目が覚めて
なんだかまぶたが温かい。
春人が目を覚ますとカーテンが開いていて朝日が差し込んできている。久しぶりによく寝た満足感を感じ、体を起こし、ぐっと伸びをする。頭も体もとても心地がいい。
軽いノック音の後に砂川医師と戸部さんが部屋に入ってきた。
「岡崎さん、気分はいかがですか?」
「すごくよく眠れてすっきり目が覚めました」
戸部さんが体温計をおでこの前にかざす。ピピッと電子音がすると
「36.4°で、熱はありませんね」
いつも通りの柔らかい笑顔だ。
一方、砂川医師は薄っすらとクマができ、なんだか眠そうな目をしている。
「それでは岡崎さん、治験後の問診をしますね」
「はい、お願いします」
「体に違和感があったり、頭痛やだるさはありますか?」
「いいえ、特にないです。頭痛もないですし、なんだか体が軽い感じです」
「そうですか。それは良かった」
砂川医師は、何やらバインダーに挟んだ書類にメモをしている。
「それでは、いくつか質問をさせてくださいね。岡崎さんは、大学卒業後どういったお仕事をされていましたか?」
「・・・」
思い出せないというか全く覚えていないというか、その部分だけ真っ白という感覚だ。
「では、次の質問に移ります。仕事で一番、しんどかった出来事はありますか?」
「・・・。う~ん。・・・。分からないです」
これもまた何も思い出せないというよりその部分がない感じだ。
「職場の人間関係で、誰か思い出す人はいますか?」
職場の人で思い出す人?この質問をされても、何も思い浮かばず答えが見当たらない。真っ白、空白、“無”だ。
「分からないです。誰も思い浮かばないです・・・」
「はい。大丈夫です。では、今思い出そうとして嫌な感じがしたり、不安を感じたり、胸がモヤモヤしたり、体がこわばったりという感覚はありましたか?」
「いいえ、ないです。質問されて嫌な感じもないですし、全く空っぽみたいでなんだか不思議です」
砂川医師は、また何やら書き込み、満足そうに微笑む。
「はい。質問は以上です。治験は問題なく終了しましたのでご安心ください。今後1週間は、ご実家でゆっくり過ごしてください。日常生活に制限はありませんが、岡崎さんの場合、すこし痩せ気味なので、栄養を取って規則正しい生活を心掛けてくださいね」
「はい。わかりました」
「あと、今後の診察なのですが、まず2週間後にオンラインで行いたいのですが、スマホかパソコンどちらでも構わないのですがいかがでしょう?」
「ええ、スマホもパソコンもありますし、基本的な操作は問題ないと思います」
「そうですか。それでは、以前記入して頂いたメールアドレスに、オンライン診療についての資料を送っておきますね。2週間後の診察で問題がなければ、1か月後に1回、3か月後に1回とオンラインでお話をお聞かせいただければと思います。もちろんいつもと調子が違うなと思うことがありましたら、いつでもお電話でもメールでも構いませんのでご連絡くださいね。ここまでで分かりにくかったことや何か質問はありますか?」
「あのー、実家に帰ってから転職先を探す予定なんですが、いつごろから活動をはじめてもいいですか?」
砂田医師は書類をめくりながら何か書き込んでいる。
「できれば、体調を整えるために2週間はゆっくりと過ごしていただきたいので、そうですね・・・。1回目のオンラインの診察が終わってから、少しずつはじめてみてはいかがですか?」
「分かりました。そうします」
「他に何か不安なこととか質問はありますか?」
「今のところありません」
「はい。これで問診を終わりです。岡崎さんお疲れさまでした。ではこれからゆっくり朝ごはんを食べてくださいね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
満足そうな表情を浮かべ砂田医師は、戸部さんと共に部屋をあとにした。
しばらくすると再びノック音が聞こえ、配膳カートを押した戸部さんと笹川さんがやってきた。トレーの上の朝食の真っ白なご飯が湯気を立てている。出来立ての温泉卵と、焼き魚は鮭の西京漬け。なめこの赤だしの味噌汁と焼きのりと納豆、きゅうりとなすの浅漬けか添えてある。おなかがぐう~っと鳴る。春人は、みそ汁を一口飲んでご飯を頬張る。もちもちで甘みがあって幸せな気分になる。笹川さんも昨日は熟睡して、朝早く目覚めたらしい。さっき研究所の周りを散策したそうだ。
「やっぱりここは、朝晩は涼しいし、空気も食事もおいしいですね」
「俺も散歩すればよかったな。ごはんもすごくおいしいですね」
食事後は、各々部屋で身支度をして時計を見ると、退院の時刻が迫り、荷物をまとめてエレベータで1階のロビーまで下りた。眠そうな目を擦りながら砂川医師も出てきて見送ってくれるようだ。玄関前には車が横付けされており、運転席には戸部さんが乗っている。笹川さんとともに後部座席に乗り込む。空が青く風吹き抜けさやさや木々を揺らし心地よい。
「私が岡崎さんの実家までお送りしますね」
「戸部さん忙しいのにすみません。よろしくお願いします」
「気にしないでください。私、今日は岡崎さんを送り届けた後、午後久しぶりのお休みなんで、うれしくて。では出発しますね。」
玄関前のロータリーをゆっくりとまわり車が進みだした。
「ご実家につきましたら、戸部さんと私からご家族の方に詳しく説明しますので、岡崎さんは、お部屋で休んでいてください。実は、昨日お母さまには、岡崎さんが入院されていて、今日お宅にお送りしますとお伝えしていますので」
「分りました。色々して下さって、すみません。よろしくお願いします」
「いいんですよ。お気になさらず。お疲れでしょうからご実家に着いたらゆっくりなさってください」
何から何まですみません笹川さん。やさしいし段取り上手ですねと心の中で感謝した。
「実家に帰るのは、2年ぶりです。しばらくゆっくりしたいと思います」
「ずいぶん帰っていなかったんですね。ご両親きっと春人さんが戻ってきて喜ぶと思いますよ」
ミラー越しに戸部さんも微笑んだ。
実家に着くと玄関で出迎えた母に、部屋で早く休むように言われ強引に2階の部屋に押し込められてしまった。笹川さんと戸部さんは、1階の居間に通されたようで、30分ほどすると階段の下から声がかかった。
「春人、笹川さんと戸部さんがお帰りになるからお見送りして」
階段を下りていくと既に靴を履き終えた笹川さんと戸部さんが振り返りほほえみ
「それでは、岡崎さんお大事になさってください。何かありましたら、笹川でも砂田医師でもかまいませんのでご連絡くださいね。では、お母さま私どもは失礼いたします」
「息子が大変お世話になりまして、ありがとうございました」
二人が帰ると
「笹川さんと戸部さんから話は聞いたから、春人は部屋でゆっくりしてなさい。まったく、しばらく帰ってこないと思ったらこんなに痩せちゃって。まずは体調を整えないとね。お昼出来たら声かけてあるから、下りてきなさい」
昼食は揚げたての天ぷら付きのそうめん、夕食は春人の好物の豚の角煮や鳥のから揚げ、ポテトサラダ等食べきれないほどの料理が並んだ。おまけに仕事帰りの父が帰りにたこ焼きまで買ってきて
「春人、夕飯の後でも、たこ焼き食べろ。少しやせすぎだぞ。別腹だろ?」
と無理やりたこ焼きを押し付けてきて、これもあれも食べろと大騒ぎだった。