001:公爵の地
重く垂れ込めた雲が月を覆い隠す暗闇の中、ずぶ濡れの影が走っている。
影の正体はメイベルという娘で、乗っていた船が沈み、命からがら浜辺に辿りついたばかりの身の上であったが、そんな彼女に差し伸べられようとしているのは、暖かな救助の手ではなく、性質の悪い男たちのそれだった。
砂の上に倒れ込んでいたところを乱暴に引き起こされる。ランタンの灯で浮かび上がった顔を見て、男たちは口々に言う。
「こいつ、男の格好をしているが、顔は女みたいに綺麗だな」
「おい、お前は女か? どっちなんだ?」
「なに、ひん剥いてみれば分かるさ。
男だったら着ているものを売りさばけばいい。悪くはない服だ。もし女だったら――」
メイベルにとっては異国の言葉だったが、心得があった。それにもし、言葉が分からなくても、この状況が歓迎せざるものだということは、年頃の娘ならば十分、察することが出来るだろう。
波に揉まれ、体力はもう限界ではあったが、それでも気力を奮い起こして逃げ出す。
男たちの笑い声が追いかける。嵐の名残の風が吹き付ける中、柔らかな砂浜の上では足は上手く運べまい。すぐに追いつけると高をくくったのだ。
だが、細く軽い身体は湿った砂の上に乗り、追い風に煽られながら素早く移動していく。獲物が防風林の間へと入ってくのを見た男たちは慌てて走り出した。すぐに追いついて、後ろから地面に突き飛ばす。
「手こずらせるなよ、お嬢ちゃん!」
逃げきれなかった娘は、それでも抵抗を諦めない。手を伸ばすと運よく、強風で折れた枝と思しき棒のようなものを掴むことが出来た。伸し掛かろうとした男をそれで打つと、これまた上手いことに急所に当たったようで、叫び声が上がり、身体が離れた。
「この!」
男たちの耳に、棒を振り回す風圧と音が聞こえた。心得があるようで、筋がよく、なかなか間合いに入れない。
「お遊びはここまでだ――!」
それまでの余裕をかなぐり捨て、ならず者たちが一斉に襲い掛かる。
「こら、暴れるな!」「おい、それは俺の手だ!」「馬鹿! 灯りを落とすな!」
暗闇と、男たちの無秩序さは、不運な遭難者の味方になってくれはしたが、それも長く続くものではない。
「捕まえたぞ!」
「やっぱり女じゃないかぁ? この柔らかさ。いいねぇ」
『…………』
思いもかけない激しい抵抗からの捕獲に、男たちは肩で息をつきながらも、興奮で口が止まらない。
悔しさで唇を噛んだメイベルの耳に、馬の嘶きが聞こえたような気がした。気のせいではない。自分たち以外に、誰か来た――。
捕物に夢中だった男たちも、鼻息がかかるほど近くに来てからやっと気づく。
「お前たち、何をしている!」
馬上から投げかけられた声は、威厳と怒りに満ちていた。
***
その日、エンブレア王国のチェレグド公爵・フェリックス・シャルル・ルラローザは、主君から新たに任せられて三年になる自領に、ひと月ぶりにやって来た。彼にとってそこは、はじめて得た海に面した領地だった。出かける前に命じた仕事の成果を確認した後、海岸線を馬で駆けていると、いつもなら沖合で漁をしている船が、きつく固縛されているのが目に入った。
「どうした?」
聞けば、その小さな漁村の長老が、嵐の予兆を感じ取ったと言う。
「こんな良い天気なのにか?」
青い空を見上げる。
内陸で育ったフェリックスには海のことには疎い。が、長くその地で暮らした人間の言は尊重すべきものがあることは知っていた。
「あっしも俄かには信じがたいんですがね。あのじいさんがそう言う時は、当たるもんでねぇ」
漁師は尊敬と親しみのこもった態度で、新しくやって来た領主さま相手に答えた。
「私に何か出来ることは?」
「いえ! 何も……いや、今はまだ……ごぜえませんが、もしかしたら、お力をお借りするかもしれません」
このように嵐に備えられた人と船は幸いである。しかし、不運にも嵐に巻き込まれる人と船もあるのだ。
その時は、同じ海に生きるものとして、村人総出で救助に駆けつける義務があった。
「分かった。何かあればすぐに知らせてくれ」
フェリックスは先ほどまでいた浜の人間にも伝えた方がよいと考え、人を遣ると、自身は一旦、館に戻った。
「少しお休みになって下さい。顔色が悪く見えます。ここのところ働き過ぎじゃありませんか」
館の家政婦長でもあり、元は乳母のマイラ夫人が彼を案じた。
「マイラ夫人が私のことを、それも身体のことを心配してくれるとは! 珍しいこともあるものだ。嵐が来るのはそのせいかな?」
「坊ちゃま!」
普段は厳しいが愛情深い彼の乳母に感謝しつつも、軽口で返す。
ここ数か月、休む暇がなかったのは事実だ。先祖代々受け継いできた領地と新たに得た領地の経営、王都での責務、外交問題、そして争い。その備え。やることばかりだ。
若さと頑強な身体で押し切ってきた。そろそろ休息してもいい頃合いだったが、情勢がそれを許してはくれそうにない。
天気は夕方頃から荒れ出した。剣を身に帯びたまま、暖炉の火の側に座っていると、眠気が襲ってくる。
小さい頃から彼を見守って来たマイラ夫人には、フェリックスがすっかり疲れ切っていることを彼以上に分かっていた。このまま何事もなく、この“可愛い子”が身体を休めることが出来ることを祈るばかりだ。
だが、夜半過ぎにあの漁師がやって来て告げる。沖合で商船が沈没し、海岸に何人かの人と積荷が漂着しはじめた、と。
「それがどうも“花麗国”の船のようで、嵐だけでなく、海賊にも襲われたらしいです。まったく情け容赦のないことで」
「“花麗国”? 海賊?」
そのどちらもエンブレア王国の公爵にとっては“敵”の部類に入った。海を挟んだ隣国である“花麗国”とは友好と敵対の歴史を繰り返し、現在は後者の間柄であった。海賊については、一概には言えないが、表向きは掃討する立場にある。
ともあれ、海で奇禍にあった者たちを等しく救助しなければいけないのは、前述の通りだ。
フェリックスはすぐさま、部下を海岸に向かわせ、自身も防水外套をまとって再び馬に乗る。
駆けつけてみれば、海辺に生きる人々は手慣れたもので、すでに遭難者たちを家に運び、乾いた布で包み、意識がある者には温かい飲み物を与えていた。もっとも、惜しみなく救助の手を差し伸べつつも、彼らは警戒を怠らなかった。助けた人間の身元はまだ不明だ。海賊が混じっているかもしれないし、“花麗国”の間者が潜んでいるかもしれないからである。島国であるエンブレア王国の民にとって、海は国境であり、護りの要だった。チェレグド公爵が新たに派遣された理由もそこにある。
フェリックスは率いてきた部下たちを、そのまま海岸防備の任につけた。
そうこうしている内に、雨と風が弱まってくる。部下や漁師たち、その家族が忙しく働いているのを見ていたフェリックスに、部下の一人が近づいてきた。
「ここは我々に任せて、閣下は先に戻ってお休み下さい。僭越ながら、かなりお疲れのようにお見受けします」
そうはいかない。一度は断ろうとしたが、もはや彼が現場で判断し、指示しなければならないことはなさそうだ。部下たちも浜の人間たちも、自分たちがなすべきことを心得ている。
「そうだな……では、そうさせてもらおう」
そう言うと、部下の顔に安堵と誇らしさが過った。
「誰かつけます」
「いや、一人で大丈夫だ」
「しかし……」
「そんなに心配するな。私がか弱い乙女に見えるか?」
返答に窮する部下を置いて、馬に跨る。一人の方がいっそ早く帰れるというものだ。
不意に、今いる浜辺の向こう側にも小さな砂浜があることを思い出した。「あちらにも人が流れ着いているかもしれないが、誰か行っているのか?」
「いいえ……あの浜は…」部下は言い淀んだ。
「何かあるのか?」
「地元では人魚の浜と呼ばれているようです」
フィリックスもそれは聞いたことがある。しかし「こんな嵐の夜には、船を沈めた人魚が獲物を追ってやってくるそうです」と言う話は初耳だった。
「……そうか」
そう言い伝えられているからには何かあるのだろう。往々にして危険な場所に対しての警告であることが多い。が、フェリックスは妙に引っ掛かるものを感じたので、館に戻るついでに、遠くからでも様子を見て行こうと決めた。身軽さは彼の長所であり短所であった。
そこで、乱れる小さな灯りと下卑た男たちの声を聞き、ただちに状況を把握した。
自分の領民たちの全てが善良で正しい人々とは限らないことを、彼は残念に思いつつも、また事実であることを知っていた。