「……大丈夫ですかい?」
「ああ……」
言葉少なめに答えたフェリックスは、空になった器をサラ・ロビンに渡した。
「まぁまぁ食べられる味でしょう。あの娘は料理が出来るようです」
「……………そ、そうか? あ、いや、そうだな」
「美味しくなかったんですね」
公爵の表情は、その昔、彼女の夫が妻の作った料理を食べた時と同じだった。城館で飼っていた犬にやろうとして拒絶された味だ。ちなみに、”時雨”の親犬だ。
「味の話は置いておいて、それよりも、あの薬、いくらなんでも効きすぎる。体質に合わないのか、もしくは合いすぎるのかもしれない」
フェリックスはそろそろ夜が明けると言うのに、未だ深い睡眠に入っているメイベルを心配し、不安に思った。
「毎晩、どれくらい飲んでいる?」
「どれくらいって……公爵閣下のご指示を忠実に守っていますよ」
「え……!」
あんなすさまじく酸っぱい煎じ薬を全部?
声は無くても、サラ・ロビンには聞こえた。
「どう言うことですかい?」
あまりに酸っぱいので、決められた量を飲み切れないのは織り込み済で、多めに設定されているのだ。
「あんな不味いものを全部、飲みきるなんて、信じられない」
サラ・ロビンは公爵から受け取った空の器を見た。
どっちもどっちだよ。
***
メイベルは帳面にたくさんのことを書いていたが、そのほとんどは、生きていく上で必要な、しかし、彼女が知らなかったことばかりだ。サラ・ロビンや街の人間たちが使う言葉の意味も記されている。書く字は整っており、異国語のはずだろうに語彙が豊富だ。相当な教育を受けていることが、ここでも分かるが、手跡は男のそれだった。
マティアスについては何も書かれていなかった。
他は自分との会話が占めている。あの時、あんな表情をしていたな、と思い出に浸るあまり、読み込むのに時間がかかった。ようやく最後の頁までたどり着いた時に目に飛び込んだ文字に、フェリックスは唖然する。
頭痛と吐き気がしてきた。
……胃が気持ち悪いのは、あの魚の料理のせいだ。水が欲しい。話はそれからだ。
館に戻ろうとしたフェリックスだったが、風景の一部だけ、やけに闇が深いことに気づく。
太陽は東の海からちらりとその美しい白い足を覗かせはじめていると言うのに、そこだけ光が届いていない。
「そこにいるのは誰だ――」
フェリックスは剣に手を掛けた。
全身黒い服に、フードをかぶった人間がいる。過日、厩に侵入した賊か、それとも別の賊か。
黒い影は返事をせずに、去っていく。
「待て!」
追いかけるが、見失ってしまった。サラ・ロビンが評したように、妙に優雅な動きで、身軽だった。同じ男のようだ。
「――っ! これはこれは公爵閣下! おはようございます。昨夜はお楽しみでしたか?」
黒衣の代わりに派手な服を来た男が現れた。ネイサンだ。そういう彼こそ、街で一晩明かしてきたようだ。酒と女の香りがする。
剣をつきつける。
「こちらに曲者が逃げて来た。お前か?」
「ええ!? 滅相もないことです。この私が?」
「そうだな……何か見たか?」
「公爵閣下が朝帰りをしているところなら」
ネイサンの視線がフェリックスの後ろにいく。あちらにあるのは厩か――。
「お宅は随分と早起きだな?」
「まさか! 閣下の良きお仲間ですよ」
ニヤニヤ笑う男と一緒にされたくなかったが、敢えて否定しない。しても無駄だろう。
「あまり羽目を外さないように。
女王陛下の身辺の風紀を乱すようなことがあれば、退去していただく」
「それはチェレグド公爵閣下のことではありませんか?
そして女王陛下も」
「なんだと?」
「あの厩の雑用係。まだ少年のようですがね。暇さえあれば女王陛下がべったりくっついているのは、よろしくないですな。
それに、公爵閣下も頻繁に厩へ行っている。あの未亡人が目当てですか?
それとも……まさか――」
フェリックスの虐げられた胃が、悲鳴を上げはじめた。「失礼」
館までは持たず、草陰に胃の中のものを吐き出した。「くそっ。あんな男から敵前逃亡のような真似をすることになるなんて」
誇り高きチェレグド公爵をやり込めたことに、ネイサンはこれまでの溜飲を下げた。
「しかし、これだけでは足りないな。女王陛下も公爵閣下も少し”反省”してもらいたいものだ」
そのためには――ネイサンはフェリックスが来た方を、もう一度、確認した。
あちらには厩がある。女王と公爵のお気に入りの雑用係がいる。
「あれは女だよなぁ」
ネイサンには女好きとしての自負があった。グウェンダリンのような小娘とは経験が違う。
「しかもかなりいい女と見た。是非、頂きたい所だが……もっと面白い趣向を考えられるはずだ」
上手くやれば、公爵を貶め、女王との信頼関係を台無しに出来る。
あの娘のことは、それからでも遅くない。むしろ好都合のはずだ。彼女は強大な二人の後見を失うのだから。
「完璧な計画だ。さて、ひと眠りするとしようか」
満足して館に用意された自室に引き上げるネイサンは、近くの木の上が、そこだけ黒く人の形に切り取られていることに気が付かない。




